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灰色の審問  作者: ゆの
4/5

4話 灰色の内側




 ガルドは大人しく連れていかれた。


 縄を打たれた手首を前に揃え、俯いたまま歩いている。衛兵が二人、その両脇を固めていた。朝日が路地を照らし始めていた。


 引き渡しを終え、ヴェルンが踵を返したとき、笛の音がした。


 足を止めた。高く、短い音が二回。衛兵の合図ではない。音色が違う。方角は——南の路地。市場の裏手だ。


 走り出した。


 路地は複雑に入り組んでいた。


 角を曲がるたびに、喧騒が遠くなる。石畳を蹴る音の向こうに、人の気配があった。複数。行き止まりの方向だ。


 突き当たりで、見つけた。


 三人の男に追い詰められていたのは、一人の少女だった。


 壁に背をつけ、息を切らしている。


 茶色の上着。乱れた髪。まだ幼い顔。


 ヴェルンは三人の男を見た。


 整った外套。手入れされた剣。足の運び。


 追剥ぎではない。


「あなたは——」


 少女が顔を上げた。その言葉の続きは、ヴェルンの声に遮られた。


「なにをしている」


 三人の男が、一斉にヴェルンを見た。


「灰色の剣……!」


 三人の構えが、わずかに乱れた。しかし少女に最も近い男だけが、すぐに顔を歪めた。


「連れていけん。始末する」


「待て、生かせとの命だ」


「灰色の剣に見られた。残せば終わりだ」


 男は短く吐き捨て、剣先を少女へ向けた。刺突の構えだった。


 ヴェルンはすでに動いていた。


 ヴェルンは低く走った。

 男の脇を抜ける一瞬、灰色の刃が下から跳ねた。


 鋭い音が路地に弾けた。


 男の剣は根元から砕け、折れた刃が少女の傍へ転がった。


 ヴェルンは少女を庇う位置に立った。剣を外套の陰に引き、男たちと向き合う。


「武器を捨てろ」


「お前には関係のないことだ。出しゃばるな」


「その剣を下ろせ。罪を重ねるな」


 沈黙があった。


 男たちが目を見合わせた。次の瞬間、後ろの二人が同時に動いた。


「引くぞ!」


 短剣が二本、空を切った。


 狙いはヴェルンではない。少女だった。


 ヴェルンは半歩、位置を変え、少女と刃の間に入った。


 一本を剣で弾き、もう一本を左の籠手で逸らした。


 金属が石壁に当たって跳ねた。振り返ると、三人の背中が路地の向こうへ消えていくところだった。


 足音が遠ざかる。やがて、静かになった。


 少女は壁に寄りかかり、その場に座り込んでいた。


 ヴェルンは剣を鞘に納めた。少女を見ずに、折れた剣の柄を拾い上げる。


「怪我はないか」


 柄を手の中で回しながら言った。返事を待つような間があった。


「……はい」


 掠れた声だった。


 ヴェルンは柄の意匠を確認した。細かい細工。見覚えのある紋様だった。騎士団のものだ。追剥ぎではないと思っていたが——厄介なことになった。


 ようやく、少女を見た。


「何があった」


 少女は口をつぐんだ。


「名は?」


 それにも答えなかった。ただヴェルンを見ていた。警戒しているのか、判断しているのか。怯えているだけの目ではなかった。


 ヴェルンは息を吐いた。


「家はどこだ。送ろう」


「……もう帰れない」


「なぜだ」


 少女は少し間を置いてから、ヴェルンの目を見た。


「あなたは、なぜ私を助けたのですか」


「……子供を守るのは大人の義務だ」


 少女の目が、わずかに揺れた。


「あなたは奴らとは違うのね」


 それから、少し躊躇うように続けた。


「私は命を狙われているの。お願い、匿って」


「それはできない」


 即答だった。


