選択の始まり-9
「うるさい黙れ」
しかし、そんな二人の決意は、にべもなく一言で切り捨てられた。光弘の口は、下から顎を跳ね上げられて無理やりがちんと噤まされる。
「あぐっ! 痛って! 痛って! なにす……って、テルス?」
「テルスちゃん?」
それを成したのはこれまでずっと黙っていたテルスだった。彼女はその不機嫌さを隠すそぶりもなく、峻厳なまでの口調で続けて言った。
「お前らは馬鹿か」
「な、なにがだよ」
「理由を問うて聞いてみれば、また私の理解しがたい事ばかり。解ったことといえば、この通信相手の言うこと全て、お前が考慮するべき問題ではないと言うことだけだ」
『……手厳しいね』
「何言ってんだよ。悔しいけど、あいつの言ってることは正論で――」
「どこがだ。圧倒的に有利な立場にある我々が、首輪でも付けられているかのように相手の言う事を丸呑みする。これが馬鹿げてなくてなんになる」
「有利な立場? どこが……」
「何度も言わせるなよ? お前は私と契約した時点で、この惑星でできない事などなにもない。テロリスト? リスク? 組織? ……そんな価値観? が適用されるような存在であるわけがないだろう」
そしてテルスはふふんと鼻を鳴らした。考えて見れば、それはとても滑稽な姿だった。慎ましやかな胸を張って、こましゃくれた顔をする全裸の少女。
「は、はあ?」
そのあまりにあまりな光景で、完全に緊張感がどこかに行ってしまう。
「だから、どうでもいい話に流されるな。それは私に対する侮辱……というやつにあたる……んだと、思う。多分。うん。やめろ」
そんな光弘を見上げながら、自信満々に、しかし後半尻つぼみに、テルスは不遜に言い切った。どうやら侮辱という言葉の用法が正しいのかどうか迷っているようだった。
「いや、だって……」
「いいから」
反駁して、今つきつけられた現実を述べようとした光弘は、そうして彼女が遮るので、最後まで言葉を紡げない。
「お前が、私に言うべきことは、最初からたったひとつだ」
代わりにテルスは単純に、美しく一言で彼に問うた。
「どうしたい?」
じっとこちらを見つめるテルスの瞳は、黒々として吸い込まれそうだ。覗き込むうち、神秘や真理、途方もない英知が、その奥にあるようにさえ思えてくる。一見理屈に合わない彼女の言葉も、何もかも、全てが正しいような気がしてしまう。
錯覚だ、と理性が言っている。それでも、ひとつ。その瞳から確実に伝わる事がある。
そう、彼女の言っていることは全て、純粋で、真剣で……『彼女にとって』かもしれないが、かけらほどの偽りもないのだと。
『少しいいかな』
割り込むように、シェイドが声をかけてきた。光弘ははっと我に返るが、
『光弘君、彼女の言っていることがいまいち理解できないのだが、これは――』
「黙れ。お前の話は至極くだらん。考慮に値するものがひとつもない」
テルスは相変わらずの姿勢を崩さない。
『……さて。これは困ったな。テルス君、私の掴んでいる情報が正しいのならば、君はグリーンアースによって作られた力ある存在だ。それもかなり相当の。だが、その反面、人間やその社会のことは良く知らない。そうじゃないか?』
「それがどうした?」
『ならば彼らの葛藤や私の要望が、くだらないかどうかの判断も、君には到底できないのではないかな』
「はっ」
底冷えするようなシェイドの声音を、彼女は鼻で笑い飛ばす。
「認識に相違があるようだ。私にとっては、本来お前ら全てがくだらない。わざわざ理由を訊いたのは、ひとえに単なる気まぐれと――」
そこまで冷淡な口調だったテルスが、なぜかにやりと口角を上げた。
「『このためだ』」
「え?」
『なっ!?』
「『……お前たちは反応が……そう、ワンパターン、だな』」
にべもない彼女のその言葉が、光弘たちには二重に聞こえた。
空気の振動と、思考の振動。二つの音が重なり合っている。
「お前、何を……」
何かとてつもない事をテルスが行った。光弘にはそれだけしか解らない。疑問が口をついて出たが、彼女は元より、あれだけ饒舌だったシェイドさえ、一言も答えを返さなかった。
そして、実のところ、彼にそんな余裕はなかったのだ。
「『シェイド、とか言ったか。これがどういうことか解るな? ……おい。何をしている』」
『……っ』
「『余計なことはするな。死ぬぞ?』」
『……見えてもいるのか』
「『当然だ』」
『……なるほど』
シェイドの絞り出した声には、苦渋が満ち満ちている。
通信がジャックされていた。それどころか、逆探知までされている。
『……確かに、我々は認識を改める必要がありそうだ』
言うまでもなく、通信技術においての優位性は、『カモフラージュ』の秘匿性の根本を支える技術である。秘中の秘とさえ言ってよかった。それが、この短時間で丸裸にされたのだ。
精神子技術において、勝ち目がないと示されたに等しい。バカげた性能差に、苦り切った声を出すのがやっとだ。
「『ようやく理解したか。ならば先ほど言った通りだ』」
そんなシェイドに向かって、呵責なくテルスは告げる。
「『黙れ』」
