仲間
爪が砕け、左肩に喰らいついた蟻が肉を裂く。
それでもバーツは逃げなかった。呻きながら、なおも拳を振り下ろす。膝丈の草が足に絡まり体勢を崩し、倒れた蟻と一緒に地面に倒れ込むと、肩に喰いついていた蟻が肉を食い千切るように牙を深く突き立てた。そこへ右側からさらに二体。すごい速さでバーツに飛びかかる。もはや立ち上がる余力もない。二つの影がのしかかる。
――その瞬間、火の玉が轟音とともに降り注ぎ、バーツもろとも蟻たちを焼き尽くした。
「いやぁぁーーっ!!」
絶叫とともに、私は跳ね起きた。
……夢。そうだ、これは――夢。
息が荒い。胸が痛い。鼓動が耳の奥で鳴り響いている。
「ルル! 大丈夫か」
バーツが焦った顔で抱きしめて私を見ていた。
「大丈夫、もう大丈夫だ。俺がいる。……怖かったな、大丈夫だから」
カタカタ震える私の頬にキスを落としながら、彼は優しく何度も繰り返した。
バーツは………何を言いたいんだろう。
――"大丈夫"って、言葉、どういう意味だっけ。
夢も現実も、ぎりぎりまで私を追い立てる。眠りが浅くなり、寝ては飛び起きるを繰り返すようになった。
ほとんど動いていない頭で何とか考える。
このままではダメだ。
どの道を……選ぶ?
――私は、あの戦場を知らん顔して生きていけるのか?
無理だ。あそこはバーツの生きていく場所。バーツの仲間もいる。絶対に逃げ続けられない。
――なら、選べる道は一つだけ。
怖いのは覚悟がないからだ。強くあると決めたはず。
「私……頑張れ」
そこまでは何とか思考が追いついた。
あとは"やる"と心が決めるだけ。
――そこまでに一週間かかった。
地球の、一番平和と言ってもいい日本から来た私は……本当に、弱くて情けない。
やると決めてからも、思ったように道は見えてこなかった。
——作戦がいる。
でも考えようとすると、心も身体も閉塞感がひどい。気分転換に外を散歩しようとするが、異世界散歩って、地球とはちょっと違う仕様だった。
私が、散歩したいとバーツに言う。
バーツが、さっと自分のコートを持ってきて私をぐるぐる巻きにする。
バーツが、私を大事に大事に持ち上げる。
バーツが、足早に近所を一周する。
バーツが、家に到着したら私をコートから出す。
この散歩……誰の散歩なんだろう。
何回かしているんだけど、ぐるぐる巻きだから外が全く見えないし、足早に一周するから、コートの中にあった家の空気がなくなるころには帰宅してしまう。
うーん、これ……気分転換になってるのかな。
とはいえ、作戦はできた。
実行するためには仲間が必要。それも、私には心当たりがあった。
夜、ベッドでバーツの温もりを感じながら、お願いをしてみる。
「バーツ、前話してた、ほら、蜜月中に差し入れしてくれた仲間、何人かいたでしょ? 会わせてほしいの」
「……なんでだ」
じっと私を見ているのを感じて、自分の中の空気が張り詰めていく。ここは、ある意味正念場だと思う。言葉を正確に選ぶ必要がある。
「この間、戦場の状況を見て、色々と考えたの。それでね、作戦が思いついたから……」
「作戦?」
バーツは疑問形の声を出したけど、そこに警戒の色はなくて、ほっとする。
「うん、武器を使って皆で戦う方法」
「そうか……。やれやれ、だな」
ぼやきながら、私の頭に頬を擦りつけ「仲間を集める」と言ってくれた。
バーツが私を閉じ込めず、オスたちに会わせることを選んだ。これは、バーツ自身も覚悟を決めたということだ。私たち二人一緒に、何かを乗り越えた気がして、心に力が生まれるのを感じた。
そして約束の日。
酒場への道は……やっぱり覚えられなかった。あれだけ個性的な家があるのに、なぜ迷うのか。いや、個性的すぎて情報過多なのか。
酒場に着いた。見上げて、見回して——看板はない。
ただの平屋……いや、「ぺしゃんこ」な建物だった。横に広いのに高さがない。しかも端から端まで全部が入り口で、中央が低くてよけいにぺったんこだ。
――異世界センス、わからない。
中に入ると、奥に行くほど天井が高くなっている。不思議な造りだった。
「よぉ!? バーツやんけ! うわっ、久しぶりやなー! 飲みもん、何にする?」
元気よく声をかけてきた店主。……兎だった。耳がぴょこんと跳ねている。だから入り口が低かったのか。
