13.
もしかしたら、オルトヴァーンは共に王都へ来てほしいという以前の言葉を取り消そうとしているのではないか。
最悪の予想が脳裏を過り、エルナは目を伏せながら痛む心を堪えて覚悟を決める。
例え、オルトヴァーンがそういう判断を下したとしても、自分はポリーナのように当てつけで命を絶つことも、ハナのように泣き喚くこともしない。二十年前の様に、最後に会って話をしたいという彼から逃げ、掃除用具入れに隠れたりもしない。彼にとってできるだけ素晴らしい女性として記憶に残るように、聞き分けのいい人間を演じるつもりでいた。
そんなエルナの耳に、覚悟を決めたようにオルトヴァーンが大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「二十年前。俺は、婚約を破棄してエルナを妻に迎えるつもりだと実家に手紙を書いた。それから間もなく、当時婚約者だった元妻から手紙が届いた。そんなことをしたなら、全力であなたとあなたの実家を潰す、と」
「……えっ」
全く想像していなかった話の流れとその内容に、エルナは呆気に取られて目を見開いた。
「彼女の実家には、当時、そうできるだけの力があった。そして、俺はその脅しに屈した。きみが隊長に頼んで、俺を王都へ異動させようとしていたことは知っている。だが、それより先に、俺はきみよりも、家族を、騎士としての人生を、何より自分自身の保身を選んだのだ」
「そうだったのですか」
オルトヴァーンがそうしてくれていて良かった。でなければ、今目の前にいるオルトヴァーン隊長は存在しないのだから。保身? 当然だろう。何故、たまたま怪我をさせてしまった侍女の為に、どうしてオルトヴァーンが自分の未来も家族も犠牲にしなければならないというのだろう。
けれど、頭ではそう理解をしていても、エルナの心の内に沸いたのは自分ではどうしようもできない物哀しさだった。彼は、エルナのことを思いながらも、異動で仕方なく王都へ戻らざるを得なかったのではなかった。それよりも先に、自らの意志で、エルナと共に歩まない未来を選んでいたのだ。それが堪らなく悲しかった。
「だから、本当は俺に責任を取るなどと言う資格などない」
その言葉に、エルナは苦笑して目を伏せた。
やっぱりそういう結末になるのか、と落胆する一方で、この歳になって幸せになれるという幻想を抱いた自分を嘲笑った。半ば諦めていたとしても、やはり失恋は辛い。それでも、今まで続いてきた良好な関係までは失いたくなくて、エルナは狼狽しそうになる自分を抑えるのに必死だった。
だから、続けて言われた言葉がすぐには理解できなかった。
「……ただ、俺は、きみに傍にいてほしい。そう願っている」
縋るような目で見つめてくるオルトヴァーンに、戸惑いを通り越して混乱し始めたエルナは、目を泳がせながら何か言わなければと言葉を探す。
「それは、その、使用人として雇っていただけるということでしょうか」
「今の俺の言葉を、そう取るとは思わなかった」
苦笑したオルトヴァーンは、不意に不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「それとも、断り文句の代わりに、わざとそう勘違いした振りをしているのか?」
エルナは慌てて首を横に振る。けれど、嬉しくて堪らない癖に、それでもやっぱり素直にオルトヴァーンの好意を受け入れることができずに、自分の両手を包み込んでいるオルトヴァーンの大きな手をひたすら見つめ続けた。
もし、もう一度望んでくれたならとあんなに後悔していたのに、いざその願いが叶った瞬間に、何故か心は頑なになって口を閉ざしてしまう。何がどう納得できなくてそんな風になってしまうのか、エルナは自分でもよく分からない。この歳まで独りで気を張って生きていると、素直になると死んでしまうという防衛本能でも働くとでもいうのだろうか。
それでも何とか口を開けば、憎たらしい言葉しか出て来ない。
「王都に帰ったら独りで寂しいからでしょう? こんな年増で可愛げのない女でなくても、あなた様に相応しい素敵な女性は、王都にたくさんいらっしゃるでしょうに」
オルトヴァーンがその通りだと頷けば、傷つくのはエルナ自身だというのに、そんなことしか言えない自分に恥じ入って、顔が強張るのが分かる。オルトヴァーンに、エルナが拒否反応を示していると思われるに違いないと、ただ気持ちだけが焦ってどうしていいか分からない。
と――。
「いいんだ」
「……え?」
ぎゅっと更に力を込めて握られた手と、どういう意図なのか分からない短い台詞にエルナが首を傾げると、オルトヴァーンはやや潤んで見える目元を細めた。
「例えきみの言う通り、年増で可愛げがないとしても、俺はそのままのエルナがいいんだ」
その瞬間、これまでずっと頑強にエルナの心を覆っていた壁が、ついに崩壊した。
そして――。
「ほら、さっさとしないと時間までに終わらないわよ」
「やだー。自分が隊長とデートする時間が少なくなっちゃうからって、ねぇ」
「なっ……」
顔を真っ赤にして絶句するエルナの前から、きゃー、いやー、と黄色い悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように自分達の持ち場に戻っていく侍女達。
