2話 灰色の帰還
夜明け前の王城は、息を殺していた。
城門に近づくヴェルン・アッシュを見て、衛兵の一人が肘で隣を突いた。合図だった。二人は無言で槍を引き、道を開ける。視線は正面を向いたまま、ヴェルンとは合わせない。
泥に汚れた外套。雨でほとんど落ちた返り血の痕。腰の剣はまだ湿っていた。
誰も「お疲れさまでした」とは言わなかった。
ヴェルンは足を止めなかった。
城内へ歩を進める。石畳の廊下に、濡れた靴音が響いた。
王城は豪奢だった。磨かれた大理石の床。金の燭台。高価な絨毯が廊下の中央に伸びている。しかし空気が重かった。湿っている、というより——淀んでいた。
壁際の官吏たちが小声での話を止め、ヴェルンに気づいた瞬間、視線を書類へ落とす。貴族の一人が廊下の向こうから歩いてきて、ヴェルンを認めると、眉をひそめながら横の扉へ消えた。兵士は敬礼する。だが目を合わせない。
ヴェルンは通り過ぎた。立ち止まらなかった。
玉座の間ではなく、王の執務室へ向かう。扉の前の近衛兵が懐の令状の封蝋を一瞥し、すぐに道を開けた。
令状を見た。ヴェルンを見たのではない。
執務室は広かった。暖炉の火が赤く揺れ、高い天井に影を這わせている。
王——エルドラン二世は、ヴェルンが入室しても振り返らなかった。窓の外の暗い王都を眺めながら、片手に葡萄酒の杯を持っている。
「終わったか、灰色の剣」
名前では呼ばなかった。
「ラルフ・ドーンは死にました。抵抗したため」
「金の額は」
「三年で銀貨にして四千枚相当。軍の兵糧費に紛れていました」
「四千枚か」
王が静かに遮った。杯を傾ける。
ラルフの死には、一切触れなかった。その先の民への影響にも。ただ数字だけを口の中で転がし、嚥下した。
「断冠の盟め。鼠のくせに、よく食う」
鼠、と言った。
それだけだった。
王がようやく振り返る。顎を少し上げ、ヴェルンを上から眺める。値踏みするような目だった。狩猟犬を確認するような——。
「次の令状だ」
机の上に、封筒が置かれた。
歩み寄って取れ、という態度だった。
ヴェルンは無言で近づき、封筒を手に取る。一礼し、踵を返した。
廊下へ出ると、燭台の火が揺れた。
歩きながら封筒を開け、令状を広げる。
王都西区——スラム街に近い一角。酒場の主人、ガルド・ミンツ。ラルフ・ドーンとの横領共犯容疑。調査および執行。
ヴェルンは読み終えると、静かに折り畳んで懐へ戻した。
酒場か、と思った。
ラルフが東門の店を使っていたなら、西側にも拠点があったとしても不思議ではない。尻尾はまだ続いている。
長い廊下の、突き当たりの柱の影で——何かが動いた。
人の気配だった。一瞬だけ。
ヴェルンが視線を向けた時には、もう何もなかった。燭台の火が小さく揺れているだけだった。
城の中にも、灰色を見張る目がある。
ヴェルンはそれ以上追わなかった。今は、令状が先だった。
夜明けはまだ遠かった。
城門を出ると、雨は上がっていた。
代わりに靄が立ちこめていた。王都の石畳が白く霞み、遠くの建物の輪郭がぼやけている。夜明け前の街は静かだった。荷車も、行商人も、まだ出ていない。ただ靄だけが、低く漂っていた。
ヴェルンは歩いた。
大通りから外れ、裏道へ入る。王都西区へは、城下から真っ直ぐ下れば早い。だが、ヴェルンの足は裏道を選んでいた。
理由を問う者はいなかった。ヴェルン自身も、問わなかった。
パン屋の煙突から煙が上り始めていた。一番早く起きる者たちが、もう動き出している。路地の角で、老いた犬が丸くなって寝ていた。ヴェルンが通り過ぎても、顔を上げなかった。
大通りへ戻ると、朝の支度を始めた商人たちが店先に出始めていた。一人が顔を上げ、ヴェルンの外套の色を見た。次の瞬間、視線を逸らし、荷物の整理を再開した。隣の店主が気づいて耳打ちする。二人とも、それ以上こちらを見なかった。
灰色の外套だった。
王国直属の審問官が纏う、この国で最も忌避される色。
