第6話 おれが走り切れたわけ
ざわざわと不規則に動き回る集団が、係の人に促されてゆっくりと動き出す。向かうは赤茶色のトラック。おれにとって初めてのレースが始まる。すでに胸はドキドキと跳ねまわっている。周りを伺うと、みんなすごく落ち着いているように見えた。おれだけがどうにも落ち着かないみたい。
長距離の選手はそんなには多くない。1レース6人が一斉に走るのだ。一番始めに走るグループがスタートラインに向かっていく。おれは2番目のグループだ。
出番を待ちながら、一緒に走る6人とただ黙っている。
そしてとうとうおれたちの番になった。
地面に描かれた白い線にならんでいく。軽く足元を確かめるようにその場で跳ねてみる。思ったより弾む感触。先生が言った通り、スピードが出そうだ。場内アナウンスがおれたちの名前を競技場中に響かせる。
小さな声で大門が話しかけてくる。
「じゃ、頑張ろうぜ」
「うん。頑張ろう」
少しだけ大門の顔が赤い。第一と第二は同じ南小でありながらライバル関係にある! 一緒に頑張ろうなんて言っても、考えていることは別なんだろう。長いライバル関係とはいえ、ここまで見事にしてやられたことはない、はず。おれ達にとって完敗って言葉が重いように、大門にとっても第二の全勝がかかったレースだ。その言葉はたぶん相当重い。もしかしたら、一位を取るって宣言したこともその原因に入るかもしれない。
こういう大会に出るのが初めてのおれにはよく分からない。
第一と第二の勝負をどうでもいいとは言わないけど、それよりももっと大事なことがおれにはある。神崎先生が言ってくれたような、強い自分でいられるか。そして、かっこいい姿を見せることが出来るか。
──だって、あんな風に言われて燃えない男子はいないんだから。
***
スタートラインに並んで、構える。緊張と力みは待ち時間に置いてきた。いつでも行けるって、おれの胸が脈を打つ。
ピストルが空を狙う。大きく、スタートまでの残り時間が告げられる。
3…2…1…。乾いた音が響くと同時におれは溜めていた力を開放する。それでいて、ピストルから飛び出た煙だって見えていた!
飛び出したのは大門だ。全員まとめて置き去りにしてやるとばかりに、その大きな手足を使って一気に前に出る。まるで短距離走と思うようなダイナミックなフォームだ。
一人抜け出した大門と、それ以外。どんどんおれを、おれたちを引き離していく。
たまらずに1人がペースを上げて大門に追いつこうと一歩前に。釣られたように他の4人も速度を上げる。たちまちおれ一人が取り残される。トラック上で誰からも分かるくらいのビリっけつ。ちょっと嫌だなと思う。
けど、長い道だ。このペースが今のおれには合っている。
どくどくと心臓が脈を打つ。汗が額の鉢巻に染み込まれ、少しだけ冷える。手のひらから力を抜く。代わりに背筋をもっと伸ばす。体の中心に揺らぎはない。腕はよく振れている。引き寄せる腕が、反動で腰を回す。さらにその先の脚が勢いよく振り出され、トラックの気持ちのいい弾力がおれの体を前へと進める。
1周を過ぎて、第一小のみんなの前を過ぎる。スタンドから、大きな声。ケンちゃんの怒鳴り声が響く。ぶちぬけなんて言われても今は困る。
周を重ねて、少しだけ先をいく4人の足音が近づく。おれが速くなったのか、それとも4人が遅くなったのか。それを知る手段はない。分かるのは自分のことだけだ。ただひたむきに、走る。指折り数えるように、残りの体力とスピードを天秤にかけていく。
