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政略結婚して十年、夫と妹に裏切られたので離縁します

作者: ヨルノソラ
掲載日:2025/05/20

 朝の光が寝室のカーテンを透かして私の顔に柔らかく降り注ぐ。

 ベッドから起き上がると、トントンとドアがノックされる音がした。


「セレナ様、お目覚めでございますか」


「ええ、今さっき起きたところよ」


 セレナ・ヴァーミリオン。それが今の私の名前。

 十年前。十八歳で政略結婚をした時から変わらない日常がまた始まる。


 部屋に入ってきたメイドに私は問いかける。


「今日のスケジュールは?」


「午前中は慈善団体からの手紙の返信、午後はレティシア様がお越しになります」


 レティシア──そう名前が出て、私は頬をわずかに歪ませた。


「わかったわ。準備をお願い」


「かしこまりました」


 鏡の前に座り、腰まで伸びた金色の髪を梳かしながら、夫の姿を思い浮かべる。

 ルキウス・ヴァーミリオン。朝食を共にするのは週に一度あるかないか。いくら政略結婚とはいえ、これほど冷たい関係になるとは思わなかった。最近では挨拶すら交わさない日も多い。


「公爵様は昨晩も遅くお戻りになられましたね」


「そうね」


 彼がどこで何をしていたのかは、聞かないことにしている。知らないほうが色々と楽だから。


 ──それに私は家名を守るためにここにいるんだから。


 そう自分に言い聞かせるのは、もう習慣になっていた。


 髪を結い上げ、淡いブルーのドレスに袖を通す。窓の外では庭師たちが薔薇の手入れをしている。彼らは笑い合いながら仕事をしていて、その自然な交流が羨ましく感じる。周りの幸せが遠く感じるようになったのはいつからだろう。




 午後になり、妹のレティシアが柔和な笑みとともに居間に入ってきた。

 私より四つ年下のレティシアは、ロイヤルブルーのドレスに身を包み爛々と目を輝かせている。


「お姉様、今日もお美しいですね。そのエメラルドのネックレス、素敵です!」


「ありがとう。父上からの贈り物よ」


「いいなぁ。私にもそんな素敵なものを贈ってくれればいいのに」


 レティシアは拗ねたように唇を尖らせる。


「にしてもお姉様は何をつけても似合うから羨ましいです」


 また始まった。

 私は呼吸とほぼ変わらないくらい、小さくため息を漏らした。


 褒め言葉の裏に隠された羨望と、微かな嫌味。


 レティシアは私が公爵家に嫁いだことを羨んでいた。

 優雅な暮らし、社交界での地位。でも彼女は知らない。この金色の檻の中の息苦しさを。


 それからレティシアは近況を話して満足したのか、日が落ちる前に帰って行った。

 私は窓辺に立って庭を見下ろす。黄昏時の光が薔薇園を赤く染めている。


「私はいつまで我慢しなくてはいけないの」


 そんな独り言がこぼれる。誰も聞いていない部屋で、初めて本音を漏らした気がした。




 ★




「セレナ、少しいいか」


 珍しく、夫のルキウスから声がかかった。


「はい。なんでしょうか」


「晩餐会の招待状の確認を頼みたい。書斎にあるから明日までに確認しておいてくれ」


「わかりました」


 そう言うと彼はそそくさと玄関口へと向かって行った。

 彼の香水の香りが舞い、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。かつて私たちにも、表面上は夫婦らしく振る舞っていた時期があった。