限りなくシンプルなその一言。それは立派な示威行為であり、この上ない恫喝だった。
『……』
そして、シェイドは口を噤むほかない。彼らは、自分たちがどれだけ脆弱な存在なのかを知っているからだ。
強大な資本力や、無尽蔵の生産力、幹部に集う、綺羅星のごとき人材――そんな組織力は、残念ながら持ち合わせていない。それらを持っているのは、全世界を股に掛ける彼らの敵の方だ。
彼らに許されているドクトリンは『リソースの一点集中における一時的な突破』のみ。すなわち、特定分野への(この場合精神子技術への)過剰な特化――。断じて総合的で、継続的な『本当の強さ』ではない。
相手の得意なことを決してさせず、必ず優勢なうちに退く。自分たちにはこれしかないのだと、厭いても急いてもこれを繰り返すべきなのだと、重々承知している。だからこそ、卑怯で悪辣なゲリラ戦法を延々用い、自らを『カモフラージュ』と名乗ってまで、軽挙を戒めているのである。
その、唯一世界と比肩しうる分野で、圧倒的に負けた。
なお悪い事に、完膚なきまでに負けて、逃げる算段がない。相手は己の居場所を逐一把握している。彼らに残された道が一つしかないのも、自明のことだった。
「『さて』」
恫喝に屈したシェイドを、それきりとばかり黙殺し、テルスは光弘と明日美に向き直る。
「いや、いつまでも面倒だな」
そして通信を一方的に断ち切ると、慎ましやかな胸を堂々と大きく張った。
「どうだ!」
それは、語尾が山彦となって反響しそうなくらいの、気持ちのいい発声だった。
「いや、どうだと言われてもな……」
「えと……」
しかし、前述のやり取りがどういう意味を持つのか、二人は量りかねている。手をつないだまま、ぽかんとテルスを見つめるしかない。
「なんだ。まだわかっていないのか……困ったな。今回の相方はどうも、話に伝え聞く『魯鈍』という種類の人間らしい」
そんな光弘の反応に、テルスはやれやれと肩をすくめ、心底気の毒そうに(も見える無表情で)こちらを見つめた。
「まあ、その、なんだ。少なくとも私にとって、別にお前の知能指数? が低かろうと何も問題は無い。気に病むな」
そしてすぐ伏し目がちになって、そんな風に励ます。
「え、なに、なんで俺馬鹿にされてるの?」
「大丈夫。……大丈夫だ。もう悲壮? な決意とかを演出しながら、もったいぶった台詞を言う必要はないんだ。『俺はぁ――俺達はっ!』みたいな恥ずかしい? やつだ」
「いまだかつてなく腹の立つ励ましだな……」
「とにかく、もうお前の懸念は解消された。後は、お前がどうしたいか。それだけだ」
「いや、説明をしろっての」
「いいのか?」
「何が?」
「微に入り細を穿って説明をしてもいいのか? 長くなるぞ? 減速はしていたが、流石にそろそろリミットだ」
言いながら、テルスは上を指さす。振り仰げば『彼ら』はもうすぐそこまで迫っていた。
「ああ……」
「だから、気にするな。ずっと事態は単純だ。私から言えることは一つしかない」
『どうしたい?』
先程の彼女の瞳が頭の中をよぎる。そのまま流されそうになって、しかし光弘はなんとか踏みとどまった。
「その判断の為にも、事情が解らなきゃ……」
なお言い募ろうとする彼に、テルスはうんざりしたとばかりため息をつく。
「……わかった。『おい』」
『……』
「『呼ばれたら応えろ』」
『黙れと言ったり、応えろと言ったり。忙しいね』
「『光弘に従え』」
『うん。なるほど。確かにさっき私からは何も説明しなかったからね。彼らにとってみれば意味が解らない事ばかりだろう。それは良くわかるんだが、従え、と一言だけ言われても――』
「『時間稼ぎには相応の対価をもらうぞ』」
シェイドの長広舌も、今度こそは振るわない。テルスは無慈悲に断ち切ってみせる。
『……オーケイお手上げだ。光弘君』
「な、なんだよ」
『降参だ降参。やってられないよ。当初の予定通り、君の好きにしたまえ』
半ば投げやりにシェイドは笑って言い放った。
「はあ? お、お前……元はといえばこうまでこじれたのも……」
「みっちゃん、もう、あの人たちすごく近い!」
「ああ、くそっ。……テルス、上空にいる人間を全員助けろ!」
ここに至って漸く光弘も覚悟を決めた。納得のいかないことは数あれど、それらを棚上げしてしまってでも、自分の不始末を雪げるのなら、この時を逃すわけにはいかない。
未だ慣れないアバドンが回転する感触を努めて無視し、期待をこめてテルスを見つめる。
が。
「断る」
「は?」
あまりに簡潔にはしごをはずされた。
「おい、なにふざけて……!」
光弘は当然激昂するが、
「気が変わった」
例によって例のごとく、最後まで言葉を告げられない。遮るように、テルスは右手で光弘の額をはじいた。
「お前がやれ」
「何をっ」
テルスがいたずらっぽく口角を上げていた。童女のような笑みだった。契約した時の神秘的な顔や、先ほどの悪魔のような貌でない、初めて人間らしい表情をみて、光弘は何故だかはっとした。
「行くぞ」
その思考の隙間に滑り込むように、テルスが短く叫ぶ。
そして、世界が爆発した。