まず一人、外側から抜く。抜かれた子が必死になって食らいついてこようとする。おれはペースを変えない。ただ、走り切れる最大の速度、強さを維持していく。だんだんと力を無くして距離が離れていく。そして次の一人が近づいてくる。3000mなんて、マラソンランナーからすればウォーミングアップくらいの距離だ。でも、それでも3000mは長いのだ。無計画に走って呼吸が持つわけがない。こいつもいきなり飛び出した大門を無理に追いかけたものだから完全に息が上がってしまってる。神崎先生は言ってたぞ。マラソンは貯金も前借りも許してくれない。使った分をきっちり素直に持ってんだって。
周ごとに、一人ずつを丁寧に抜いていく。その度に歓声が大きくなっていく。ビリっけつがどんどん抜いていくんだから、見る分には爽快だろう。
走ってるおれはといえば、必死そのものだ。初めに見積もった速度がちょっときつかった。やはり大会でみんなの声援を浴びながらだと、正確なペースっていうのは見誤ってしまうものみたいだ。
それでも走る。きつくても、まだ無理じゃない。これまで積み上げてきた練習が、その事実をおれに教える。もしやれないのなら、それはおれが諦めたってことだ。意外なことに、そういう厳しさがおれの中にもあった。
最後の一周までのことはあまり覚えていない。でもそこまで大門はずっと一位のままだった。ひたすら一位と最後から上がって二位までくるのは、どっちが辛いかはわからない。でも、おれは死ぬほどきつかったし、多分大門も同じことを思ってるはずだ。
後ろから見ても、大門の息は絶え絶えでフォームも乱れているのが分かる。それでもまだ速い。しかもおれの足音に気がついたみたいで、ペースをあげることすらして見せた。一位になると大口をたたくだけのことはある。ここぞというときの底力は観客を大いにどよめかせている。
でも、おれを引き離せない。ケンちゃんの声がでかく、届く。
「コースケェ! ブーストしろブーストォオ!!」
そんなこと言われたって困る。でも元気をもらった。
なけなしのそれを体に投入する。体に鞭を打ち、ただただ心臓を燃やす。
ゴールまで残り一周を切った。気づけばおれは大門と並んでいる。視界の端にその姿が見える。あとはもう根性だ。余裕なんて全くない。ただただ体の全部を無理やりにでもひねり出して前に進む燃料にする。一気に息が上がって、体が鉛になったように重くなる。それでも脚を前に、腕を大きく振り続ける。
今さらだけど、こんなの、何が楽しいのか。だってただひたすら走るだけだ。吸っても吸っても体に酸素が届かない気がする。吐いても吐いても二酸化炭素は抜けていかないように思える。ただただ苦しくて、苦しくてたまらない。
それでも強引に腕を振り上げ、反動を使って強く引く。なにくそと、持ち上げた腕を振り下ろして勢いをつける。腕を振り回した力を腰に移して、脚はその勢いを使って前へ後ろへと忙しい。ただただ前へ。呼吸を強引に動きに合わせる。
酸素が足りない! 休みが欲しい! 頭の中がうるさすぎる! 黙って吸えるだけ吸って、吐けるだけ吐く!
多分、同じ気持ちをわかってくれるのは、隣を走る大門だけ。おれの全力に張り合ってくれる大門相手だからこそ、おれは勝ちたい。僅かでもその前に行きたいと、おれの中の闘争心が燃えている。
──目が眩むような疲労と闘争心の中、声が聞こえた。
その声を聞き漏らすことはない。だって、ずっと聞きたかった声が、いつまでも聞いていたいその声が、おれの名前を叫んでいるんだ。
そうだ。
その声は、どんなに苦しくても、おれを奮い立たせる。
もう限界だって思ってるのに、それでも体は動く。だって見ていてほしいのだ。おれがここまで積み上げてきたものを。この声にどれだけ力をもらっているかってことを!
最後まで走り切ることができる。そう信じられるのは──サチのおかげだ。
今、こんなにも苦しくて楽しくて仕方ないのは、積んできた練習が背中を押すから。絶対に走り切ってやると燃えてるのは、あの子にいいところを見せたいから!
結局ただそれだけだ!