 頼まれごとを済ませようと書斎に入る。インク瓶、羽ペン、封蝋……どれも几帳面な夫らしく、整然と並べられていた。


「ここかしら?」


 招待状を探すため、引き出しに手をかける。


 ──と、指先が何かに触れた。


 底板の隅に紙が一枚だけ滑り込んでいた。ほかの文書と違い、封筒にも入れられていない裸の便箋。無造作というには少し不自然。


「……これは?」


 淡いピンク色の便箋。


 レティシアの筆跡だ。明らかに確認を頼まれた招待状とは違うもの。

 勝手に開けてはいけない──そう思いながらも、違和感の正体を確かめたい気持ちが勝ってしまう。


「愛しいルキウス様」で始まる手紙。目を閉じたい衝動に駆られたが、私は最後まで読み通した。


 ──あなたに会えない日が続くと、息ができません

 ──次の夜会で会えるのを楽しみにしています

 ──お姉様には絶対に秘密ですからね

 ──お姉様が気づくとは思えませんけど

 ──お姉様より、私のほうが貴方をよく理解しています」


 一字一字が目に焼きついていく。胸の奥に冷たいものが流れ込む感覚。


「──そう。そういうことなのね」


 私は手の震えを抑え、手紙を元の場所に戻す。

 何も見なかったかのように招待状を見つけ書斎を出る。


 レティシアが急に訪問を増やした時期。ルキウスとすれ違った時の彼の目の奥に浮かぶ罪悪感のようなもの。そして妹の、少し挑戦的な笑顔。すべてが今、意味を持ち始める。


「どうして今の今まで気づかなかったの?」


 廊下の窓に映る自分の顔に問いかける。


 いや、本当は勘づいていた。

 妹の不自然な訪問や、夫が家を空ける時間が増えたこと。数え上げたらキリがない。

 でも気づかないフリをしていただけ。この美しい檻の中で、唯一の慰めは家名の誇りだった。それすらも幻だと認めてしまえば、何も残らないから。


 自室に戻り鏡の前でゆっくりと髪を梳かす。

 一筋、また一筋。機械的な動作に心を預ける。


「十年間、何もかも耐えてきた。家名のために、体面のために。なのに貴方たちは」


 一瞬、ブラシを握る手に力が入り、髪が引っ張られる痛みを感じた。でも私は表情は変わらない。

 この痛みさえも、心の痛みに比べれば取るに足らないものだから。


 ──お前は愛されていない


 心の中の声が囁く。

 その声に耳を貸さないようにしながら、私は立ち上がり、窓に近づく。

 外には自由があるのだろうか。


 ──公爵夫人の地位を捨てて、お前に何が残る? 