「どうして——義務なんでしょう?」


「事情も名も知らない者を、家には入れられない」


 ヴェルンは少女を見た。


「帰る場所があるなら、そこへ戻す」


 ヴェルンは踵を返し、歩き始めた。


 背後で、小さな声がした。


「もう帰る場所なんて……」


 足音がした。


 次の瞬間、何かが風を切った。ヴェルンは振り返りながらゆっくりと剣を抜いた。


 少女が折れた刀身を両手で持ち、こちらへ向けていた。手のひらに刃が食い込んでいた。血が滲んでいた。それでも、落とさなかった。


「止まりなさい、ヴェルン・アッシュ!」


 ヴェルンはゆっくりと歩み寄った。


「知っていたか。では——俺に剣を向けるとどうなるかも、知っているな」


 少女の体が震えていた。目に涙が溜まっていた。それでも、刀身を下げなかった。


「捨てろ。血が出ているぞ。それに、俺に剣を向けてどうする」


 その言葉を聞いた瞬間、少女から力が抜けた。


 刀身が落ちて、石畳の上で跳ねた。少女はその場に崩れ落ち、顔を両手で覆った。


「もうマリアにも、オーウェンにも会えないかもしれない……」


 すすり泣く声がした。


 ヴェルンはしばらく立っていた。


「……両親か?」


 首を横に振った。


「では、使用人か」


 少し間があった。それから、小さく頷いた。


 ヴェルンは少女を見た。町娘の服。しかし所作が違う。言葉遣いが違う。そして自分の名前を知っていた。


 貴族か、商家の娘か。この子だけ逃げ延びたか。


 少女が顔を上げた。目にはまだ涙が残っていたが、ヴェルンを真っすぐに見た。


「ごめんなさい」


 それだけ言った。


 伏せかけた手のひらの傷口に、朝の光とは違う淡さが一瞬だけ滲んだ気がした。


 ヴェルンは剣をしまい、片膝をついた。


「見せろ、手当てする」


 少女は素直に手を差し出した。


 両手で受け取り、傷を確認した。思ったより深かった。折れた刃の端が、手のひらを斜めに切っていた。


「……無茶苦茶だ」


 言ってから、ヴェルンはわずかに眉を寄せた。


「無理もないが」


 腰の小物入れから布を取り出し、止血していく。


 布を当てたその時、傷口の縁がかすかに淡く滲んだ。


 光、と呼ぶには弱すぎる。


 朝の残光が見せた錯覚かとも思ったが、指先に触れた熱だけは確かだった。


「傷が深い。薬草がいるな」


 応急処置を終えて立ち上がった。息を吐く。


「仕方ない。俺の家で治療しよう。ついてこい」


 少女は立ち上がったが、包まれた手を胸の前で抱えながら言った。


「でも、まだ追手が——」


 ヴェルンは少女を見た。自分の胸元にも届かない背丈。包まれた手を、胸の前で抱えている。


 少し考えた。


「いい考えがある」













 少女は、灰色の外套の内側で息を殺していた。


 外の足音がヴェルンのものだと分かっていても、体が縮こまった。外套の布越しに、大通りの喧騒が伝わってくる。馬の蹄の音。荷車の軋み。人々の話し声。


 隙間から、少しだけ外を覗いた。


 人々がヴェルンを一瞥し、目を逸らす。商人が荷を抱えたまま横へ退く。馬車さえも、少し速度を落とした。道が、自然に空いていく。


「わぁ……道が、開いていくのですね」


 外套の内側から、小さく声が漏れた。


 ヴェルンの歩みが、ほんの一瞬だけ変わった。


 自分が避けられることを、こういう形で使う日が来るとは思っていなかった。


 鼻から、ごく短く息が漏れた。


 外套の内側で、イレーナが顔を上げた。


 笑ったのか、ただ息を吐いただけなのかは分からない。


 確かめようとして、隙間からヴェルンの顔を覗き込もうとする。


 足が何かに引っかかった。体が傾いた。