子供が路地から飛び出してきて、ヴェルンの前で止まった。五つか六つ、泥だらけの顔をした男の子だった。大きな目でヴェルンを見上げ——次の瞬間、母親らしき女に腕を掴まれ、引き戻された。
女はヴェルンに頭を下げ、一言も発せずに路地の奥へ消えた。
ヴェルンは立ち止まらなかった。
西区へ近づくにつれ、街の色が変わった。石畳が途切れ、土の道になる。建物の壁に染みが増え、洗濯物が窓から垂れ下がる。朝靄の中で、どこかから赤子の泣き声がした。
スラム街の境界はどこと決まっているわけではない。
ただ、空気が重くなる。それだけだ。
目当ての酒場はすぐに見つかった。
「銀鴉亭」。
看板は傾き、窓の木枠が腐りかけていた。まだ開店前のはずだが、中に人の気配があった。
ヴェルンは扉を叩かなかった。
そのまま押し開けた。
薄暗い店内に、椅子を並べていた男が振り返った。五十がらみ、腹の出た男。顔に古い傷がある。
ガルド・ミンツ——令状に記された名前の男は、ヴェルンの外套を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「な、何の用だ。まだ開店前——」
「ガルド・ミンツか」
ヴェルンは懐から令状を取り出した。封蝋を見せる。男の喉が鳴った。
「ラルフ・ドーンとの件で話を聞きたい」
一瞬の静寂。
ガルドの目が、カウンターの奥の扉へ動いた。
それで十分だった。
男は椅子を蹴倒し、裏口へ走った。ヴェルンは短く息を吐いた。
「……逃げるな」
低く呟き、外套を翻した。
スラム街の朝は、まだ薄暗かった。
靄の中をガルドが走る。太った体で、息はすぐに上がっていた。それでも必死だった。路地を曲がり、物干し綱をくぐり、積み上げられた樽の間を抜ける。
ヴェルンは急がなかった。
走ってはいたが、焦りはなかった。足音を聞きながら、角を読みながら、ただ距離を保って追う。逃げ場は狭まっていく。それだけでよかった。
やがて路地が開けた。
小さな広場だった。朝靄の中に古い井戸がある。石畳が剥がれ、土が露出した、くたびれた広場。
ガルドの足が縺れた。剥がれた石畳の端に爪先を引っかけ、盛大に転んだ。両手をついて滑り、尻をついたまま起き上がれずにいる。
ヴェルンが歩み寄った。
「なぜ逃げる」
静かな声だった。
ガルドは荒い息のまま、地面に座り込んで振り返った。
「う……うるさい、俺は何も知らねえ! ラルフに聞けばいいだろう!?」
ヴェルンは立ち止まった。
少しの間、男を見下ろした。
「ラルフは死んだ」
広場に、朝靄が漂った。
「……う、嘘だ」
ガルドの声が掠れた。
「奴は……人から恨みを買うようなやつじゃねえ。あいつが何をしたって言うんだ」
「俺が殺した」
ヴェルンは淡々と言った。
「逃走し、武器を抜いた。疑うなら案内しようか。まだ死体があるかもしれない——森の狼に食われていなければな」
一瞬、ガルドの顔が赤くなった。
「このっ——!」
傍にあった木桶を掴み、全力で投げた。
乾いた音がした。
木桶が宙でふたつに割れ、左右に落ちた。
その中心に、ヴェルンが立っていた。
剣はすでに抜かれている。刃が朝靄の中で鈍く光っていた。
ヴェルンはそのまま歩み寄った。
一歩、また一歩。
剣の切っ先がガルドへ向く。男は後退りしようとしたが、尻をついたまま動けなかった。
「お前にも家族はいるのだろう」
脅しだと思ったのかもしれない。
ガルドの肩が落ちた。唇が震えた。
ヴェルンは剣を向けたまま、ただ男を見ていた。
これ以上続ければ、帰る場所を失うのはガルドの方だった。
「……わ、わかった。全て話す」
その瞬間、靄の向こうから光が差した。
朝日だった。
建物の隙間から、細く、しかし確かな橙色の光が広場に伸びてきた。ガルドの丸めた背中を、ヴェルンの外套を、古い井戸を、等しく照らした。
ヴェルンはゆっくりと剣を収めた。
それから、長く息を吐いた。




