1話 断罪
地下水路に、雨水が流れ込んでいた。
石壁に反響する水音と、二つの足音。
ヴェルン・アッシュは走っていた。
先を行くラルフ・ドーンが角を曲がる。水飛沫が上がる。膝まで浸かる濁流の中でも、ヴェルンの歩みは乱れなかった。感情もない。ただ正確に、獲物との距離を詰めていく。
外套の内側には、灰色令状があった。
王国枢密院の封印が押された、灰色の羊皮紙。そこに記された名は、ラルフ・ドーン。
王国国庫の経理官。それがラルフの肩書きだった。三ヶ月にわたり、軍の兵糧費に紛れて金を抜いていた。横領した額は兵士一人の年収の数十倍。その金が断冠の盟へ流れていた。
水路が枝分かれする。ラルフは迷わず右へ。ヴェルンも迷わず右へ。
「どこまで逃げる」
声は静かだった。反響して、暗闇に染み込んだ。
ラルフが振り返りもせず叫ぶ。
「うるさい!」
出口が見えた。鉄格子を力任せに蹴破り、ラルフが夜の外へ躍り出る。ヴェルンも続いた。
城壁の外だった。
叩きつけるような雨の中、荒野が広がっていた。街の灯りが遠い。ラルフは泥濘を踏みながら走ったが、もう足がもつれていた。百歩、五十歩、三十歩——距離が詰まるたびに、その背中が小さく縮んでいく。
やがてラルフは立ち止まった。
肩で息をしながら、ゆっくりと振り返る。逃げ場はない。背後は暗い森だけだ。それでも男の目に、まだ火があった。
「……腐った王の犬めが」
ラルフは唾を吐いた。雨に打たれ、すぐに泥へ溶けた。
「兵は飢え、民は黙らされ、貴族どもは銀杯を鳴らしている。そんな国の秩序に、まだ従うのか」
ヴェルンは答えなかった。
「我らの大義を、貴様のような男に何が——」
言葉の途中で、ラルフは懐から短剣を抜いた。
ヴェルンは立ち止まった。雨に打たれながら、ゆっくりと腰の剣に手をかける。鞘から引き抜く音が、雨音の隙間に滑り込んだ。
「ラルフ・ドーン」
ヴェルンは名を呼んだ。
「灰色令状により、おまえを拘束する。武器を捨てろ」
ラルフの顔が歪んだ。
「審問官に剣を向けた者は、殺さねばならん」
それでも足を踏み出した。決死の一撃。二撃。三撃。
全て、躱された。
ヴェルンは動じなかった。一歩引き、半身を傾け、腕を捌く。まるで嵐の中に立つ岩のように。ラルフの息が上がるたびに、その動きが鈍くなっていく。
やがてラルフの腕が止まった。膝が笑っていた。
ヴェルンは静かに間合いを詰めた。
「眠れ」
それだけ言って、剣を振るった。
ラルフはうつ伏せに倒れた。雨に濡れた泥の上で、赤いものがゆっくりと広がり、やがて雨に溶けて流れていった。
ヴェルンは剣を収めた。
男の傍らに、何かが落ちていた。泥に半分埋まった、小さな腕輪。草を不格好に編んだだけの、幼い手仕事のそれ。
拾い上げようとして——やめた。
代わりに、雨の中でしばらく立っていた。
やがて踵を返し、城壁の方へ歩き出す。
背後の泥に、視線は戻らなかった。
雨はまだ止みそうになかった。




