恐ろしい、そして聡明な妻
ここはノーフォフ城の食堂。いつもたくさんの魔物達がやってきては、大量の食料を消費してから業務へ臨んでいく。
そこは大変広い空間であり、一度に入ることができる魔物の数は五千を超える。また、シェフ・スタッフは百体にも及ぶらしい。
そして、魔王ダリスもその食堂を利用する者の一体だ。
「次の方どうぞー」
周囲のざわめきの中、ダリスの順番がまわってくる。
ダリスは半ば浮かれた様子でカウンターの前に立ち、頭上に掲げられたメニュー板を見上げた。
メニューには、カレー・ハンバーグ・オムライスなど、ほとんどの定番料理が並べられている。どれも美味なもので、注文する順番がまわってきてもなお迷っている者も少なくない。
「うーん、好物のハンバーグにしようかな……。でも今は朝だしなあ」とダリスは奥で調理している音を耳にしつつ、腕を組んで考えこむ。
「魔王様、ご注文はお決まりでしょうか」
女性の受付が太い声で彼に問いかける。
「おお、そうだな。それじゃあオムライスにでもしようか――!」
ダリスは背筋を凍らせた。
「おはようございます、魔王様」
彼の目の前には、冷ややかな視線を送ってくる女性――ダリスの妻フェニグライトが佇立していたからだ。
「ひえぇっ!」
「情けない声出してんじゃないよ!」と彼女はダリスに大きく怒鳴る。
フェニグライト=ノーフォフは気骨のある女性だ。夫である魔王ダリスを尻に敷き、彼が怠けていたり、つまらない失敗をしたりしたときは厳しく叱咤するのが日常。
また、彼女の容姿は実に粋であり、身体がぐっと引き締まっている。さらに、ほどよい筋肉が彼女をバランスよく引き立てており、少しカールされた金のショートヘアも特徴的だ。
「あんたね、自分がどんな存在であるか分かってる? 魔王でしょ? なのに平然とたくさんの兵士と一緒に飯を食うわけ? 普通魔王なら朝早くに起きて皆より先に済ませておくんじゃないの!」
フェニグライトは魔王ダリスを鋭く指差して叱る。
「はぁっ! すみません!」
しまったぁ、今日は妻が担当の日だった……。と彼は深々と頭を下げる。フェニグライトは彼の頭が上がらない数少ない魔物の一体だ。
一方で周りの魔物は気の毒そうに魔王を見やる。
彼女はその四方からの視線に気付き、少し調子を落ち着かせる。
「ったく、息子のデューラーでさえ早朝に来て朝食を済ませていったというのに、あんたはいつまでたってもぐぅたらなままなんだねぇ」
「ん、デューラーはもう来たのか」
ダリスはむっくりと顔を上げる。
「朝から見かけないなと思ってはいたが、一体何をしているのだろうか」
「さあね。嫌に神妙な顔付きだったけど、昨日何かあったの?」
ダリスは思い起こす。昨夜のあの話か
――「私は一晩したらお父様の考えがお変わりになっていることを願っていますよ」――
デューラーには悪いが、我の意志は変わっていない。
「ああ、ちょっと、な」と曖昧に答える。
「ふうん」
フェニグライトは顎をしゃくってうなずいた。
「ま、いいや」
奥から調理師がやって来て大盛りのオムライスをカウンターに置いて行った。
「ほら、注文はオムライスなんでしょ? さっさと食って、魔王の務めを果たしな」
「ああ、いただきます」
そう言ってダリスはオムライスを両手に持ち、空いている席へ向かった。
*
人間との共存は不可能、か……。とダリスは二人用のテーブルで、オムライスの一切れを口に運びながら考える。
デューラーはそう信じて疑わない。そういう点が|プリーダー(父さん)に似たのだろう。
確かに父さんは偉大だった。することなすこと全てを成功させる力と知恵を持ち、何事にも自信を持って臨んでいた。その点は我も見習わなければならないところだろう。
しかし、やはり我は父さんのやり方には反対だ。父さんは乱暴過ぎる。
人間の村を宣告なしで襲撃し、金品を強奪しては、その土地を占領地とする。稀に魔物の村を襲って子どもを誘拐したりもしていた。あまりにも非道だ。
だというのにデューラーはそんな父さんを尊敬し、無情なやり方を踏襲しようとしている。
我が頼りないせいなのだろうか……。
「まだ食べてたの?」
呆れたような声が聞こえてきた。
ダリスが視線を上げると、ついさっき見た顔が彼を細い目で睨んでいた。両手には今彼の食べているものと同じものが卵の匂いを漂わせている。
「さっさと食えって言ったのに」
ため息をついて、フェニグライトは彼の向かいに座った。
「フェニグ(彼女の愛称)、受付の仕事はいいのか?」
「あんたの食うのが遅いから交代の時間になったの」
早々にオムライスを食べ始める。
「なるほど」
彼はこくんとうなずき、また一口運んだ。
「で、どうしたの。あんたまで深刻そうな顔してさ」
そんなわかりやすく顔に出ていたのか。ダリスは自分の不覚に思わず苦笑してしまった。
「まあ、昨日デューラーと話したことでな」
「親子揃って大変ね。喧嘩?」
フェニグライトはのうのうと口についたケチャップを拭う。
「そんなところかな」とダリスは言った。
「しかし、どうして君はそんな呑気でいられるのだ? さっきの話を聞いたところでは、デューラーに会ったとき何を悩んでいるのか尋ねなかったようじゃないか。君も母親なのだから、もう少しデューラーについて関心を持ってもいいと思うのだが」
一瞬だけ食堂内が静まり返る。そしてすぐに笑い声と共に騒がしさが戻った。
「あたしだって一応どうしたのか聞いたよ。だけどあんたと同じように曖昧な返事だけで他は何も答えなかった」
彼女は食べるペースを少し緩める。
「だとしても、もう少し踏み込んで話を聞くべきじゃ――」
「あの子の悩みはあたしの問題じゃない」
彼女はぴしゃりと言った。
ダリスは黙りこむ。問題じゃない? それは無関心だということではないか?
「あたしがデューラーに尋ねたとき、はっきりと答えてくれなかったのは、あの子があたしにそれを伝えたくなかったからでしょ? だからあたしは関わらない。もちろん必要とされれば助けてあげるけど」
ダリスはそのまましんとして聞いている。
「デューラーだって、もう子どもじゃないんだから、あの子の考えも受け入れてあげなきゃ駄目だよ。かといってあんたの意志を曲げろというわけじゃないけど」
はて。とダリスの理解が行き詰まった。
「ええと、それはつまり、どういうことだ?」
「あんたはあんたの考え、デューラーはデューラーの考えを貫かないと駄目ってこと。もしそのせいで敵同士になったとしても、両者戦って、目的を達成しないといけない。城を守るってことは、そういうこと」
そう言うと、彼女は再びオムライスをガツガツと食べ始めた。
「そういうことか……」
ダリスは少し寂しそうな顔をした。
たとえ家族であっても、戦わなければいけなくなるときが来るかもしれない。我は城のために、デューラーもまた然り――。家族としてではなく、敵として戦う、か。
ダリスはさらに遅い動きでスプーンを口に運んだ。
フェニグライトの名は、「恐ろしい」を意味する〈Frightening〉のアナグラム――〈Fennigright〉に由来します。