4話 灰色の内側
ガルドは大人しく連れていかれた。
縄を打たれた手首を前に揃え、俯いたまま歩いている。衛兵が二人、その両脇を固めていた。朝日が路地を照らし始めていた。
引き渡しを終え、ヴェルンが踵を返したとき、笛の音がした。
足を止めた。高く、短い音が二回。衛兵の合図ではない。音色が違う。方角は——南の路地。市場の裏手だ。
走り出した。
路地は複雑に入り組んでいた。
角を曲がるたびに、喧騒が遠くなる。石畳を蹴る音の向こうに、人の気配があった。複数。行き止まりの方向だ。
突き当たりで、見つけた。
三人の男に追い詰められていたのは、一人の少女だった。
壁に背をつけ、息を切らしている。
茶色の上着。乱れた髪。まだ幼い顔。
ヴェルンは三人の男を見た。
整った外套。手入れされた剣。足の運び。
追剥ぎではない。
「あなたは——」
少女が顔を上げた。その言葉の続きは、ヴェルンの声に遮られた。
「なにをしている」
三人の男が、一斉にヴェルンを見た。
「灰色の剣……!」
三人の構えが、わずかに乱れた。しかし少女に最も近い男だけが、すぐに顔を歪めた。
「連れていけん。始末する」
「待て、生かせとの命だ」
「灰色の剣に見られた。残せば終わりだ」
男は短く吐き捨て、剣先を少女へ向けた。刺突の構えだった。
ヴェルンはすでに動いていた。
ヴェルンは低く走った。
男の脇を抜ける一瞬、灰色の刃が下から跳ねた。
鋭い音が路地に弾けた。
男の剣は根元から砕け、折れた刃が少女の傍へ転がった。
ヴェルンは少女を庇う位置に立った。剣を外套の陰に引き、男たちと向き合う。
「武器を捨てろ」
「お前には関係のないことだ。出しゃばるな」
「その剣を下ろせ。罪を重ねるな」
沈黙があった。
男たちが目を見合わせた。次の瞬間、後ろの二人が同時に動いた。
「引くぞ!」
短剣が二本、空を切った。
狙いはヴェルンではない。少女だった。
ヴェルンは半歩、位置を変え、少女と刃の間に入った。
一本を剣で弾き、もう一本を左の籠手で逸らした。
金属が石壁に当たって跳ねた。振り返ると、三人の背中が路地の向こうへ消えていくところだった。
足音が遠ざかる。やがて、静かになった。
少女は壁に寄りかかり、その場に座り込んでいた。
ヴェルンは剣を鞘に納めた。少女を見ずに、折れた剣の柄を拾い上げる。
「怪我はないか」
柄を手の中で回しながら言った。返事を待つような間があった。
「……はい」
掠れた声だった。
ヴェルンは柄の意匠を確認した。細かい細工。見覚えのある紋様だった。騎士団のものだ。追剥ぎではないと思っていたが——厄介なことになった。
ようやく、少女を見た。
「何があった」
少女は口をつぐんだ。
「名は?」
それにも答えなかった。ただヴェルンを見ていた。警戒しているのか、判断しているのか。怯えているだけの目ではなかった。
ヴェルンは息を吐いた。
「家はどこだ。送ろう」
「……もう帰れない」
「なぜだ」
少女は少し間を置いてから、ヴェルンの目を見た。
「あなたは、なぜ私を助けたのですか」
「……子供を守るのは大人の義務だ」
少女の目が、わずかに揺れた。
「あなたは奴らとは違うのね」
それから、少し躊躇うように続けた。
「私は命を狙われているの。お願い、匿って」
「それはできない」
即答だった。
「どうして——義務なんでしょう?」
「事情も名も知らない者を、家には入れられない」
ヴェルンは少女を見た。
「帰る場所があるなら、そこへ戻す」
ヴェルンは踵を返し、歩き始めた。
背後で、小さな声がした。
「もう帰る場所なんて……」
足音がした。
次の瞬間、何かが風を切った。ヴェルンは振り返りながらゆっくりと剣を抜いた。
少女が折れた刀身を両手で持ち、こちらへ向けていた。手のひらに刃が食い込んでいた。血が滲んでいた。それでも、落とさなかった。
「止まりなさい、ヴェルン・アッシュ!」
ヴェルンはゆっくりと歩み寄った。
「知っていたか。では——俺に剣を向けるとどうなるかも、知っているな」
少女の体が震えていた。目に涙が溜まっていた。それでも、刀身を下げなかった。
「捨てろ。血が出ているぞ。それに、俺に剣を向けてどうする」
その言葉を聞いた瞬間、少女から力が抜けた。
刀身が落ちて、石畳の上で跳ねた。少女はその場に崩れ落ち、顔を両手で覆った。
「もうマリアにも、オーウェンにも会えないかもしれない……」
すすり泣く声がした。
ヴェルンはしばらく立っていた。
「……両親か?」
首を横に振った。
「では、使用人か」
少し間があった。それから、小さく頷いた。
ヴェルンは少女を見た。町娘の服。しかし所作が違う。言葉遣いが違う。そして自分の名前を知っていた。
貴族か、商家の娘か。この子だけ逃げ延びたか。
少女が顔を上げた。目にはまだ涙が残っていたが、ヴェルンを真っすぐに見た。
「ごめんなさい」
それだけ言った。
伏せかけた手のひらの傷口に、朝の光とは違う淡さが一瞬だけ滲んだ気がした。
ヴェルンは剣をしまい、片膝をついた。
「見せろ、手当てする」
少女は素直に手を差し出した。
