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10.とある悪役令嬢の幸福

 お帰りなさい、ルイス!

 無事に帰って来てくれて嬉しい……。

 ……いやだわ、わたしったら。ほんの半月離れていただけなのに、子どもみたいね。恥ずかしい……。


 ううん、退屈はしなかったわ。

 ルイスがいない間、このオーデン子爵領のことを勉強していたの。

 わたしは社交ではルイスの役に立てないから、せめて領地経営だけでもと思って……。


 え、良い知らせ?

 ……そう。わたし達の婚約が正式に認められたのね……。


 もちろん嬉しいわ。

 だけど……本当にわたしでいいのかしらって、今でも思ってるの。

 お屋敷に置いて貰えるだけでもありがたいのに、ルイスのお嫁さんにだなんて……。

 だって、わたしはただの平民よ? いいえ、ただの平民どころか、帰る家すらない人間なのよ?

 そんなわたしがルイスのお嫁さんになっても、オーデン家の役には立てないわ。足を引っ張るだけ……。

 ルイスにも、お義父様、お義母様にも申し訳なくて……。


 ……ありがとう。

 そうね。ルイスはわたしに手を差し伸べてくれて……わたしはその手を取ると決めたんだもの。

 つまらない愚痴は今日限りにするわ。わたしは、わたしに出来ることを頑張るしかないんだもの。

 ごめんなさい。本当に……ありがとう。


 ところで、王都の様子はどうだった? 王宮の夜会に参加してきたのでしょう?

 ……そう、クリストファー殿下とエリカ様の婚約が正式に発表されたのね。

 王都はしばらく、この世紀の恋物語の話題でもちきりでしょうね。

 そして、運命の恋人達を引き裂こうとした稀代の悪女、ディアナ・オルコットのことも……。


 気づかってくれてありがとう。

 でもいいのよ。ディアナ・オルコットは悪役令嬢。それが事実だもの。

 だけど……ルイスにだけは全て知っておいて欲しい。

 ディアナ・オルコットへの弔いに。

 ディアナが如何にして悪役令嬢になったのかを……。


 はじまりは2年前。王立学園1年生の終わり頃だった。

 その日は王立学園の休日で、ディアナはとある侯爵家のお茶会に出席していたの。


 あの頃、突如姿を現した伯爵令嬢が物珍しかったのでしょうね、ディアナ宛てにお茶会のお誘いがたくさん来ていたの。ディアナはオルコット伯爵の命令で、良い縁に繋がりそうなお茶会には片っ端から参加させられていたわ。

 だけど、あの頃ディアナはとても疲れていて……うまく表情を作ることすら難しくて……。口元をわずかに笑みの形に保つので精一杯だった。

 お茶会に出席しても、失礼にならない程度にお茶を頂いて、皆さんのお話に適当に相槌を打ってから、庭園で迷ったふりをして束の間独りでぼんやりと過ごすのが常だったの。


 あの日もそんな風に、侯爵家の庭園の東屋で、独り空を眺めていたわ。

 春とは名ばかりの肌寒い日で、花もまだほとんど咲いていなくて、庭園には他に人気はなかった。そのはずだった。


「おや、今日もまた迷子ですか?」


 背後から突然かけられた声に、ディアナは飛び上がりそうになったわ。

 振り返ると、そこには見知った顔がからかうような笑みを浮かべて立っていた。


 代々宰相を輩出する名門公爵家の三男、ハロルド様。

 彼と言葉を交わしたことはなかったけれど、顔はもちろん知っていたわ。

 王立学園の同級生だし、家柄にも容姿にも優れている上にクリストファー殿下の親友ということで、とても目立ってらっしゃったの。それに、オルコット伯爵が狙う婿候補の1人だったから……。