一体何なのだと呆然としていると、若い騎士達が通りすがりにエルナの顔を覗き込んだ。
「おや、エルナさん。顔が赤いよ? 熱でもあるのかな」
「これは大変だ。隊長に報告しなくちゃ」
「ご、ご心配なく。熱などありませんから」
「え、そお? でも、エルナさんの具合が悪いのに放っておいたとなったら、隊長に怒られちゃうからなぁ」
若い騎士達にまで揶揄われて、エルナは絶句して立ち尽くす。
リリーナに蹴られた怪我と、ロベルトに殴られた腹部の痛みが消え、過保護過ぎるオルトヴァーンの絶対安静命令が解けて仕事に復帰した途端、周囲の目が生暖かくてエルナは居心地が悪くて仕方がない。
エルナがオルトヴァーンとそういう仲になってしまったことがこれほど早く広まったのは、彼が堂々と公言しているからだ。エルナは恥ずかしいからこのことは伏せておいて、王都へ行くのもひと月ほど間隔を置いてからにすると言ったのに、オルトヴァーンはそれを聞き入れてはくれなかった。彼曰く、エルナを独りにしておいては心配であるし、また何がきっかけでやっぱり自分は彼に相応しくないなどと逃げてしまうかも知れないからだという。
それにしても、なぜ自分がとんでもない幸運を掴んでしまったことを、こうも好意的に受け止められているのだろうかとエルナは理解できなかった。年増のクソ婆が素敵な隊長さんとくっついたとなれば、どんな悪質的な手を使ったのだと非難されそうなものだ。特に、エルナに諭されて泣く泣く押しかけ女房になることを諦めた侍女達からは、どれほどの罵声を浴びせられることかと覚悟していたのだ。
居心地の悪さを覚えながら、いつものようにいつもの席で独り昼食を取っていると、侍女達のなかでも中堅の、二十歳前後の者達がやってきて、エルナを取り囲むようにして座った。
「なあに、あなた達」
やはり来たか、と迎え撃つように強気な笑顔を浮かべたエルナに差し出されたのは、可愛いリボンで縛った包みだった。
「お祝いの品です。私達侍女全員からの、ほんの気持ちです」
「……なんですって?」
戸惑い固まったエルナに、侍女達から祝福の言葉が贈られる。思ってもみない事態に驚きと喜びが混ざり合い、エルナは顔を強張らせたまま俯きながら、ありがとうと呟くように呻くのがやっとだった。
「でも、素敵ですね。二十年越しの恋かぁ……」
エルナを祝福する彼女達の言葉の中にそんな台詞を聞きとり、驚いて顔を上げたエルナに、一人の侍女が揶揄うような笑顔を浮かべた。
「聞きましたよぉ。エルナさんにも、そんなロマンスがあったんですねぇ」
「……だ、誰が、そんなことを」
「料理長ですよ」
エルナが侍女達の頭越しに厨房の方を睨みつければ、それに気付いた料理長が肩を竦めながら奥へ引っ込んでいくのが見えた。
二十年前に城塞にいた人物で、今も残っているのはエルナと料理長くらいなものだ。頑固で口下手で気難しい男なので、まさか若い侍女達にエルナとオルトヴァーンの昔話を話して聞かせるとは、エルナは思ってもみなかった。
もしかしたら仕返しのつもりなのかしら、とエルナは溜息を吐く。こうやって若い者達に揶揄われることがエルナにとって一番堪えることを、長年の付き合いである料理長にはばれているのかも知れない。
密かに溜息を吐いたエルナを前に、侍女達の話は終わらない。
「いじらしいなぁ。傷つけた女と婚約者、どちらを選ぶかで悩む隊長と、彼を思って身を引くエルナさん……」
「あんただったら、間違いなく王都に押しかけてるね」
「ええそうね。婚約者に傷を見せつけて、責任とって貰って何が悪いって怒鳴っちゃうかも」
「でもそれじゃ、ロマンスにはならないわよ」
どわっと怒る笑い声に、さすがにエルナはブチ切れて立ち上がった。
「あなた達、いい加減にしなさい! もうお昼休みは終わるわよ。さっさと持ち場に戻りなさい!」
悲鳴と、笑い話にしてごめんなさいという謝罪と、ハイハイとあしらう声と、やっぱババぁは怖っと呟く声が入り乱れながら、侍女達は食堂から退散していく。
そんな彼女たちを見送りながら、エルナは溜息を吐いて周囲を見回す。
古びた武骨な室内、窓が少なく薄暗い廊下、擦っても落ちない長年の染み。二十年間過ごした、我が家ともいうべきトレヴァス城塞。
あと数日で、エルナはこの城塞を離れ、王都へと発つ。
いくら本人同士が良くても、オルトヴァーンの実家が自分を受け入れないのでは、と心配するエルナに、彼は首を横に振った。
オルトヴァーンの実家は子爵家とはいえ、親戚の半数は平民だ。だから身分のことは心配しなくていい、という彼の言葉をエルナは素直に信じられない。騎士隊長の職にある彼が平民の妻を迎えるに当たっては、そう簡単に物事が進むとは思えない。また、平民として生まれ、三十路半ばまで田舎の城塞で働いていたエルナが、騎士隊長の妻としての役割を果たせるのかどうか、自分自身でも自信は持てなかった。
王都へ行けば、ひょっとしたら独身のままトレヴァス城塞で侍女を続ける以上に辛い日々が待っているかも知れない。
それでも、エルナは決めたのだ。今度こそ、差し出されたその手をしっかりと掴み、そして絶対に離しはしないのだと。
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