第一章 転生と運命の宴
「──まさか、本当に死ぬとは思わなかったわね……」
目が覚めたとき、私は見知らぬベッドの上で、呆然と部屋の天井を見上げていた。
視界に飛び込んできたのは、前世の安っぽい賃貸マンションの壁紙ではない。精緻な彫刻が施された高い天井と、微風に揺れる最高級シルクのレースカーテン。そして、鼻腔をくすぐる濃厚で高貴なバラの香油の香り。
(……ここ、どこ? 救急車で運ばれたんじゃないの?)
最後の記憶が鮮明に蘇る。時刻は午前二時。鳴り止まない社用スマホ、終わらない修正案件、そして心臓を締め付けるような鋭い激痛。
「あ、これダメなやつだ」と思った瞬間、意識がブラックアウトしたのだ。
典型的な過労死。毎日終電まで残業し、休日出勤を重ね、ストレスで胃を壊しながらも「ここで投げ出したら迷惑がかかる」と踏ん張った結果がこれだ。
「……手が、小さい?」
身体を起こそうとして、自分の差し出した手に目を奪われた。
白く、陶器のように滑らかで、一切のペンだこも、キーボードを叩きすぎた腱鞘炎の腫れもない。まるで硝子細工のような、うら若き少女の手だった。
嫌な汗が背中を伝う。私は弾かれたようにベッドから飛び起き、大理石の床を裸足で駆けて、部屋の隅にある大きな姿見の前へと立った。
鏡に映っていたのは、絶世の、しかし同時に「苛烈」という言葉を具現化したような少女の姿だった。
燃えるような燃坂の赤髪がふわりと豊かなウェーブを描いて肩に垂れ、切れ上がった涼やかな目元には、吸い込まれそうなほど深い紫の瞳が冷たい光を宿している。ツンと上を向いた高い鼻梁に、薄い桜色の唇。顎を少し上げたその表情は、誰をも見下すかのように傲慢で、しかしその奥に、歪んだ孤独と哀しげな影を隠しているような──。
「嘘……でしょ……?」
私はその名前を、本能的に理解していた。いや、前世で嫌というほど画面越しに見ていたのだ。
「ヴァルミナ・デルフィア・グラックフォール……!」
そう、私は前世の唯一の癒やしであった乙女ゲーム『王太子の花嫁』に登場する、希代の悪役令嬢に転生していた。
頭の中に、前世の記憶と「ヴァルミナ」としての記憶が濁流のように混ざり合っていく。
グラックフォール公爵家は、建国以来この国の軍事と魔術の双璧を担ってきた名門中の名門。私はその一人娘として、甘やかされ、傲慢に育てられた。
そして現在のヴァルミナは十六歳。最悪なことに、明日は物語のすべての始まりであり、破滅へのカウントダウンが始まる「王太子ジェームズ・アーサー・グラントリーとの婚約披露宴」の当日だった。
(思い出した……。ゲームのシナリオ通りなら、私はこれから破滅の坂道を転げ落ちるんだ)
ゲームにおけるヴァルミナは、王太子ジェームズへの異常なまでの執着から、ヒロインである平民出身の特待生ヴィヴィアン・ライトモアを激しく敵視する。嫌がらせ、誹謗中傷、果ては暗殺未遂。しかし、そのすべての悪行は王太子や攻略対象たちに暴かれ、最終的には実家もろとも「反乱の罪」を着せられて国を追われるか、最悪の場合は処刑される運命をたどる。
「冗談じゃないわ。前世で会社に尽くして死んだ挙句、今度はゲームのシナリオに殺されるなんて、二度も他人の都合で死んでたまるもんですか」
鏡の中のヴァルミナ──つまり「私」は、自身の唇を強く噛み締めた。
公爵令嬢としての記憶を探ると、彼女が歪んでしまった理由も分かった。厳格すぎる父からのプレッシャー、周囲の「完璧な婚約者」という過剰な期待。誰も本当のヴァルミナを見てくれず、ただ唯一、幼い頃に優しく微笑んでくれた王太子ジェームズだけが心の拠り所だったのだ。だからこそ、突如現れたヒロインに彼を奪われそうになって暴走した。
「ヴァルミナ、あなたの孤独は私が引き受けるわ。でも、その破滅に突き進む愚かさだけは、今この瞬間から修正させてもらう」
幸いにも、まだ最初のイベントすら始まっていない。明日行われる王太子の宴、そこで最初のフラグが立つ。
ゲームでのヴァルミナは、ヴィヴィアンのドレスに細工をして恥をかかせようとし、逆にジェームズの怒りを買った。
ならば、その宴を逆手に取る。
ただ運命から逃げるんじゃない。
私の持っている「大人の知恵」と「ゲームの知識」、そしてグラックフォール家が持つ強大な魔術の力をフルに使い、この国の権力の頂点へ──誰にも文句を言わせない場所まで「成り上がって」みせる。
「悪役令嬢なんて、ごめんだわ。私は私の意志で、この世界の主役に躍り出てみせる」
私は鏡に向かって冷徹に、そして不敵に微笑んだ。紫の瞳に、前世の社畜根性で鍛え上げられた不屈の闘志が灯っていた。