 戸惑うディアナには構わず、ハロルド様は向かいの椅子に腰掛け、悠然と長い足を組んだ。

 そして言ったの。


「ディアナ嬢、クリストファー殿下のために悪役令嬢になるつもりはありませんか?」


 何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。

 言葉を返せずにいるディアナに、ハロルド様は悪巧みを持ちかける詐欺師のような笑みで顔を寄せた。


「見返りは、オルコット伯爵家からの解放」


 やります、と反射的に答えていたわ。

 ハロルド様の仰る「悪役令嬢」が何なのか、その時には全く分からなかった。だけど、あの家から逃れられるのなら何者にでもなってやると、そういう気持ちだったの。


 ハロルド様はどうやって調べたのか、オルコット伯爵家でのディアナの状況を、ほとんど正確にご存知だったわ。

 知った上でディアナに声を掛けたのだと……。


 こうしてディアナは、世紀の恋物語の悪役令嬢になった。


 主役はもちろんクリストファー殿下とエリカ様。

 筋書きを作るのはハロルド様。

 協力者は、騎士団長のご子息であり、学生の身でありながら騎士団に所属するカール様。

 そして、悪役令嬢のディアナ。


 悪役令嬢の役割は、ヒロインであるエリカ様を虐め、それを理由に断罪され、婚約を破棄されること。

 その準備として、幕が上がる前にディアナはクリストファー殿下の婚約者になる必要があった。


 婚約の話は、殿下とハロルド様が何か裏で手を回したらしく、とんとん拍子に進んだわ。

 オルコット伯爵は、誰に何を吹き込まれたのか知らないけれど、ディアナが殿下に見初められたと、そう信じていたみたい。

 「よくやった!」と、珍しくディアナに笑顔を向け、王家と縁戚になるのだと有頂天になっていたわ。

 さすがに第2王子殿下を伯爵家の婿に望むわけにはいかないからと、遠縁の男の子を養子にする算段をつけたりもしていたわね。


 婚約したと言っても、ディアナと殿下はあまり親しく接しないようにしていたわ。婚約者として最低限の、儀礼的なお付き合いだけ。

 だって、ディアナと殿下が仲睦まじくしていたら、エリカ様が登場したときに都合が悪いでしょう?


 いよいよ幕が上がる直前、つまりエリカ様が王立学園に入学する直前に、1度だけ役者が顔を揃えたことがあるの。

 ハロルド様のお屋敷で、関係者だけの小さなお茶会が、密かに開かれたのよ。


「ディアナ嬢、私とエリカの我が儘のために貴女を利用し、あまつさえ悪者にしてしまうこと、本当に心苦しく思っている」


 そう言って、クリストファー殿下は、伯爵家の娘に過ぎないディアナに頭を下げて下さった。


「ディアナ様、わたしへの嫌がらせ、よろしくお願いしますね! あ、わたし運動神経には自信あるし、汚れるのとかも全然平気なので、どうぞ遠慮なく!」


 初めてお会いするエリカ様は、笑顔が可愛らしい方で、この状況を楽しんでいる様子だったわ。


「ディアナ嬢、貴女も俺も、本来こういうことには向いていないように思うんだが……まぁ、やるからには精一杯頑張ろう。よろしく頼む」


 真面目な顔で仰ったのはカール様。


「ディアナ嬢、カールはああ言ったが、貴女のその美しさは誰よりも悪役令嬢向きですよ。ええ、死なせてしまうには惜しいほどにね。貴女の気が変わればいつでも言って下さい。悪役令嬢後の人生、僕がご用意しましょう。今度は悪役ではなく、ヒロインとしてね」


 ハロルド様はからかうような笑みを浮かべて、そう励まして下さったわ。


 ……どうしたの、ルイス? 変な顔をして。

 なんでもない? それならいいのだけど……。


 程なくして、クリストファー殿下、ハロルド様、カール様、そしてディアナが学園の3年生に進級し、エリカ様が入学してきた。

 ついに幕は上がったわ。


 いつ、どんな嫌がらせをすればいいのかは、いつもハロルド様から密かに連絡があった。

 と言っても、事細かな打ち合わせをすることはできなかったから、ほとんどアドリブよ。


 どの嫌がらせも、本当に実行したの。

 その方がリアリティが出るからと、エリカ様が仰って。

 特に重要な嫌がらせは、必ずクリストファー殿下、ハロルド様、カール様の内の誰かが目撃者になる手筈になっていたけど、なるべく一般の学生も目撃するようなタイミングを選んでいたわ。


 それにしても、エリカ様を階段から突き落としたときは冷や汗が出たわ。

 怪我をしないように上手く落ちる予定だと聞いていたのに、エリカ様、階段の下でうずくまったまま動かないんだもの……。

 もしや大怪我をさせてしまったのではないかと、血の気が引いたわ。

 頭が真っ白になって、思わずエリカ様に駆け寄りそうになったのだけど、目撃者としてその場にいたハロルド様から目線で制止されて、危うく踏みとどまることができたのよ。


 後から、エリカ様は足首の捻挫で済んだこと、エリカ様の判断でわざと怪我をしたのだということを聞いたわ。

 確かにこの恋物語のスパイスとしては効果的だったとは思うけど、エリカ様ったら無茶をなさるんだから……。

 それだけこの計画に本気だったということなのでしょうね。


 エリカ様のこと、まともに言葉を交わしたの1度だけだけど、わたしはけっこう好ましい方だと思っているわ。

 田舎育ちという共通点もあるし、意外と話が合うかもしれない。


 ただ、エリカ様はわたしとは全然違う一面をお持ちだったわ。

 エリカ様って、演技が上手いのよ。

 目に涙を溜めて、しかもそれを零さないまま保つなんて芸当を、平気でやってのけるのよ?

