暴食 その10『人として』
「グラウゼイツ、帝国」
「⋯⋯はい」
艶光るナージャの唇がなぞった国の名を聞いて、ミライの心に迫ったのは驚きと、ほんの少しの困惑だった。
ろくな稼ぎにもならないからと、カガミの傭兵業にありつけないミライは集落より離れる機会が少なく、世情にも明るくない。それでもグラウゼイツの名は聞き覚えがあった。
(にしても、大陸最大? 俺が聞いた時よりもずいぶん⋯⋯いや、集落の片隅にしがみついてた俺の持ってる情報なんて、たかが知れてるか)
グラウゼイツは五つの軍隊を有する東の大国だ。けどもよもや、大陸最大と謳われるほどだったとは。しかし当時を思えば、知識に鮮度がないのも仕方なきこと。
疑問を口にはせず、ミライは話の続きに耳をすませた。
「三年ほど前のことである。ファタモルガナの国境に帝国の大軍が差し迫り、宣戦布告もなしに攻撃されたのである」
「⋯⋯布告もなし、って。そんなのただの侵略行為じゃないか」
「全くである。卑劣極まりない。しかし、遺憾ながら⋯⋯突然の開戦に、我らは後手に回らざるを得ず、彼奴らの攻勢も凄まじいものであった」
ダストンは苦虫を噛み潰したような表情だった。名分も根拠もないまま振り下ろされた暴力に、怒りを覚えるのも当然だろう。
しかし口ぶりと現状からして、ファタモルガナとグラウゼイツの間には、抗え切れない軍事力の差があったことは察するに余りあった。
「⋯⋯敗けたのか」
「⋯⋯はい。王宮のすぐ麓にまで帝国軍が迫って、条件付きの降伏まで勧告されました」
「条件?」
「ケロ。あらゆるものを癒やし、潤す雨を招く⋯⋯秘宝『月の涙』。それこそがグラウゼイツ帝国の狙いだったケロよ。でも月の涙は砂漠で栄えるファタモルガナの秘宝。奪われてしまえば滅亡の一途をたどる。だから女王は条件を呑むことを認められず⋯⋯"姫様"を国外に逃がしたんだわさ」
そういう経緯か、とミライは頷いた。ナージャはいわば、風前の灯火といえるファタモルガナの最後の希望。何を賭してでも彼女を逃そうとしたダストンの気概も納得である。
だとしたら⋯⋯と。
ミライの目は、彼女の膝に据えられたハープに向けられた。
「じゃあ、そのハープが⋯⋯?」
「⋯⋯あ、いえ、これは違います。私の宝物ではありますけども。えっと、月の涙は⋯⋯その。"驚かないで下さいね"?」
「⋯⋯えっ?」
しかし憶測は外れ、ナージャはおもむろに白眼帯へと手を伸ばす。突然の行動に血相を変えたのは、ミライではなくダストンであった。
「ひ、姫様!? なにもそこまで⋯⋯」
「⋯⋯大丈夫、ですから」
制しようとする衛士をやんわりとなだめ、シュルリと絹を滑らせたナージャ。白い眼帯に覆われていた秘密が、王女の手により明かされて。
「⋯⋯この、私の両眼。これこそが、帝国が欲しがっている⋯⋯月の涙なんです」
「⋯⋯!」
露わになった碧色に、ミライは息を飲んだ。
長い睫毛と、左目の下の泣き黒子もさることながら、吸い込まれるような瞳の色。急に外気に触れたからだろう。少し濡れ細った瞳が、降ってもいない雨の音を響かせた。
「⋯⋯やっぱり、見間違いでも蜃気楼でもなかったんだな」
「うっ⋯⋯す、すいません。まさか意識があったなんて思ってなくて⋯⋯」
「はっきりじゃないけどな。ってことは、あの時に降ってた雨って」
「そうケロ。月の涙がもたらす雨の秘術だわさ。ミライの傷を治したのも、ダストンの大怪我を治せたのも、姫様のおかげって訳だわさ」
あらゆるものを癒やし、潤す雨。
絶命に至るほどの怪我すら治せるなんて、まさしく秘宝がもたらす奇跡だろう。狙われる理由にも、ファタモルガナが彼女を逃がした理由にも。
「⋯⋯それにしても秘宝か。傍からじゃ、綺麗な眼だなってくらいにしか見えないけど」
「うえっ!? 」
ついつい覗き込んでしまったからだろう。
小麦色の肌がかあっと赤らんで、碧い目が右往左往と泳ぎ出す。
やはり人見知りは激しいらしい。眼帯を外した際に香った神秘的な雰囲気は、あっという間に霧散していた。
「あ、ちょっとストップ」
「ひゃえっ」
遂には再び白眼帯をつけ直そうとする手を、ミライは阻む。突然ガッと手首を掴まれたもんだから、当然慌てふためくナージャ。その狼狽ぶりに悪いと思いながらも、ミライは手を離そうとはしなかった。
