事故
「レティシア?」
目を開くと、婚約者のアーサー・ラドリスの顔があった。
いつもと変わらぬ秀麗な顔立ちだが、短い褐色の髪はやや乱れていて、焦げ茶色の瞳に疲れが見える。
あたりを見回せば白を基調にした、見たこともない部屋。
私、レティシア・ミンゼンは、見知らぬベッドに横たわっていた。
そして体のあちこちが痛い。
「ここは……」
思ったより声がかすれる。喉が痛い。
「軍の病院だ」
「病院?」
なぜ、そんなことになったのだろう?
「レティシアは事故にあったのだ」
「事故?」
私は、おぼろげな記憶をたどる。
最後の記憶は、父と夜会に出た帰り道だ。
屋敷へと帰る途中、馬車が突然傾ぎ、横倒しになりながら、どこかに落下したような気がする。
そのあとのことは覚えていない。
「目が覚めて、本当に良かった」
アーサーは私の手を握り、涙ぐんだ。
心からほっとしたという顔。
騎士の彼はいつも冷静で、感情を顔に出すことが少ない。彼がそんな表情をするってことは、私は相当に危なかったということだろうか。
「水に浸かったせいで高熱が出た。あと、右足を骨折している」
「水?」
全く記憶がない。
言われてみれば、気だるいし、右足にどこか違和感を覚える。足が固定されているせいなのかもしれない。
「ところで、どうして軍の病院に?」
一般的に事故で入院するとしても、国の診療院の方に運ばれることが多い。
軍の病院は基本的に、軍の関係者が利用することになっているからだ。
「発見したのがたまたま巡回中の俺の部下だったんだ。部下が君を知っていて、俺の婚約者だからこちらに運んだ」
「そうだったのですか」
婚約者は関係者扱いになるのかどうかは知らないけれど、どうやら特別に運ばれたみたいだ。
アーサーは第二騎士団の副長であると同時に、ラドリス侯爵家の次男だから、軍もその婚約者に気を使ってくれたのかもしれない。
「それにしても、エルフレン男爵が屋敷に連れて帰ると言い張ってな」
「叔父さまが?」
貴族が入院することは珍しい。たいていは自分の屋敷にお抱えの医師がいるからだ。
だから、入院することを外聞が良くないという考え方もある。
しかし、叔父がなぜ、私のことに口を出しているのだろう?
ジャック・エルフレン男爵は、私の父、ヨハン・ミンゼン伯爵の弟だ。
ことあるごとに、金の無心に来る困った親族という印象しかない。
私を心配するとはとても思えない人物だ。
「あまりにうるさいから、ラドリス家の名前を出して黙らせた。男爵は俺がレティシアの婚約者だということを知らなかったらしい」
「知らないはずはないと思うのですけれど」
一応、親族であるから、話はしているはずだ。
アーサーは、いずれ私と結婚し、我が伯爵家の当主になることになっている。
ただ伯爵家といっても、それほど大きくない我が家と由緒ある侯爵家との縁談は、身の丈に余ると言えなくもない。
私の父がラドリス侯爵と親しい間柄でなければ、絶対に成立しなかっただろう。
そもそも軍で出世した優秀な彼であれば、自力で爵位を手に入れることもたやすいことだ。それに美形の彼は社交界でも人気がある。
アーサーが望むなら、もっと良い条件の縁組はあるだろう。
もっとも、この縁談は、私が十歳、アーサーが十二歳の時に結ばれたもので、侯爵もアーサーもそんなことまでは考えていなかったに違いない。
彼も侯爵も律儀だから、昔の約束を守ろうとしてくれているけれど、本来なら、なかった話にされてもおかしくないとは思う。
だから叔父が私とアーサーの婚約に半信半疑だったとしても、不思議ではないけれど。
その時、私はハッとなった。
私の婚約相手もよく知らない叔父が私の入院に口を出すということは。
「あの、アーサーさま。ひょっとして、お父さまは」
「レティシア……」
アーサーは俯いて、口ごもる。
「発見されたとき、既に伯爵はこと切れていたらしい。君も水につかって体が冷え切っていて、危なかった」
馬車は土手から川に落ちたらしい。
同乗していた父と、馬車を操っていた御者のトーマスは死んだと聞き、私は思わず目を閉じた。
あの夜は月がなくて、暗かったけれど、いつも通っている道だった。
疲れていて、うとうとしていたから、あの馬車が傾ぐ直前に何があったのか、わからない。
胸がつまる。