 どうやってするのか、いまだに見当もつかないわ。


 わたしは演技はさっぱりだったわ。

 もっと目をつり上げて罵るとか、逆に高笑いでもして見せた方が悪役令嬢らしいかしらとは思ったのだけど、ちっともできる気がしなくて……。

 無表情を保つのが精一杯だったわ。せめて冷たい印象を与えられていたらいいのだけど。


 卒業パーティーの婚約破棄の場面だって、大勢の人の前で、長々と悪役令嬢らしい台詞を喋らなければならなかったでしょう? とっても緊張したのよ。

 緊張しながらも、お高く止まった悪役令嬢らしく、なんとか澄ました顔を保っていたというのに、エリカ様ったら、そんなわたしを見て笑いをこらえてるんだもの……。

 まぁあれを見て、わたしも緊張がほぐれた気がするけれど。


 そうね、エリカ様って妙に余裕がある方なのよ。

 肝が据わっていると言うのかしら。

 そういう意味では、王子妃に向いてらっしゃるかもしれないわね。

 これから苦労もされるでしょうけど、なんだかんだ乗り越えて行かれる気がしているの。


 婚約破棄を宣言された後、わたしは王宮に連れて行かれたわ。

 人の目を欺くために、一旦は牢に入った……と言っても貴人用の牢よ。窓のない簡素な小部屋で、特に不便はなかったわ。

 見張りという名目で部屋の外にカール様がいて下さったから、不安も感じなかった。


 その夜、わたしは毒を飲んで死んだということにして、闇に紛れて王宮を出たわ。

 ちゃんと棺桶に横たわって、それをハロルド様とカール様が荷馬車で運んで下さったの。


 ……いいえ、怖くなんかなかったわ。

 これで、ようやく……ようやくオルコット家から逃れられるのだと思うと……。


 実はね、ハロルド様がわたしに悪役令嬢をやらないかと持ちかけたとき、初めは服毒死するという計画ではなかったの。

 婚約破棄の後、殿下とハロルド様が手を回して、オルコット伯爵を抑え込める家柄の令息を、わたしの新たな婚約者に据えるという計画だったの。新たな婚約者には、容姿や性格も十分吟味の上で選ぶと。


「ディアナ嬢、貴女さえ良ければ、僕が新たな婚約者となり、オルコット伯爵家を継いでもいいと思っていますよ。公爵家の僕なら、オルコット伯爵や夫人から貴女を守ることができる」


 ハロルド様はそこまで仰って下さったの。

 この計画のために悪評のついた令嬢を妻にして、傾き掛けた伯爵家を継いでもいいだなんて……ハロルド様は本当に殿下に忠誠を誓ってらっしゃるのだわ。


 ……あら、お兄様ったら、また変な顔をしてる。

 そう? なら気にしないけど……。


 死んだことにして密かに逃がして欲しいと、わたしがお願いしたの。

 ハロルド様のお申し出はありがたかったけれど、どんなに頼りになる方が夫になって下さっても、オルコット家に関わっている限り、オルコット伯爵や夫人との関係を完全に断てるわけじゃない。もう耐えられないと思ったの。

 例え野垂れ死ぬことになったとしても、オルコット伯爵家と無関係の平民になって生きていきたいと……。


 ハロルド様は随分と心配そうだったけど、最後には了承して下さった。

 計画が変わったことでハロルド様達の手間を増やしてしまったことは申し訳なかったけれど……。


 郊外の墓地で荷馬車から降ろされて、棺桶の蓋が開けられたとき、初めに目に飛び込んできたのは満天の星だったわ。

 ああ、わたしは自由になれたのだと、自然と笑みが込み上げてきた。


 ぼんやりと横たわるわたしを優しく抱き起こしてくれたのは、そこにいるはずのないお兄様だった。

 あのときのわたしの気持ち……とても言葉で言い表すことなどできないわ。


 ……お兄様、会いたかった。会いたかった、会いたかった……!


 いいえ、オルコット家にいる間、お兄様や伯父様、伯母様に見捨てられたなんて思ったことはなかったわ。

 ただ、立場上どうしようもないのだろうと、諦めていたの……。


 ……そう、ハロルド様がお兄様に知らせて下さったのね。

 わたし、ハロルド様への感謝の気持ち、一生忘れないわ。もうお目にかかることは叶わないないでしょうけど……。


 まぁ、本当だわ。

 いつの間にか、「わたし」と言ってしまっていたわね。

 ディアナ・オルコットとわたしを切り離して話すよう、普段から気をつけていたのに。


 わたしはアン。

 伯爵令嬢なんかじゃない、ただの平民のアン。

 ディアナ・オルコットは死んだ。

 わたし、今日で本当にディアナと決別するわ。


 だから、ねぇ、お兄様。

 最後にもう1度だけ呼んで欲しいの。

 昔のように、「ディア」と。



〈了〉


最後までお読み頂きありがとうございました。

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