やっぱり金!
朝の食堂は、昨日と同じように騒がしかった。
味噌汁の湯気。
茶碗の音。
眠そうな顔で飯をかき込む男たち。
その中で、いつもより少しだけ背筋を伸ばして座っていた。
理由はある。
作業服の胸ポケットに、折りたたんだ紙が入っていた。
昨日の夜、書き上げた注意書きの紙だ。
ただの紙一枚。
それなのに、妙に気になる。
飯を食べている間も、胸元が少しだけ落ち着かなかった。
「……別に悪いことするわけじゃないんだけどな。」
小さく呟いて、味噌汁を飲む。
温かい。
少し落ち着いた。
周りでは、いつものように仕事の話が飛び交っている。
「昨日の機械、また調子悪かったな!」
「班長に言ったか?」
「言っても部品待ちだとよ……」
そんな声を聞き流しながら、箸を進める。
頭の中には、掲示板のことばかりあった。
昨日の汚い貼り紙。
その右下に書かれた落書き。
『汚くて読めねえ』
思い出すと、少し笑いそうになる。
あれを書いた誰かに、少しだけ感謝したくなった。
「……ごちそうさまでした。」
手を合わせて立ち上がる。
食器を返し、廊下へ出る。
掲示板は、玄関へ向かう途中にある。
近づくにつれて、少しだけ歩く速度が落ちた。
別に、誰かに頼まれたわけじゃない。
管理人に許可を取ったわけでもない。
勝手に貼っていいのか。
そこは、少し迷った。
だが、昨日の紙は読みにくい。
そして、自分の紙は読める。
なら、たぶん悪いことではない。
「……たぶん、な。」
自分に言い聞かせるように呟く。
掲示板の前に立つ。
昨日の貼り紙は、まだあった。
曲がったまま。
しわが寄ったまま。
字が汚いまま。
右下には、あの落書きも残っている。
『汚くて読めねえ』
「……その通り。」
小さく返事をしてから、胸ポケットから紙を取り出す。
画びょうをひとつ外し、元の紙の少し横に、自分の紙を貼った。
白い紙。
少し大きめの字。
行間も広めに取った。
『お風呂をご利用の際は、排水口にゴミを流さないようご協力ください。
みんなが気持ちよく使えるよう、ご理解をお願いいたします。』
貼ってみると、思ったより目立った。
「……おお、」
自分でやったのに、少し驚く。
昨日まで、ただ汚い紙が貼ってあった場所に、ちゃんと読める紙がある。
それだけで、掲示板の印象が少し変わった気がした。
「悪くないな……」
そう呟いた、そのとき。
「何やってんだ?」
背後から声がした。
肩が跳ねた。
振り向くと、佐久間が立っていた。
作業服の前を半分開け、眠そうな顔で掲示板を見ている。
「……佐久間さん。」
「おう。」
佐久間は近づいてきて、掲示板を見る。
まず、元の汚い紙を見た。
次に、右下の落書きを見た。
最後に、新しく貼られた紙を見た。
しばらく黙る。
「……これ、お前が書いたのか?」
「……はい。」
正直に答えた。
怒られるかもしれない。
そう思ったが、佐久間は怒らなかった。
紙を見たまま、少し口元を緩める。
「読めるな。」
「読めますね。」
「前のは?」
「読みにくいですね。」
「だよな!」
短いやり取りだった。
佐久間は掲示板に貼られた紙をもう一度見て、それからこちらを見る。
「字、うまいんだな。」
「……いや、普通です。」
「普通より読める。」
「それは、前のがひどいだけでは……?」
「まあ、それはある。」
佐久間は小さく笑った。
それから、ぽん、と軽く肩を叩く。
「いいんじゃねえか!」
「勝手に貼りましたけど……」
「悪いことじゃねえだろ。読めねえよりマシだ!」
その言葉に、少しだけ安心した。
「管理人に怒られたら?」
「俺は知らん!」
「そこは助けてくださいよ……!」
「お前が貼ったんだろ!」
「急に冷たい……」
思わず言うと、佐久間が目を細めた。
「……やっぱり、最近よく喋るな。」
しまった、と思った。
昨日までの自分なら、たぶんそんな返しはしない。
黙って、うつむいていたはずだ。
けれど、言ってしまったものは仕方ない。
「まあ……ちょっと、元気です。」
「ちょっと、でそれか。」
「前が暗すぎましたね……」
自分で言って、少し笑った。
佐久間は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから声を出して笑った。
「自分で言うなよ!」
「……事実なので。」
「まあ、そうだな。」
「否定してくださいよ!」
「嘘はよくねえ!!」
ひどい。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
佐久間は掲示板に目を戻す。
「こういうの、他にも書けるのか?」
「他にも、ですか?」
「ほら、寮の決まりとか、食堂の注意とか。読みにくいやつ、けっこうあるだろ?」
言われて、掲示板を見る。
文字が小さすぎる紙。
文章が長すぎる紙。
何が言いたいのか分かりにくい紙。
昨日までは、気にもしていなかった。
でも今は、少し違って見える。
全部、直せそうに見えた。
「……書けると思います。」
「へえ、」
佐久間は、少し感心したように頷いた。
「そういうの、地味に助かるぞ。」
地味に。
その言葉が、妙にしっくりきた。
そうだ。
これは派手なことじゃない。
世界を変えるとか、そんな話ではない。
ただ、読みにくいものを読みやすくする。
困っている小さな場所を、少しだけ直す。
それだけだ、でも。
「……金になるかな。」
思わず、声に出ていた。
佐久間がこちらを見る。
「やっぱり金か!」
「あ……」
「顔に出てるぞ!」
「そんなにですか…?」
「昨日からずっと出てる!」
どうやら、自分で思っているより分かりやすいらしい。
佐久間は腕を組んで、少し考える。
「まあ、町の店とかなら、あるんじゃないか?」
「店?」
「貼り紙とか、値札とか、案内とか。字がうまいやつに頼むことはあるだろ?」
心臓が、少し跳ねた。
店。
商店街。
昨日の写真屋。
八百屋。
床屋。
定食屋。
確かに、どこにでも紙は貼ってある。
『本日特売』
『営業中』
『アルバイト募集』
『ご自由にお取りください』
そういうものなら、作れるかもしれない。
「……なるほど。」
「ただし、」
佐久間が指を立てる。
「仕事中に考えすぎて手ぇ止めるなよ!」
「はい…!」
「それと、変なことして怒られるなよ!」
「はい!」
「あと、金に目がくらんで変な商売すんなよ」
「はい!」
「返事だけはいいな!」
「そこは得意です!」
「得意にすんな!」
少し笑いながら、二人で玄関へ向かう。
外に出ると、朝の空気が冷たかった。
工場の方から、いつもの音が聞こえる。
ガタン、ガタン。
今日も仕事が始まる。
けれど、昨日までとは少し違う。
胸の中に、小さな種のようなものがある。
文章を整える。
読みやすくする。
それだけでも、誰かの役に立つかもしれない。
そして、ほんの少しなら、金になるかもしれない。
「……まずは、寮の中か。」
ぽつりと呟く。
佐久間が横目で見る。
「何か言ったか?」
「……いえ。」
「また金のことか?」
「……はい!」
「隠せよ、少しは。」
「難しいですね……」
佐久間は呆れたように笑った。
工場の門が見えてくる。
今日も、金属の音と油の匂いの中で一日が始まる。
でも、頭の中では、もう次の貼り紙を探していた。




