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 ♪


 それから、しばらくして泣き止んだ吾紅夜は、けれど俺の胸に頬を付けたまま、フリースケーティングの前のことを聞かせてくれた。

「あの記者がね、試合の前に言ったの。お母さんが死んだのは、私をせいなんじゃないか、って」

 あの記者。なんとなく覚えはある。

 おそらくは、事実でもなんでもないことを次から次へと記事にする、あのクソ週刊誌の記者のことだろう。

 あの週刊誌は、前回日本人が、トリノ五輪で金メダルを取ったのは、不正があったから、等と言うデタラメな記事を書いて世間でも話題になった。

 それを取り上げたマスコミも、何も知らないのにあーだこーだ好き勝手に言う芸能人もクソだが、そもそもそんなことを書いたあの記者はもっとクソだ。

 それが、もうクソでもなんでもない。本当にゴミ箱に捨ててしまいたい、社会のクズだ。

「馬鹿だよね。散々言われ続けたのに、そんなことぐらいで動揺しちゃって」

 馬鹿じゃないよ、そう言う代わりに、俺は背中を軽く摩る。

「有名人税だ、とか言うひとも言うけど……無理だよ。私には。誰かに何かを言われるのは耐えられない」

 当たり前だ。

 メンタルが強い選手が、本当の選手?

 冗談じゃない。

 死んだ家族のことを思い出させられて、選手は、そんな言葉まで耐えなければいけないなんて、おかしすぎる。

「良いよもう」

 ……もう、止めても良い。

 スケートなんて止めても。

「良いよもう。我慢しなくて。俺も一緒に逃げるから」

 なんて無責任な提案だろう。

 簡単に言ったけど、それが本当はどれだけ無理なことか。

 俺は、けれど吾紅夜が止めるというのであれば、スケートなんて捨ててしまっても構わないと思った。

 けれど、吾紅夜は頷くことはしなかった。 

「……ありがとう。でもね、できないよ。そんなこと。だって──」

 彼女はまた涙をこぼしながら、掠れる声で、


「悔しいから」


 けれどはっきりとそう言った。

「あんなやつに負けるのは悔しい。五輪にいけないのも悔しい。それに──お母さんが自分のせいで死んだのも悔しいよ」

「悔しい……」

「スケートは、私から大切なものを奪ったし、私自身も苦しめたけど。だからこそ取られっぱなしは嫌」

「……そっか」

 やっぱりこの娘<こ>は強い。

 けれど、強いせいで、他人より多く苦しんでる。

 それはこれからもずっとそうかもしれない。

 けれど。けれど、もしも許されるならば、彼女に仇名すものが少しでも無くなれば。

「真琴くん」

「何?」

「こないだの約束。優勝したら、何でも言うことを聞いてくれるって話」

「ああ」

「今回はダメだったけど、もう一度挑戦して良いかな。全日本で」

「……あぁ。勿論」

「良かった。私頑張るよ」

「ああ。そうしてくれ」

 そんなことで吾紅夜が頑張れるのなら、いくらでもしてやる(秋葉原はちょっと無理だけど)。

「そうだ。それと、カナダ杯で優勝したときに、なんか買ってくれるって言ったよね」

「……ああ、そう言えば言ったな。お前が秋葉原とかか言ったから有耶無耶<うやむや>になってたけど」

「秋葉原は良いからさ、その代わりに一つお願い」

「何?」

「『吾紅夜』って呼び方止めて」

 以前から、不便だなとは思っていたんだが、なかなか機会が無かったから、そう呼んでいたのだ。

 むしろ好都合。

「ちょうど良かった。これからはそう呼ばせてもらうよ」

 そう言うと彼女は、俺から顔を離した。

 その顔には、僅かだけど、はっきりと分かる笑みがあった。

「じゃぁ、こうしちゃ居られないね。全日本まで少ししかないから」

 彼女は、俺から手を離し、少し距離を置く。

 そして、床に落ちていたスケート靴の袋を拾い上げた。

「吾紅夜悠佳の現在の目標は、全日本で優勝。これで決まり」

 そうやって笑みを見せる吾紅、改め悠佳。

 こうして、彼女のちょっと長い予選演技<プレリュード>が終わったのだった。

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