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灰色の審問  作者: ゆの
2/5

2話 灰色の帰還




 夜明け前の王城は、息を殺していた。


 城門に近づくヴェルン・アッシュを見て、衛兵の一人が肘で隣を突いた。合図だった。二人は無言で槍を引き、道を開ける。視線は正面を向いたまま、ヴェルンとは合わせない。


 泥に汚れた外套。雨でほとんど落ちた返り血の痕。腰の剣はまだ湿っていた。


 誰も「お疲れさまでした」とは言わなかった。


 ヴェルンは足を止めなかった。


 城内へ歩を進める。石畳の廊下に、濡れた靴音が響いた。


 王城は豪奢だった。磨かれた大理石の床。金の燭台。高価な絨毯が廊下の中央に伸びている。しかし空気が重かった。湿っている、というより——淀んでいた。


 壁際の官吏たちが小声での話を止め、ヴェルンに気づいた瞬間、視線を書類へ落とす。貴族の一人が廊下の向こうから歩いてきて、ヴェルンを認めると、眉をひそめながら横の扉へ消えた。兵士は敬礼する。だが目を合わせない。


 ヴェルンは通り過ぎた。立ち止まらなかった。


 玉座の間ではなく、王の執務室へ向かう。扉の前の近衛兵が懐の令状の封蝋を一瞥し、すぐに道を開けた。


 令状を見た。ヴェルンを見たのではない。


 執務室は広かった。暖炉の火が赤く揺れ、高い天井に影を這わせている。


 王——エルドラン二世は、ヴェルンが入室しても振り返らなかった。窓の外の暗い王都を眺めながら、片手に葡萄酒の杯を持っている。


「終わったか、灰色の剣」


 名前では呼ばなかった。


「ラルフ・ドーンは死にました。抵抗したため」


「金の額は」


「三年で銀貨にして四千枚相当。軍の兵糧費に紛れていました」


「四千枚か」


 王が静かに遮った。杯を傾ける。


 ラルフの死には、一切触れなかった。その先の民への影響にも。ただ数字だけを口の中で転がし、嚥下した。


「断冠の盟め。鼠のくせに、よく食う」


 鼠、と言った。


 それだけだった。


 王がようやく振り返る。顎を少し上げ、ヴェルンを上から眺める。値踏みするような目だった。狩猟犬を確認するような——。


「次の令状だ」


 机の上に、封筒が置かれた。


 歩み寄って取れ、という態度だった。


 ヴェルンは無言で近づき、封筒を手に取る。一礼し、踵を返した。


 廊下へ出ると、燭台の火が揺れた。


 歩きながら封筒を開け、令状を広げる。


 王都西区——スラム街に近い一角。酒場の主人、ガルド・ミンツ。ラルフ・ドーンとの横領共犯容疑。調査および執行。


 ヴェルンは読み終えると、静かに折り畳んで懐へ戻した。


 酒場か、と思った。


 ラルフが東門の店を使っていたなら、西側にも拠点があったとしても不思議ではない。尻尾はまだ続いている。


 長い廊下の、突き当たりの柱の影で——何かが動いた。


 人の気配だった。一瞬だけ。


 ヴェルンが視線を向けた時には、もう何もなかった。燭台の火が小さく揺れているだけだった。


 城の中にも、灰色を見張る目がある。


 ヴェルンはそれ以上追わなかった。今は、令状が先だった。


 夜明けはまだ遠かった。


 城門を出ると、雨は上がっていた。


 代わりに靄が立ちこめていた。王都の石畳が白く霞み、遠くの建物の輪郭がぼやけている。夜明け前の街は静かだった。荷車も、行商人も、まだ出ていない。ただ靄だけが、低く漂っていた。


 ヴェルンは歩いた。


 大通りから外れ、裏道へ入る。王都西区へは、城下から真っ直ぐ下れば早い。だが、ヴェルンの足は裏道を選んでいた。


 理由を問う者はいなかった。ヴェルン自身も、問わなかった。


 パン屋の煙突から煙が上り始めていた。一番早く起きる者たちが、もう動き出している。路地の角で、老いた犬が丸くなって寝ていた。ヴェルンが通り過ぎても、顔を上げなかった。


 大通りへ戻ると、朝の支度を始めた商人たちが店先に出始めていた。一人が顔を上げ、ヴェルンの外套の色を見た。次の瞬間、視線を逸らし、荷物の整理を再開した。隣の店主が気づいて耳打ちする。二人とも、それ以上こちらを見なかった。