「ビールと……桃ジュース」
バーツがぼそっと言って、いつものように私を背中に隠す。
「……も、もぉもじゅーすぅ!? なんでなんで!? お、お前、ジュース飲むキャラちゃうやろ!?」
ぴょん! と信じられない高さで跳ねて、カウンターをひょいと飛び越え、私の姿を見て固まった。
「あ……あ……え、え、まさか、噂のメス……!? うそやろ!? お前、連れてんの!? ほんまに!? 幻覚ちゃう!?」
「俺のツガイだ」
バーツが低い声でぴしゃりと返す。その目は鋭く、牙をちらつかせていた。
「つ、ツガ……ツガイ!? うそやん!? やばい……あかん……心臓が……ッ」
目をぐるぐる回しながら、兎の店主がふらふらとよろける。すると奥から他の客たちが出てきた。みんな頭を低くして、ぞろぞろと。
「なんだなんだー?」
「おい、バーツ、遅ぇぞ!」
出てきたのは、狼が三名、熊が一名、虎が一名。全員が私とバーツを見て、数秒、固まる。
そして、息ぴったりに叫んだ。
「あ、ぁ、ぁ、ぁ、あ、あ!!!」
――なにそれ。
「初めまして、ルルです」
「店主のウーやで。飛びっきりのメスに、俺の耳ごと心臓捧げてもええ……ごふぅっ!」
「俺はサム。見てくれ、この虎柄。狼どもとは格が違う……んぐっ!」
「ドンダだよ。蜂蜜取るのうまいんだ。今度、甘いやつあげる、期待しててよ、メスはやっぱ甘い……ごぶっ!」
「ジャンだ。毛並みだけは誰にも負けたことがない。ほら、撫でてみ……ぶべっ!ぐえっ!」
「ブルーと申します。この尻尾、今朝だけで百回は梳いた……ごぉっ!」
「殴られるの、正直キツいんだけど。リック。狼だよ。メスはほしいけど……ごっ!……ぅぅ……誰か、拳を止めてくれない?」
バーツが無言で拳を振るうたびに、仲間たちは順番に吹き飛ぶ。その目には、はっきりと火が灯っていた。
「どいつもこいつも尻尾振りやがって。その妙に高い声、聞いたこともねぇ。全員、表に出ろ。血祭りだ」
低くて渋い声に、獣たちの目が燃える。
「おお! やってやろうやないか! メスは俺のや!」
「違うね、俺だ」
「俺だろ! 蜂蜜持ってんの、俺だけだぞ!?」
「……せめて名前呼んでくれ」
わんわん吠える獣たちと、やけに小柄な一人が、威勢よく言い合っている。本来なら怖いはずなのに、どこか……アホの集団に見えるのはなぜだろう。
収拾すべく、私は静かに動いた。
まず、コートを脱ぐ。
その瞬間、酒場の空気が凍りついた。全員が石像みたいに固まり、視線が一斉にこちらへ向く。……一人だけ、怒りのオーラで闇に沈んでいるけど。
次に、にこっと笑う。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。獣たちの口元が、連鎖するみたいに緩んでいく。……一人だけ、鬼神の形相で歯を食いしばっているけど。
そして、バーツに抱きついた。
「大好き、バーツ」
次の瞬間だった。
悲鳴とも歓声ともつかない声が上がり、獣たちは次々と崩れ落ちていく。床に膝をつき、壁に寄りかかり、天を仰ぎ――。……一人だけ、笑っていた。やけに清らかな顔で。
いろんな意味で、全員が死んだ。もちろん私も——大事な何かが、確実に死んだ気がする。泣ける。
本題に入るまでが、やたらと長くなった。でも——ここからが大事だ。
「じゃあ、作戦会議します」
まずは基本方針。
「三人一組で動く。背中を預けて、敵を一体ずつ確実に倒すの」
テーブルを囲む視線が集まる。
「敵は基本、バラバラに動く虫ばっかり。蟻みたいに群れない。だから、こっちがまとまって動けば、怪我は減るはず」
「効率、悪くねぇか?」
バーツがビールを飲みながら言った。
「怪我が減れば、その分、担当日を増やせる。結果的には効率的」
「……なるほどな」
バーツは顎に手をやり、素直にうなずいた。
次は武器の話だ。
「オスには魔力を貯める卵巣はないけど、魔力を操れないわけじゃない。だから、普段から魔石に魔力を流して貯めておく。いざという時に、魔法陣が発動できるようにするの」
私は槍を取り出して、皆に見せる。
「一本ずつ、槍を配るね」
「まさか、俺が魔力を貯められるとはな……」
サムさんが、少し感傷的に呟く。
「本当に……私も、ですか……」