 私は深く息を吸い、その問いを受け止める。家名のために生きてきた私。


 でも──。


「私の人生は私のものだ」


 それが導き出した私の答え。

 床に落ちた髪の毛を拾い上げ、指でくるくると巻きながら考える。


「ルキウス、レティシア。あなたたちの裏切りは、私の人生の終わりじゃない。始まりにするわ」


 明日から行動を起こさなければならない。

 窓の外は漆黒の闇。でも私の中では何かが明るく灯り始めていた。まるで長い眠りから目覚めたかのように、頭が冴え渡る。私は一心不乱に計画を立て始めた。




 翌日、レティシアが訪ねてきた。

 私はいつもと変わらない微笑みで迎える。


「待ってたわ。今日はアールグレイを淹れたの。あなたの好きな香りよね」


「まあ、お姉様! 覚えていてくださったんですね」


 レティシアは嬉しそうに微笑む。

 その笑顔の裏に隠された秘密を知っている私は、茶器を手に取りながらわずかに唇を引き締める。


「ところで、先週は体調が悪かったそうね。もう良くなったの?」


 レティシアの表情が一瞬だけ強張る。


「ええ、もう大丈夫です。ちょっと微熱があっただけなので」


「そう。回復したみたいで良かったわ」


「それはそうと、お姉様って本当に素敵ですよね。いつも冷静で優雅で! 私なんて全然及ばないです!」


 また始まった。褒めるふりをした自己卑下。

 だがその裏には「でも私はあなたの夫を奪っているんです」という勝利宣言が隠されている。


 数時間してレティシアが帰った後、私は書斎に向かう。

 自分の価値を取り戻すため、夜遅くまで書類を整え、離縁と財産分与の準備に取りかかった。




 一週間後、私は夫を居間に呼んだ。彼の顔には軽い困惑の色が浮かんでいる。


「珍しいな、お前から話があるとは」


「お時間を取らせてごめんなさい。これを見ていただきたくて」


 私は静かに、レティシアとの手紙のコピーを差し出した。ルキウスの顔から血の気が引いていく。


「これは……」


「十年間、私は家名のために心を殺してきました。でも、あなたとレティシアが私を裏切ったのなら、もうその必要はないでしょう」


「誤解だこれは」


「言い訳を聞くつもりはありません。離縁届に署名をください」


 彼の表情が険しくなる。


「離縁だと……正気か?」


「ええ」


「おまえにこんな行動力があると思わなかった」


 その言葉に、十年間の抑圧された感情が一気に噴き出しそうになる。


「私のことを見ようともしなかったですからね」


「何が言いたい?」


「いえ、元からこのくらいの行動力はあります。十年一緒にいてそんなことも知らなかったのかと思っただけです」


 ルキウスはグッと拳を握りしめる。


「この家を出て行けば、おまえには何も残らないぞ」


「構いません。公爵夫人の座も、称号も。すべて手放す覚悟です」


「本気なのか?」


「ええ、本気です。レティシアには何も告げていません。彼女があなたと一緒になれば、きっと喜ぶでしょうね。どうぞ幸せにしてあげてください」


「セレナ……」


「さようなら、ヴァーミリオン公爵」


 書斎を出る時、背中から彼の視線を感じた。でも振り返らなかった。これが最後だと思ったから。




 ★



 春の陽光が差し込む小さな家。公爵家から遠く離れた地方の静かな町にある、私の新しい住まい。窓から見える広い庭には、これから植えようと思っている花の苗が並んでいる。


「セレナ様、お茶の準備ができました」


 使用人はたった一人、昔から私に仕えてくれていたメイドだけ。

 彼女は私の決断に驚きながらも、ついてきてくれた。


「ありがとう、マーサ」


 紅茶を飲みながら、あの日の決断を思い返す。あれから一ヶ月。正式に離縁が成立し、私はセレナ・グレイスに戻った。公爵家としては、これ以上の醜聞が広まるのを避けたかったのだろう。ルキウスは家名の汚点を避けるため、私の条件をすべて受け入れた。


「セレナ様、これからどうされますか?」


「これから?」


 窓の外に広がる景色を見つめながら微笑む。


「自分の人生を生きるわ」


 夕暮れ時、長く伸ばしてきた髪を見つめる。公爵夫人としての誇りと重荷の象徴だった金色の髪。


「これはもういらないわね」


 十年かけて伸ばしてきたそれは、鎖のように重たい。

 ハサミを手に取り一息に切り落とす。刃の音と共に、何かがほどけていく気がした。


「はあ。こんなに息がしやすかったなんて知らなかったわ」


 鏡に映る自分は、十年前の少女のようだった。


 ここから私の人生は始まるのだ──。



 ★



 離縁してから一年が過ぎた。

 私は地元の子供たちに読み書きを教えたり、小さな図書室を開いたりして過ごしている。ヴァーミリオン公爵夫人という肩書きを持っていた頃よりも、ずっと心が満たされた日々を送っていた。