***
力はもうこれ以上出ない。余力なんてない。でも気力をもらった。ならまだできることはあるはず。大門とはまだ横並び。勝てるかもわからない。それでいいのか? よくはない。だって、おれはかっこいいところを見せると約束したのだ。
かっこいい、強いランナー。箱根を駆け抜けるそのイメージに従って、わずかに体の使い方を変える。白鳥のような、ゆったりと大きく、それでいて滑らかで激しいあの走りへ、少しだけ近づけてみる。あの雪の残る山道に、今自分がいるのだ。
振り上げた腕から少しだけ力を抜く。重力にひかれて自然と腕が戻ってくる。自分の力だけじゃ足りないから、重力とか、自分の重さに頼る。腕を振る力をなるべくスムーズに脚へと伝える。腰はただ伝わる力のままに動くのみ。着地した足が、力強い反発を生み出して跳ぶ。勢いを留めることなく、滑るようなイメージを持って体を前に運ぶ。使えるもの全部を前に進む力に変えていく。
理想のおれが、現実のおれに重なる。でも理想を描けたのはたった数秒のこと。
体から理想が抜けた次の瞬間にはテープを切っていた。隣にはもう誰もいなかった。
止められない勢いのまま、神崎先生がでかいタオルでおれを受け止めてくれた。大歓声が遅れて聞こえてくる。
ああ、やったのか。どうかな、見ててくれたかな? かっこよく走れてたかな? 最後のスパートで無理をしたせいか、息が苦しくて仕方がない。思わず膝をつきそうになるほど、全身から疲れと汗が噴き出している。
こんなにも疲れていたのに、考えてたのはサチが見ててくれていたかって、ただそれだけ。かっこつけ野郎だなって思うけど、まあ仕方ないよね。かっこいいところを見せたいもんな。
***
「すごい! コースケ! よくやった! すごいぞ!」
神崎先生が、ガシガシとタオルでおれを撫でまわす。汗を拭くんだか褒めるんだかどっちかにしてほしい。力ずくで丁寧さとかは全然ないんだけど、抗う体力もないからされるがまま。みんなが集まってきてくれている。みんながおれの走る姿をみて、その結果を喜んでくれていることが本当にうれしい。…うれしいけど、でも、サチがいてくれたらいいのに。そりゃすぐサチの番だものな。
乱暴におれの背中を叩くケンちゃんとか、よくやったって褒めてくれる六年やすげぇと叫んでる四年。その合間を縫うように、遠目にサチを探す。
トラックのスタート位置へ向かうための集団にいる。遠いなぁ。
でも、全然遠いのに、みんなの隙間からちょっとだけ見てるだけなのに、サチと目があった。ウソじゃなくて、ホントに。
その薄桃の唇が形作った言葉、それが聞こえないはずの距離を軽々越えておれに届いた。
その言葉に思わず頭に血がのぼってふらついてしまう。大丈夫かなんてみんなが慌ててるけど、おれはそれどころじゃない。
届いたその言葉が確かなら。
おれは、約束を果たせたってこと!
***
興奮の冷めないケンちゃんやみんなと共にそのままサチを応援する。トラックのスタート位置に並んで、ただ前を見ている。ここから見ていても、やっぱりスラッとしていてかっこいい。
横並びになって、軽く跳ねたり、手首を回したり。全員が並び終わると、途端に静かになる。係の人が右腕をあげた。
煙が銃口から覗くころには、すでに全員がスタートダッシュを決めている。
本人に言ったことはないんだけど、サチの走る姿に時折見とれてしまうことがある。いつも見ているけれど、今日は本番用にしっかりとしたウェアだから、なおさらだ。長い手足が軽やかに細い体を運んでいく。
まずは一周。おれたちの時とは違って誰が飛び出すでもなくて、一塊になっているように見える。それでもサチを見逃すことはない。応援席から全力で声をあげる。聞こえているかはわからない。こちらも見ることもない。でも届いてはいる。だっておれは確かにみんなの応援を感じていたから。人の気持ちを読むのがうまいサチなら、おれよりよほどしっかり受け取れているに違いない。
まっすぐに、ただ前だけを見ている。それだけのことが、とてもよく見える。強い選手って言うけれど、サチの場合はきれいって言葉の方があってる気がするな。
ふと視線を感じて隣を見る。ケンちゃんがなぜか口をぽかんと開けたまま、おれをまじまじと見ている。信じられないものを見たような顔。どうしたんだろう?