「その⋯⋯隠す前に、一つだけ言わせてくれ」
「い、言うってなにを⋯⋯」
「これからの為に必要なことだからな」
「こ、ここ、これから!? い、一体なにを⋯⋯!」
「き、貴様、姫様になにをしでかすつもりで⋯⋯むごごっ」
「はいダストン、ちょっと黙ってるんだわさ。多分今良いところだから」
「ふがっ!」
ある意味王女の窮地である。すかさず割って入ろうとする中年衛士だったが、ケトルンの見事なインターセプトによって事なきを得た。
「ナージャ」
「は、ははははい!」
残されたのは真っ直ぐ見つめるアカと、逃げ惑うアオである。
やがて逃げ場がないと悟ったのか、意を決したように目を合わせるナージャ。緊張のあまり睨みつけてしまっているが、ミライは軽く微笑み、そして。
「ありがとう。俺を助けてくれて」
「え⋯⋯」
どうしても伝えたかった一言を、紡いだ。
「今朝にも言ったけど、やっぱこういうのはちゃんと目を見て伝えたかった」
「お礼、なんて⋯⋯」
「大事なことだろ。まあ正直、死にたいって思うような人生ばっかりだったし⋯⋯なにしても馬鹿にされるし、期待もされない。あの時、まだ生きてるって時間に⋯⋯逃げたくもなった」
父に斬られた時。ああ、もう終わりでいいんだという実感があったのだ。目が覚めた時、まだ動く鼓動の音に耳を塞ぎたくなる恐怖もあった。
それは胸に仕舞い込んでいた、偽らざる本音だった。
「でも。ナージャに出逢ってはじめて、生きてて良かったって思えた。まだ俺にも出来ることはあるって。"これからも"生きて行こうって⋯⋯そう思えた。だから」
あの時あのまま終わっていれば。けれども繋がれたこの命が、今を作っている。
誰かの力になれた。今まで押し付けられた横暴を跳ね除けられたのだ。
ナージャがどうして逃走の脚を止めてまで、自分を救ってくれたのかは分からない。
けれども、「今まで」から「これから」へと目を向けるきっかけをくれたのは、紛れもなく彼女のおかげだっから。
「⋯⋯ありがとう、ナージャ」
「⋯⋯⋯⋯、────」
万感の想いでもって、ミライは感謝を告げたのだった。
◆
「ぐすっ」
「⋯⋯ん?」
だが、例えきっかけが与えられたとしても。
今までを壊せるほどの力に目覚めたとしても。
「えぐっ⋯⋯ひっく⋯⋯うええええ⋯⋯」
「──はい?」
世界がいつも想定してないミライの連続であることには、変わりがないらしい。
「いや、えっまっちょっ、はあっ!? な、な、なんで泣いてんの!?」
「うええええ⋯⋯ぢがうんでず⋯⋯目にゴミが入っでえ⋯⋯」
ギャン泣きであった。
おいこんなとこまで王女らしくないなこいつと思わないでもなかった。
「き、貴様ァァァァ!!! 我らがファタモルガナの王姫を泣かせるなど⋯⋯ゆゆゆ、許せん!! 万死に値するのであるァッ!」
しかしながら、女泣かせにそんな悠長に構える暇など無いのが世の常である。
制裁人はそれはもう息巻いて、大剣を振りかぶってらっしゃった。
「ま、待って! いや俺も何がなんだか、泣くとこあった今!? 色んな意味で泣きたいのは俺の方なんだけど?!」
「問答無用ォそこに直れい! 今すぐに叩っ斬ってくれるのであァァァるァ!!」
「ずびましぇん、ずびましぇん⋯⋯うええええ⋯⋯」
「おーよしよし。ナージャは良い子。良い子ケロよー」
「ケトルン〜〜〜!!!」
迫る怒りの剣から逃げ回りながら、なんでこうなるんだよとミライは切に思う。
だが、なんてことはない。彼女には彼女の涙を流す理由があって、彼はまだ知り得ていないだけなのだ。
分からないことばかりも人生。少しずつ知って、進んで行けばいい。未来とはそういうものである。
「待たぬかァァァァァ!!」
「誰が待つかぁぁぁぁぁ!!!」
これは。
何者にもなれなかったミライが、少しずつ自分を取り戻していく為の物語である。
人に非ず。例え今までがそうであったとしても。
人と人との間に生きてこそ、いくらでも人間で在れるものなのだ。
「ナージャ。俺も一緒に、行っていいか?」
ならばこそ。
後は⋯⋯⋯⋯、────
【第一章 ひとでなし 完】.
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