「一応は事故となっているが、事件の可能性もあって、調査中だ。現場は、川沿いの道で暗いとはいえ、馬車が誤って落ちるような道ではない」
私の手を握りながら語るアーサーの表情は険しい。
「……父の弔いは?」
「昨日済んだ。君の叔父が取り仕切った。レティシアの意識が戻るまで待たせたかったが、亡くなったのが五日前だから、急ぎすぎとは言えない」
「私は五日も意識がなかったのですか……」
一般的に爵位ある貴族の葬式の喪主はその配偶者か、その子供だ。
普通に考えるならば、私がすることになる。ただ、葬式は王族でもない限り、六日以内行われることがほとんどだ。
私が病床にあり、しかも意識がない状態なら、父の弟である叔父が取り仕切るというのは間違ってはいない。
「俺が仕切ろうとしたのだが、まだレティシアと結婚していないからと反対されてね」
そもそも婚約している私の意識が戻っていない状態では、結婚が成立するかどうかもわからない。
私と父の両方が亡くなれば、伯爵家は叔父が継ぐことになるのだから、それは当然だろう。
それに私が生きているとしても、私は十七で成人していないから、爵位を継いでも十八歳までは『後見人』を立てなければならないという法律がある。
この場合、私が仕事ができる、できないは全く関係ない。そういう『決まり』なのだ。
一般的に後見人は、親族から選ばれる。
最有力候補である叔父が張り切るのは当然だ。
「君の親類を悪く言いたくはないが、あの男はどうも気に入らない」
アーサーは肩をすくめる。
「まるで自分が次期伯爵にでもなるかのようなふるまいだった」
「私が死ねば、そうなりますからね」
私は苦笑する。
私が五日も意識がない状態なら、叔父は完全にそのつもりでもおかしくない。
「やめてくれ。仮定だとしても、レティシアがいない世の中など、想像したくもない」
アーサーは首を振る。
そして、何かを思い出したらしく、険しい顔になった。
「アーサーさま?」
「なんでもない」
アーサーは首を振る。ひょっとしたら、私に聞かせたくないようなことを、叔父が言ったのかもしれない。
「私……いつ、屋敷に戻れますか?」
「レティシア?」
叔父は政治家としても商売人としても、優秀とはいいがたい。
借金があるらしく、いつも金をせびりに来ていた。
「父は仕事の書類の類は全部金庫に入れておりました。金庫を開くことができるのは、私と父だけです。叔父が代わりに伯爵家の経営をするにせよ、早晩困るに違いありません」
もっとも、叔父が領地経営をしてうまくいくとはとても思えない。
父が金庫に必ず重要なものを入れていたのは、叔父への用心もあったと思われる。
「熱が下がったとはいえ、数日はむずかしいだろう。それに、馬車の件が完全に事故だと決まったわけではない。事件性があるとしたら、できればしばらく君はここにいたほうが安全だ」
「私が狙われているとお考えですか?」
「わからない。病院を退院するとしても、本当は俺の屋敷に来てほしいくらいだ」
心配なのだと、アーサーは私の手を握る。
馬車の事故はそれほどまでに、不自然だったということかもしれない。
「私が戻らないと、叔父が好き勝手をして、使用人たちも困っていると思います」
「それは、わかるが……」
アーサーは苦い顔をする。
どうやら父の葬式でも叔父は好き放題していたようだ。
「医者の許可がおりたら、すぐにでも退院します。屋敷にはそのように連絡してください」
「それはかまわんが、しかし」
いつになくアーサーは口ごもる。
「大丈夫です。後見人の申請がきちんと通るまでは、叔父も好き勝手はしません」
通常、申請の類は一か月ほど必要だ。
それ以前に伯爵家のものに手を付ければ、『犯罪』になってしまう。
「わかった。レティシアは言い出したら聞かないからな。屋敷に戻るなら、毎日手紙を書くように」
「毎日ですか?」
「さすがに、俺も仕事があるから、毎日様子を見に行くわけにはいかないから」
アーサーの目はとても真剣で、嫌と言ったら、退院を許可してくれそうもない。
私が狙われる危険を心配してくれているのだろう。
「わかりました。必ず書きますね」
「約束だ。俺も必ず書くから」
アーサーに押し切られる形で、私は頷く。
とはいえ、毎日手紙なんて、何を書いたらいいのだろう……その時は、のんきにそんなことを思っていた。