「お前、すごいこと言うな……」
まさか…今の、口に出てた? うっそだろ?! なんとかごまかさなくてはならない!!
が、言葉を考えるよりも先に頭が前に向けさせられる。おれとケンちゃんの頭には、神崎先生の大きな手。
「今は応援! ほら、もう半分過ぎてるよ!」
確かにその通りだ。あとから応援が足りてないと文句を言われても困る。ただ、これが終わったら絶対にケンちゃんには口止めをしなくては。おれの人生にかかわってくる秘密だからな。
のどがつぶれるかと思うくらい、全力で声を張り上げる。代り映えのない頑張れって言葉だけど、それしか思いつかない。いろいろ考えるよりはシンプルな方がいいってテレビでも見たような気もするし。
残り2周のタイミングでサチが勝負をかけた。少しずつ静かにペースを上げている。ここまで力を残して置けること自体が信じられないけど、それに遅れずに合わせる他の選手もとんでもないって思う。
それでも自分でスパートをかけたサチは、掛けさせられた他の選手より優位にある。一人、二人が失速する。残りは二人。三人横並びになって最後の200m、直線を駆けていく。ここまで来たらあとは意地と根性! 応援にも熱が入りまくる。この後声が出なくても後悔なんてないんだから、息が続く限り声をかけ続ける。
おれの、おれたちの応援が力になったのかはわからない。でも、最後の一人をサチがわずかに上回った。
サチが勝ったんだ! 一位だ!
「サチが勝った!! すごい! サイコーだ!!」
神崎先生はさっさと競技場に降りている。ずりぃ! 短距離チームの先生が今頃サチを受け止めているはず。でもおれだって早くおめでとうを言いたい。
「先生ずるいって!」
文句を言いながらもサチの元へ急ぐ。
短距離コーチのしずえ先生に抱えられて、サチがトラックから出てきている。すでに神崎先生がすごいすごいと褒めているが、さすがにおれの時みたいに頭をぐりぐりはしていないみたい。だからおれたちも同じように、サチを囲んで全力でほめたたえる。もう少しスペースがあったら胴上げをしたいところだったんだけど、それはよしておいた。さすがにサチに怒られそうな気がしたから。
サチはにっこりと、おれに言う。
「私だって、かっこよかったでしょ!」
おれはもう、頷くしかなかった。
***
全員の出番が終わって、ユニフォームを脱いでいつもの服装に戻った。短パンで裾も丈も短くて恥ずかしかったけど、確かに走りやすかったしレースだなって気持ちになれた。そもそも周りもみんな同じような服装だったし、あれはあれでよかったな。
一人うなづいていると、更衣室の出入り口とは逆側からぽんと肩をたたかれる。振り向くとほっぺたに指が突き刺さる。
「ひっかかった~!」
「あのねぇ……」
今時1年生みたいないたずらをする奴がいるか。いたわ。サチだ。汗を流して、髪をそのままおろしている。いつものポニーテールではない。同じサチのはずなのに、たかが髪型一つでまるで別人みたいに見える。振り向いた直後は正直誰かと思ったくらい。すぐに分かったけどさ。
子供みたいにからからと笑うサチが、突然真顔になるからどうしたのかと思う。でも続く言葉に気が抜けた。
「ね、わたしまだちゃんとこうすけ君から褒めてもらってないなぁって」
あれ??めっちゃみんなで囲んで褒めまくったのを覚えてない? 目を丸くしたのに気づいてサチが早口になる。
「えっとね、ほらさっきはみんなと一緒にすごい一気に言われちゃったから、だれがどんな風に褒めてくれたのかわかんなかったのね! だからほら! わたしすごく頑張ったんだから、ちゃんと褒めること!」
まあそういわれればそうかもしれない。むしろみんなで盛り上がりすぎて注意されたくらいだものな。とはいえ改めて面と向かって褒めるのはなんだか恥ずかしい。
「あー、すごい! サチすごい! 頑張った! 感動した!」
こういう時は勢いに乗るに限る。実際に思ったことでもあるし、さっき言った言葉でもある。これならいけるだろう。
が、駄目みたい。キラキラしていた目が、半目になってジトーっとおれをにらむ。どうも選択を間違えたみたい。バタバタと両手を振って、正しい選択をおれに迫る。
「そんなのじゃみんなとわちゃわちゃ言ってたのと変わらないでしょ! 神崎先生じゃないんだから、しっかりと褒めて! ほら、ちゃんと、わたしのことなんて思ったか口に出しなさい!」
フンスと胸を張っておれに指を突き付けてくる。それはなかなか難しい話だと思う!