ブルーさんは半眼で槍を見つめていた。
「ここぞという時に使えば、固い敵でも貫ける。普通の槍としても使えるから」
「オォーッ! なんか冒険者っぽい!」
ドンダさんが振り回しかけて、リックさんが無言で止めていた。
「それと、罠も使う」
皆がこちらを見る。
「ベーベさんにお願いして、トラバサミを作ってもらってる」
「トラ……なに?」
ジャンさんが眉をひそめた。
「獣を捕まえる罠で。昔、おじいちゃんの家で見たことがあるの」
一瞬、言葉が詰まる。
「一年に一回会えるかどうかだったけど、すごく優しくて……いろんなこと、教えてくれた」
場の空気が、少しだけ静まった。無言で、バーツがそっと私の頭を撫でる。
作戦会議は――ようやく、形になりはじめていた。
槍の使い方を教えたいけど、重すぎて、私の知っている槍術の動きがうまくできない。——ということで、モップを持って実演することにした。
「まずは腰に添えて……スッと突いて、払って……避ける!」
説明しながらやってみせると、みんな目をぎらつかせて真似をし始める。
「あー、なるほどな。こう構えて……こっから、ドン、だ」
バーツは一度見ただけで、それっぽい動きを再現してきた。
「フッ、俺のしなやかさに合うな。この槍、俺色に染めてやろう」
サムさんは体を回転させ、舞うように槍を振る。
「ほわぁ! モップじゃないのに、なんか掃除してる気分!」
ドンダさんが楽しそうに振り回し——
「おい、誰かあいつ止めろ。店の壁に穴が空くぞ……」
リックさんが、嫌な予感しかしない顔で言った。
気づけばみんな、それぞれの動きで自然に槍を自分のものにし始めていた。手元の魔石も、ほんのり光り始めている。少しずつ、魔力を流しているみたいだ。
「草原に出て試すぞ!」
「えっ、もう!?」
思わず叫ぶ。
「ちょっと待って、ウーさんまで来るの!? お店は!? 昼は!?!?」
「俺が行かんで、どうすんねん。ルルちゃん♪ 今日は休業や〜!」
耳をぴこぴこさせて、ウーさんがにやけた。
……さらに。
「お店を出る順番を決める殴り合い? 必要ある? っていうか、みんな横一列で出るの!?……だから、あの入り口、あんなにばかみたいに広かったのか……」
広すぎる酒場の正面玄関から、ぞろぞろと横一列で出ていく猛獣たちと、兎一匹。その後ろ姿を見ながら、私は小さく呟いた。
「はぁ……異世界の常識って、わかんない……」
作戦は、こうだ。
狼三人で一チーム。熊・虎・兎で一チーム。私は塀の上から、指示係。
前線に立たなくても、できることはある。そう感じたのは、たぶん初めてだった。この日のために、音波を絞って届ける魔法陣を用意した。声が、いつもの十倍は遠くまで届く。望遠鏡の魔法陣も展開して——
「森から、カマキリ一体。狼チームへ」
「右手、バッタ一体。熊・虎・兎チーム、対応して」
狼チームの動きは、息が合っていて美しかった。リックさんが足を払って、ジャンさんが一瞬で胴を貫き、ブルーさんが周囲を警戒する。
熊・虎・兎のトリオも負けていない。ドンダさんの突進で足を封じ、サムさんの槍が鋭く閃く。その隙に、ウーさんが跳ねて敵の目を潰した。
「うさぎナメんなやーッ!」
各チーム、五体ずつ討伐。誰一人、怪我をすることなく撤収。
戻ってきた皆の顔は、驚きと達成感でいっぱいだった。
「マジで……できた……」
リックさんが、ぽつりと呟く。
オスが、ただ時間を稼いで死ぬ。それが"当たり前"の世界で。今日、誰も死ななかった。その事実が、胸の奥で静かに震えた。
そのまま、興奮冷めやらぬまま、酒場で乾杯!
「よっしゃ、今日は飲み放題やでぇー!」
ウーさんの声に、「おぉっ!」と野太い声が重なる。
「俺の槍、ちょっとかっこよくなってると思わねぇか?」
とサムさんがどや顔をして、
「俺は……そこの壁、凹ませた。ごめん……」
とドンダさんが落ち込む。
「全員、飲んだら磨けよ。武器も腕もな」
バーツの低い声に、場が一気に引き締まった。
「うん……なんか、すごいね」
思わず、笑ってしまった。
さっきまでバラバラだったみんなが、今は、ちゃんとチームになっている。
「乾杯、みんな! お疲れさま!」
たくましい声と、跳ねる耳と、少し誇らしげな背中が――夜の酒場に、ゆっくり溶けていった。