 ヴェルンが足を止めた。少し考えるそぶりを見せて、また歩き出した。


 先ほどより、ゆっくりと。


 イレーナはそれに気がついた。何も言わなかった。


 ただ、外套の内側で、少しだけ息がしやすくなった。



 石造りの小さな家だった。


 窓は少なく、戸口には飾りがない。鍵を開けて中に入ると、剣を置く場所と、書類を置く机だけが、異様なほど正確に決められていた。


 ヴェルンの家は、住まいというより、閉じた執務室に近かった。


 寝台は奥にひとつあるだけで、部屋の大半を占めているのは机と書架と、令状を保管する鉄箱だった。暖炉の上には家族の肖像も、花もない。椅子は二脚あった。一脚は机の側。もう一脚は、その正面。客を迎える配置ではない。話を聞くための配置だった。


 ヴェルンが扉を閉めた。


 路地の奥で、影が動いた。


 扉が閉まるのを見届けると、静かに退いた。


 ヴェルンが外套を広げた。イレーナは光の中に出た。


「座れ、手当てする」


 それだけ言い残し、棚の方へ向かった。イレーナは素直に椅子に座り、部屋を見渡した。


「……ここで、暮らしているのですか?」


「あぁ」


 短い返事だった。棚から小さな乳鉢を取り出し、乾燥した葉を何枚か入れて水を少し加える。


「お前はどこで暮らしていた?」


 乳棒を使いながら言った。


 イレーナは口を閉ざした。


 ヴェルンも追わなかった。乳鉢を机に置き、向かい合うように座る。


「手を見せろ」


「……はい」


 巻かれた布をゆっくりとほどきながら、ヴェルンは言った。


「無理に話さなくていい。それまでは——」


 言葉が、途中で切れた。


 イレーナは首をかしげた。


 ヴェルンは傷を見ていた。深い傷だった。しかし——血は止まりかけていた。裂けた皮膚の縁が、わずかに寄っている。


 早すぎる。


 ヴェルンは、手を止めた。


「……こんなに長く、痛いものなのですね」


「怪我は慣れていないか」


「そう、ですね……初めてかもしれません」


「その割に、声を上げないな」


 イレーナは視線を落とした。


 ヴェルンは布を取った。


「……すまない。今のは尋問だった」


 傷に薬草を塗り、新しい布を巻いていく。イレーナは黙ってそれに任せていた。


 処置を終えてヴェルンは立ち上がった。


「棚にパンと干し肉がある。好きに食べろ。水もある。それ以外の物には触るな」


「はい、ありがとうございます……」


「この家には酔っ払いでも近づかん。安全だ。今は——休め」


「はい」


 ヴェルンは外套を手に取った。


「すぐ戻る」


「どこへ行くのですか」


「仕事だ」


 棚の上から、小さな鍵を取った。


「予備の鍵だ。持っていろ」


 イレーナは両手でそれを受け取った。


 ヴェルンは外に出た。扉が閉まり、鍵のかかる音がした。足音が遠ざかり、やがて消えた。


 イレーナは立ち上がり、寝台へ歩いた。腰を下ろす。


 包帯を巻かれた手の中に、小さな鍵があった。鉄の冷たさだけが、妙にはっきりしていた。


 部屋を少し眺め、息を吐いた。今まで暮らしていた部屋とは、何もかもが違っていた。


 それでも、堪えていたものが頬を伝って落ちた。


「あの人は信用していいのでしょうか……マリア……」


 震える、か細い声だった。






 大通りから外れた路地に、革の装備を身にまとった女が静かに入っていった。


 隅にあった扉を、四回叩いた。


 鍵が開けられ、中から騎士鎧をまとった男が出てくる。奥には、同様に鎧をまとった四人の男たちが集まっていた。


 女が告げた。


「姫が、灰色の剣の手に渡った──」


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