だが、なにやらおかしい気がする。だって、褒めろって言ったのに、サチのことを言えだなんて。何かがチリチリとおれの首をひりつかせる。
まるで、《《言われたい言葉をすでに知っている》》かのようだ。
瞬間、戦慄が走る。待て、嘘だろ? ケンちゃん!? まさか、言ってないよな? あの時口から飛び出た言葉を、口止めしていないことにようやく気が付いた。
おれが着替えている間、ケンちゃんはどこにいた? なぜ、サチは更衣室と逆の方から来た?
そのすべてが一つの答えを示している。でもそんなことある??
にこにこと、サチはすごくニコニコとしている。こんなに機嫌のいいサチは初めて見る。まるでクリスマスプレゼントと誕生日プレゼントをいっぺんに貰えると知っている子供のよう!
「ほら、いいんだよ? 思ったこと、全部言ってくれて。言って楽になっちゃお? 大丈夫、誰も聞いてないよ?」
一番言えない相手が聞いてくるんだから始末に負えない! サチの白くて暖かい手のひらが、おれの肩に乗せられる。ほら、聞いてあげるよ? なんて耳元でささやかれたら、もう駄目でしょ。
──結局、洗いざらい全部を聞きだされてしまうのだった。顔から火が出るかと思った。
***
陸上記録会も終わって、もう練習はない。でもついつい校庭に残ってしまっている。先週までは放課後のこの時間もずっと走っていたから、なんとなく体がむずむずする。体育の授業でいやいや走っていたのがウソみたいだ。
「まだ帰るには早いよなぁ」
おっと、また口に出てた。独り言が聞かれてたら恥ずかしい。周りを恐る恐る見渡すと、ちょうど真後ろにサチ。いきなりおれが振り向いたものだから固まってる。たぶん目隠しでもやりたかったんだろうな。
「……確かにまだ早いよねぇ」
うかつな独り言に、いたずら現行犯。これは痛み分けかな。
「正直こんなに走るのに慣れるなんて思わなかったよ。サッカーとかバスケならともかく、走るだけなのにあんなに楽しかったこともさ」
鉄棒に両腕を掛けてぶらぶらと体を揺らす。校庭のトラックでは、低学年の子たちがボールを蹴っている。
「わたしも、こうすけ君がここまで本気で走ってくれるとは思ってなかったカモ」
「そうなの?」
「うん。だって、初めの頃は1周でもひぃひぃ言ってたでしょ?ずっと辛すぎるって口から出てたよ?」
半笑いでサチが言う。そうか、そんなに前から色々口からこぼれてたんだな……。変にかっこつけた言葉とか聞かれてなきゃいいんだけど。
「それで、わたし思うんだけどね」
「うん?」
「きっとこのまま走るの続けてったら、すごいことになるよ。そう、きっとね、こうすけ君はすっごく強い選手に成れると思う!」
「ええ~、それ何見て言ってるのさ……。記録会1位程度じゃそこまで夢見れないでしょうよ」
「あー、そういうこと言うんだ? でも許してあげる! ね、耳貸して?」
ちょいちょいと手招きをされる。いや、耳を貸すほど近くに行ったら緊張でそれどころじゃないからね。
「もう、すぐ照れるんだから。──こないださ、わたしのこときれいだって言ってくれでしょ。それで、わたしもね、こうすけ君の走り方、一番きれいだって思うから。それが理由。ダメ?」
そんなことを言われたら、そんな風に言われたら!