両手で受け取り、傷を確認した。思ったより深かった。折れた刃の端が、手のひらを斜めに切っていた。
「……無茶苦茶だ」
言ってから、ヴェルンはわずかに眉を寄せた。
「無理もないが」
腰の小物入れから布を取り出し、止血していく。
布を当てたその時、傷口の縁がかすかに淡く滲んだ。
光、と呼ぶには弱すぎる。
朝の残光が見せた錯覚かとも思ったが、指先に触れた熱だけは確かだった。
「傷が深い。薬草がいるな」
応急処置を終えて立ち上がった。息を吐く。
「仕方ない。俺の家で治療しよう。ついてこい」
少女は立ち上がったが、包まれた手を胸の前で抱えながら言った。
「でも、まだ追手が——」
ヴェルンは少女を見た。自分の胸元にも届かない背丈。包まれた手を、胸の前で抱えている。
少し考えた。
「いい考えがある」
◇
少女は、灰色の外套の内側で息を殺していた。
外の足音がヴェルンのものだと分かっていても、体が縮こまった。外套の布越しに、大通りの喧騒が伝わってくる。馬の蹄の音。荷車の軋み。人々の話し声。
隙間から、少しだけ外を覗いた。
人々がヴェルンを一瞥し、目を逸らす。商人が荷を抱えたまま横へ退く。馬車さえも、少し速度を落とした。道が、自然に空いていく。
「わぁ……道が、開いていくのですね」
外套の内側から、小さく声が漏れた。
ヴェルンの歩みが、ほんの一瞬だけ変わった。
自分が避けられることを、こういう形で使う日が来るとは思っていなかった。
鼻から、ごく短く息が漏れた。
外套の内側で、イレーナが顔を上げた。
笑ったのか、ただ息を吐いただけなのかは分からない。
確かめようとして、隙間からヴェルンの顔を覗き込もうとする。
足が何かに引っかかった。体が傾いた。
ヴェルンが足を止めた。少し考えるそぶりを見せて、また歩き出した。
先ほどより、ゆっくりと。
イレーナはそれに気がついた。何も言わなかった。
ただ、外套の内側で、少しだけ息がしやすくなった。
◇
石造りの小さな家だった。
窓は少なく、戸口には飾りがない。鍵を開けて中に入ると、剣を置く場所と、書類を置く机だけが、異様なほど正確に決められていた。
ヴェルンの家は、住まいというより、閉じた執務室に近かった。
寝台は奥にひとつあるだけで、部屋の大半を占めているのは机と書架と、令状を保管する鉄箱だった。暖炉の上には家族の肖像も、花もない。椅子は二脚あった。一脚は机の側。もう一脚は、その正面。客を迎える配置ではない。話を聞くための配置だった。
ヴェルンが扉を閉めた。
路地の奥で、影が動いた。
扉が閉まるのを見届けると、静かに退いた。
ヴェルンが外套を広げた。イレーナは光の中に出た。
「座れ、手当てする」
それだけ言い残し、棚の方へ向かった。イレーナは素直に椅子に座り、部屋を見渡した。
「……ここで、暮らしているのですか?」
「あぁ」
短い返事だった。棚から小さな乳鉢を取り出し、乾燥した葉を何枚か入れて水を少し加える。
「お前はどこで暮らしていた?」
乳棒を使いながら言った。
イレーナは口を閉ざした。
ヴェルンも追わなかった。乳鉢を机に置き、向かい合うように座る。
「手を見せろ」
「……はい」
巻かれた布をゆっくりとほどきながら、ヴェルンは言った。
「無理に話さなくていい。それまでは——」
言葉が、途中で切れた。
イレーナは首をかしげた。
ヴェルンは傷を見ていた。深い傷だった。しかし——血は止まりかけていた。裂けた皮膚の縁が、わずかに寄っている。
早すぎる。
ヴェルンは、手を止めた。
「……こんなに長く、痛いものなのですね」
「怪我は慣れていないか」
「そう、ですね……初めてかもしれません」
「その割に、声を上げないな」
イレーナは視線を落とした。
ヴェルンは布を取った。
「……すまない。今のは尋問だった」
傷に薬草を塗り、新しい布を巻いていく。イレーナは黙ってそれに任せていた。
処置を終えてヴェルンは立ち上がった。
「棚にパンと干し肉がある。好きに食べろ。水もある。それ以外の物には触るな」
「はい、ありがとうございます……」
「この家には酔っ払いでも近づかん。安全だ。今は——休め」
「はい」
ヴェルンは外套を手に取った。
「すぐ戻る」
「どこへ行くのですか」
「仕事だ」
棚の上から、小さな鍵を取った。
「予備の鍵だ。持っていろ」
イレーナは両手でそれを受け取った。
ヴェルンは外に出た。扉が閉まり、鍵のかかる音がした。足音が遠ざかり、やがて消えた。
イレーナは立ち上がり、寝台へ歩いた。腰を下ろす。
包帯を巻かれた手の中に、小さな鍵があった。鉄の冷たさだけが、妙にはっきりしていた。
部屋を少し眺め、息を吐いた。今まで暮らしていた部屋とは、何もかもが違っていた。
それでも、堪えていたものが頬を伝って落ちた。
「あの人は信用していいのでしょうか……マリア……」
震える、か細い声だった。
◇
大通りから外れた路地に、革の装備を身にまとった女が静かに入っていった。
隅にあった扉を、四回叩いた。
鍵が開けられ、中から騎士鎧をまとった男が出てくる。奥には、同様に鎧をまとった四人の男たちが集まっていた。
女が告げた。
「姫が、灰色の剣の手に渡った──」