「セレナ様、お客様がいらっしゃっています」


 マーサが居間に入ってきて告げる。その顔には困惑の色が浮かんでいる。


「誰?」


「それが、その……ヴァーミリオン公爵様です」


 一瞬、耳を疑った。どうやってこの場所を特定したのだろう。


 いや、公爵の力を以てすれば、簡単なことか。


「通してよろしいですか?」


「ええ、構わないわ」


 数分後、ルキウスが部屋に入ってきた。一年前と変わらない気品のある立ち姿。でも顔には疲れの色が見える。


「久しぶりだな、セレナ」


「どういったご用件ですか、ヴァーミリオン公爵」


「……君にそう呼ばれるのはむず痒いな」


「ご用件は?」


 彼は少し黙り、それから重い口調で話し始めた。


「レティシアと結婚した」


「そうですか。おめでとうございます」


 噂で耳にはしていた内容だ。けれど、私と離縁して間もなく籍を入れていたはず。


 どうしてそれを今更伝えにくるのか、と思ったが、彼の表情で大方の察しがついた。


「もう限界だ。レティシアに公爵夫人は務まらない。社交界での立ち振る舞い、家の切り盛り、慈善活動……何一つ彼女にはできない」


 ルキウスの言葉に満足感を覚える自分がいて、少し恥ずかしい。でも同時に、妹に対して少しだけ同情の念も湧いてきた。あの重圧は経験しないとわからないものよね。


「それで? 何が言いたいんですか?」


「戻ってきてほしい。君なしでは家は回らない。今になって気づいた。君がどれほど完璧に公爵夫人を務めていたか」


 私は少し考え、それから静かに笑った。


「あなたは何も理解していない」


「は?」


「私があなたのもとを去ったのは、単に裏切られたからだけではありません。私の人生を取り戻すためです」


「意味のわからないことを……。報酬なら十分に用意する。名誉も地位も、すべて元通りだぞ。君が望むなら何人か男も用意しよう」


「あなたが提供できるものに私は興味ありません。この一年で、私は自分の意思で生きることの喜びを覚えました」


 ルキウスは下唇を噛むと、最後のカードを切ってきた。


「自分さえよければいいのか? レティシアは苦しんでいる、公爵家の要求に応えられず、毎日泣いているんだぞ」


「私の知ったことではありません。第一、あなたが解決すべき問題です。私ではなく、公爵様ご自身がお助けになって差し上げればよろしいのでは?」


「セレナ……」


「お引き取りください」


 立ち上がって言う。


「私には新しい人生があります。あなたにも、あなたの選んだ道があるはずです」


「き、君は少々、混乱しているようだな。わかった。今すぐに無理強いはしない。だが、申し出はいつでも有効だからな。屋敷で待っている」


 そう言い残し彼が去った後、私は庭に出た。青空の下、風が髪を揺らす。


「大丈夫ですか?」


 マーサが心配そうに尋ねる。


「ええ、平気よ。むしろ、すっきりしたわ」


 それから二週間後、町の市場で買い物をしていると女性に声をかけられた。


「セレナ様ではありませんか?」


 顔を上げると、以前ヴァーミリオン家で働いていた女中の一人、エマだった。


「エマ? こんなところで会うなんて」


「この街に住んでいる姉に会いにきたんです。明日には首都に戻ります」


「そう。元気にしていた?」


 彼女はためらいがちに私を見つめ、それから小声で口火を切った。


「屋敷のことをお話ししてもよろしいでしょうか」


 カフェに入り、彼女の話を聞いた。

 エマは最近までレティシアの侍女をしていたという。


「レティシア様は大変なんです」


 彼女は申し訳なさそうに切り出す。


「朝は遅くまで寝ていて来客の対応も身に入らない。先日も重要な接待をすっぽかして、公爵様が激怒されました」


「そう……」


「それだけではないんです! 公爵様とレティシア様は毎日のように口論になっていて、もう収拾がつきません!」


 今にして思えば、レティシアはただ私の真似をしたかっただけなのかもしれないわね。


「それに社交界の奥様方も冷たいんです。皆様、セレナ様を慕っておられました」


 彼女なりに努力はしていたのだろう。朝から晩まで礼儀作法や書簡の書き方を学び、社交界の手引きを必死に読んでいたと聞いた。

 けれど、人には適材適所があるし、なんでも思い通りにいくわけではない。


「何が幸せなのかはわからないものね」


 自由を得た今、初めて本当の意味でそれを理解した気がした。


 妹や元夫の苦しみを見ても、罪悪感はないし後悔もない。


 人は自分の選択の結果と向き合うしかないのだから。

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かつて、仕事をしていた時に手柄は全て自分で、ミスは部下に押し付ける上司がいました。 私の直属の上司で無かったことが幸いでした。 さっさと離れて正解で、後は高見の見物なのが面白かったです。 続きが読みた…
ツッコミどころが多いなーと思いつつ、感想欄でだいたい指摘されててちょっと安心しました。全体的に「現代的価値観で書かれた中世風異世界のお話」っていう、よくある落とし穴にズッポリハマっちゃってるなあ、って…
ざまぁスキーとしては、略奪妹と浮気男がもっと苦しむサマが見たかったとです。 下位貴族じゃなく公爵家の醜聞ですからねぇ。略奪妹に対する社交界での口撃はさぞ厳しいものでしょうね。ざまぁ。
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