 灰色の外套だった。


 王国直属の審問官が纏う、この国で最も忌避される色。


 子供が路地から飛び出してきて、ヴェルンの前で止まった。五つか六つ、泥だらけの顔をした男の子だった。大きな目でヴェルンを見上げ——次の瞬間、母親らしき女に腕を掴まれ、引き戻された。


 女はヴェルンに頭を下げ、一言も発せずに路地の奥へ消えた。


 ヴェルンは立ち止まらなかった。


 西区へ近づくにつれ、街の色が変わった。石畳が途切れ、土の道になる。建物の壁に染みが増え、洗濯物が窓から垂れ下がる。朝靄の中で、どこかから赤子の泣き声がした。


 スラム街の境界はどこと決まっているわけではない。


 ただ、空気が重くなる。それだけだ。


 目当ての酒場はすぐに見つかった。


「銀鴉亭」。


 看板は傾き、窓の木枠が腐りかけていた。まだ開店前のはずだが、中に人の気配があった。


 ヴェルンは扉を叩かなかった。


 そのまま押し開けた。


 薄暗い店内に、椅子を並べていた男が振り返った。五十がらみ、腹の出た男。顔に古い傷がある。


 ガルド・ミンツ——令状に記された名前の男は、ヴェルンの外套を見た瞬間、顔から血の気が引いた。


「な、何の用だ。まだ開店前——」


「ガルド・ミンツか」


 ヴェルンは懐から令状を取り出した。封蝋を見せる。男の喉が鳴った。


「ラルフ・ドーンとの件で話を聞きたい」


 一瞬の静寂。


 ガルドの目が、カウンターの奥の扉へ動いた。


 それで十分だった。


 男は椅子を蹴倒し、裏口へ走った。ヴェルンは短く息を吐いた。


「……逃げるな」


 低く呟き、外套を翻した。


 スラム街の朝は、まだ薄暗かった。


 靄の中をガルドが走る。太った体で、息はすぐに上がっていた。それでも必死だった。路地を曲がり、物干し綱をくぐり、積み上げられた樽の間を抜ける。


 ヴェルンは急がなかった。


 走ってはいたが、焦りはなかった。足音を聞きながら、角を読みながら、ただ距離を保って追う。逃げ場は狭まっていく。それだけでよかった。


 やがて路地が開けた。


 小さな広場だった。朝靄の中に古い井戸がある。石畳が剥がれ、土が露出した、くたびれた広場。


 ガルドの足が縺れた。剥がれた石畳の端に爪先を引っかけ、盛大に転んだ。両手をついて滑り、尻をついたまま起き上がれずにいる。


 ヴェルンが歩み寄った。


「なぜ逃げる」


 静かな声だった。


 ガルドは荒い息のまま、地面に座り込んで振り返った。


「う……うるさい、俺は何も知らねえ! ラルフに聞けばいいだろう!?」


 ヴェルンは立ち止まった。


 少しの間、男を見下ろした。


「ラルフは死んだ」


 広場に、朝靄が漂った。


「……う、嘘だ」


 ガルドの声が掠れた。


「奴は……人から恨みを買うようなやつじゃねえ。あいつが何をしたって言うんだ」


「俺が殺した」


 ヴェルンは淡々と言った。


「逃走し、武器を抜いた。疑うなら案内しようか。まだ死体があるかもしれない——森の狼に食われていなければな」


 一瞬、ガルドの顔が赤くなった。


「このっ——!」


 傍にあった木桶を掴み、全力で投げた。


 乾いた音がした。




 木桶が宙でふたつに割れ、左右に落ちた。


 その中心に、ヴェルンが立っていた。


 剣はすでに抜かれている。刃が朝靄の中で鈍く光っていた。


 ヴェルンはそのまま歩み寄った。


 一歩、また一歩。


 剣の切っ先がガルドへ向く。男は後退りしようとしたが、尻をついたまま動けなかった。


「お前にも家族はいるのだろう」


 脅しだと思ったのかもしれない。


 ガルドの肩が落ちた。唇が震えた。


 ヴェルンは剣を向けたまま、ただ男を見ていた。


 これ以上続ければ、帰る場所を失うのはガルドの方だった。


「……わ、わかった。全て話す」


 その瞬間、靄の向こうから光が差した。


 朝日だった。


 建物の隙間から、細く、しかし確かな橙色の光が広場に伸びてきた。ガルドの丸めた背中を、ヴェルンの外套を、古い井戸を、等しく照らした。


 ヴェルンはゆっくりと剣を収めた。



 それから、長く息を吐いた。

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