******
ざわざわと、辺り一帯が不安と期待にざわめいている。一月。芯から冷える寒さの中、それでも確かな熱気がここにはある。
左腕のランニングウォッチを確認する。スタートまでは後2分。ボタンをカチリと押して、いつでも記録を始められるように準備をしておく。ピッと音が鳴る。同じメーカーを着けているのだろう、辺りからも同じような音がしている。周りは陸上競技特有の裾も丈も短いウェアばかり。
まあ俺だってそうなんだけど。
今か今かとスタートの号砲を待ちわびている。体が冷える前に走り出したい。というか、レース前はいつだって自分の力を試したくて仕方ないのだ。どれだけ練習を積んできたか、頑張ってきたかを表に出す機会なんだから。
それに、いつもとは違って肩にはタスキがかけられている。今からこのタスキを、遥か先の仲間へと届けるのだ。普段レースに出るときは、自分の力で、自分のために走る。ちょっと聞こえが悪いけど、それはまぎれもない事実だ。もちろんお世話になった人に応えるためでもあるけど、最終的には自分が目指す何かのために走る。俺はそう思っている。
でも今はそうじゃない。このタスキはちょっと違うのだ。正真正銘、チームの仲間のために、みんなのために走る。俺が今まで走ってきた中で、一番重いタスキだ。そして誇りそのものでもある。
自分の走りが、そのまま仲間に届く。これはやる気が出る。だから早くスタートの合図が欲しい。いつだって準備はいいんだからさ。
そんなことを思ってたら、ふと、昔言われた言葉を思い出した。
”このまま走るの続けてったら、すごいことになるよ”
あれは確か、初めて長距離走を走った後に言われたんだったか。地域の小学校での小さな陸上記録会だ。距離も3000m。今の俺からすればウォーミングアップ程度の短い距離。あの頃はとんでもない距離だと思ったもんだ。
それを考えると、確かに今いる場所はとんでもないところだなぁと思う。上空にはヘリがいるし、白バイの先導もある。そうだ、かつてあこがれた舞台に立っている。これはすごいよな。本当に、走り続けていたから、すごいことになった、と言えるかもしれない。
でも、本当にすごいのはここからだ。ここからにしてみせる。すごい舞台だけど、まだまだ上にはすごい人たちがいるんだから、そこまで行くのなら歩いてちゃだめだ。全力で走っていかなきゃ。
息を吐く。白く靄があっという間に薄れて消える。路肩には白い雪が残る。そしてスタートから少し離れた歩道からは、《《おれ》》が一番欲しい声が聞こえてくる。
ああ、誰に応援されるより、ただただその声が嬉しい。
スターターの腕が上がる。スタートラインに構えた選手の動きが止まり、その瞬間を待つ。
号砲が鳴り、俺の体が弾けるように飛び出していく。参加者の足音が地鳴りのよう。今、その先頭に俺がいる。
これからしばらくは走るだけ。ひたすらに走っていく。神崎先生の教えの通り、持っていくのは平常心。闘争心はポケットにでも隠しておく。
苦しいし、辛いし、休みたくなるような大変な道。それでも、なんだか楽しいって思えるから走るって不思議だ。
さあ、長い道のりだ。楽しく行こう!
終わり