12
♪
それから、しばらくして泣き止んだ吾紅夜は、けれど俺の胸に頬を付けたまま、フリースケーティングの前のことを聞かせてくれた。
「あの記者がね、試合の前に言ったの。お母さんが死んだのは、私をせいなんじゃないか、って」
あの記者。なんとなく覚えはある。
おそらくは、事実でもなんでもないことを次から次へと記事にする、あのクソ週刊誌の記者のことだろう。
あの週刊誌は、前回日本人が、トリノ五輪で金メダルを取ったのは、不正があったから、等と言うデタラメな記事を書いて世間でも話題になった。
それを取り上げたマスコミも、何も知らないのにあーだこーだ好き勝手に言う芸能人もクソだが、そもそもそんなことを書いたあの記者はもっとクソだ。
それが、もうクソでもなんでもない。本当にゴミ箱に捨ててしまいたい、社会のクズだ。
「馬鹿だよね。散々言われ続けたのに、そんなことぐらいで動揺しちゃって」
馬鹿じゃないよ、そう言う代わりに、俺は背中を軽く摩る。
「有名人税だ、とか言うひとも言うけど……無理だよ。私には。誰かに何かを言われるのは耐えられない」
当たり前だ。
メンタルが強い選手が、本当の選手?
冗談じゃない。
死んだ家族のことを思い出させられて、選手は、そんな言葉まで耐えなければいけないなんて、おかしすぎる。
「良いよもう」
……もう、止めても良い。
スケートなんて止めても。
「良いよもう。我慢しなくて。俺も一緒に逃げるから」
なんて無責任な提案だろう。
簡単に言ったけど、それが本当はどれだけ無理なことか。
俺は、けれど吾紅夜が止めるというのであれば、スケートなんて捨ててしまっても構わないと思った。
けれど、吾紅夜は頷くことはしなかった。
「……ありがとう。でもね、できないよ。そんなこと。だって──」
彼女はまた涙をこぼしながら、掠れる声で、
「悔しいから」
けれどはっきりとそう言った。
「あんなやつに負けるのは悔しい。五輪にいけないのも悔しい。それに──お母さんが自分のせいで死んだのも悔しいよ」
「悔しい……」
「スケートは、私から大切なものを奪ったし、私自身も苦しめたけど。だからこそ取られっぱなしは嫌」
「……そっか」
やっぱりこの娘<こ>は強い。
けれど、強いせいで、他人より多く苦しんでる。
それはこれからもずっとそうかもしれない。
けれど。けれど、もしも許されるならば、彼女に仇名すものが少しでも無くなれば。
「真琴くん」
「何?」
「こないだの約束。優勝したら、何でも言うことを聞いてくれるって話」
「ああ」
「今回はダメだったけど、もう一度挑戦して良いかな。全日本で」
「……あぁ。勿論」
「良かった。私頑張るよ」
「ああ。そうしてくれ」
そんなことで吾紅夜が頑張れるのなら、いくらでもしてやる(秋葉原はちょっと無理だけど)。
「そうだ。それと、カナダ杯で優勝したときに、なんか買ってくれるって言ったよね」
「……ああ、そう言えば言ったな。お前が秋葉原とかか言ったから有耶無耶<うやむや>になってたけど」
「秋葉原は良いからさ、その代わりに一つお願い」
「何?」
「『吾紅夜』って呼び方止めて」
以前から、不便だなとは思っていたんだが、なかなか機会が無かったから、そう呼んでいたのだ。
むしろ好都合。
「ちょうど良かった。これからはそう呼ばせてもらうよ」
そう言うと彼女は、俺から顔を離した。
その顔には、僅かだけど、はっきりと分かる笑みがあった。
「じゃぁ、こうしちゃ居られないね。全日本まで少ししかないから」
彼女は、俺から手を離し、少し距離を置く。
そして、床に落ちていたスケート靴の袋を拾い上げた。
「吾紅夜悠佳の現在の目標は、全日本で優勝。これで決まり」
そうやって笑みを見せる吾紅、改め悠佳。
こうして、彼女のちょっと長い予選演技<プレリュード>が終わったのだった。




