↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/5

序章・第一話:針と油と冷ややかな目


【一】

和朝の栄華を象徴する、架空の帝国・日華国。

その奥深くに鎮座する「奥宮(おくみや)」は、帝に使える数千の女たちがひしめく美しくも苛烈な園である。

「ねえ、劉(りゅう)女中。新人なんだから、もっと手際よく動けないの?」

高圧的な声が、御針司(おはりつかさ)の作業場に響いた。

声をかけたのは、入宮三年目の先輩女中・翠蘭(すいらん)だ。周囲の女中たちも、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらを見ている。

「申し訳ございません。以後、気をつけます」

頭を下げたのは、今年入宮したばかりの女中——劉(りゅう) 凛玲(りんれい)であった。

小柄な身体に、やや垂れがちな大きな瞳。透き通るような白肌と可憐な佇まいは、誰から見ても「おとなしく、気弱で、何を言っても反撃してこない扱いやすい娘」に映る。

だが、深く下げた頭の下で、凛玲は静かに胸中の刃を研いでいた。

(……この女たち、わざと私の作業の手順をずらして仕事を遅らせているわね)

凛玲がこの恐ろしい奥宮に身を投じた理由はただひとつ。

半年前、この奥宮で「不審な事故死」を遂げた最愛の姉・劉(りゅう) 鈴華(りんか)の死の真相を突き止めるためだ。

優しく、誰からも慕われていた刺繡の名手・鈴華。彼女が自ら命を絶つはずがない。遺品に残されたわずかな違和感を頼りに、凛玲は姉のいた御針司へと潜入したのだった。

【二】

その日の夕刻。

明日、後宮の最高権力者である第一の妃・中宮(ちゅうぐう)様に献上するための「祝いの御衣」が完成しようとしていた。

桜色の絹地に、金糸と銀糸で繊細な鳳凰が舞う逸品。

これを仕立て上げたのは、新人ながらずば抜けた技術を持つ凛玲だった。

「まあ……なんて見事な刺繍。これなら中宮様も大層お喜びになるでしょうね」

検分に訪れた典事(上級女中)が絶賛し、凛玲にねぎらいの言葉をかけて立ち去る。

典事が部屋を出た瞬間、翠蘭の顔が妬みと激怒で歪んだ。自分の手がけた衣裳よりも、新人の凛玲の作品が評価されたことが許せなかったのだ。

「……ちょっと、凛玲」

翠蘭が歩み寄ってくる。その手には、髪を整えるための髪油がなみなみと注がれた小瓶が握られていた。

「あら嫌だ、足がすべっ——」

白々しい叫びとともに、翠蘭は小瓶を傾けた。

粘り気のある黄色い油が、完成したばかりの桜色の御衣へ、盛大にバシャリと振りかけられる。

「ああっ! 大変、手が滑ってしまったわ! ごめんなさいね、凛玲ちゃん!」

翠蘭は口元を扇で隠しながら、ニヤニヤと歪んだ笑いを浮かべた。周囲の女中たちもクスクスと嘲笑う。

水と違い、髪油の染みは洗っても絶対に落ちない。明日の朝一番で中宮様に届ける御衣が台無しになれば、不手際をやらかした凛玲は重いお仕置きを受け、即座に奥宮を追放される。

「どうしようかしらねぇ? 今から作り直すなんて絶対に無理だし……お可哀想に」

勝ち誇った顔で凛玲を見下ろす翠蘭。

当然、可憐で気弱な新人は泣き崩れるか、蒼白になって許しを乞うと思っていた。

しかし——。

【三】

「……」

凛玲は泣かなかった。動揺すらしなかった。

すっと背筋を伸ばすと、それまでの大人しい可憐な雰囲気が嘘のように消え去る。

そして、フッと半目になり——底冷えするような冷ややかな「ジト目」で、翠蘭の顔をじっと見据えた。

(……へえ。私を舐めて、そんな使い古された嫌がらせをしてくれたわけね)

凛玲の目が鋭く細められる。

急激に冷え込んだ室内の空気に、笑っていた女中たちが思わず息をのんだ。

「……な、何よその目は! 不満があるなら言いなさいよ! 手が滑っただけだって言っているでしょう!?」

たじろいだ翠蘭が声を張り上げる。凛玲は冷ややかなジト目のまま、すまし顔で口を開いた。声のトーンは静かだが、芯の通った通る声だった。

「いいえ、翠蘭様。手が滑ったのではないということは、私にも分かります」

「はぁ!? 証拠もないのに言いがかりをつける気!?」

「証拠なら、お手元にございます」

凛玲はすっと翠蘭の手元を指さした。

「油の瓶を不意に滑らせて落としたのであれば、油は瓶ごと衣の上に落ちるはず。ですが、瓶は翠蘭様の手の中にしっかりと残っています。そして、瓶の口ではなく『側面』に油が伝っている……これは、意図的に指で瓶を傾けて注ぎ去った証拠です」

「くっ……! た、たとえそうだとしても、お前がへまをしたことに変わりはないわ! 明日の朝までにその衣が用意できなければ、追放されるのはお前よ!」

開き直って鼻で笑う翠蘭に対し、凛玲のジト目はさらに深くなった。

「追放? いいえ、困るのは私ではなく……翠蘭様、あなたです」

【四】

凛玲は迷いのない手つきで作業台から薬草の粉末と、深い紫色の染料を取り出した。

「な、何をする気よ!?」

「油の染みは落ちませんが、油を吸った絹糸は『特定の草木染料』を弾くという性質があります。……姉から教わった技です」

凛玲は刷毛を取り、油が飛び散った箇所を中心に、手際よく紫の染料を乗せていく。

すると、どうだろう。染料が定着する部分と弾く部分が見事なコントラストを描き出し——油の染みだった場所が、夜空に浮かび上がる『幻想的な夜桜の影』へと一瞬で姿を変えたのだ。

金糸の鳳凰と、油弾きを利用した影桜。

ただの桜色の着物だったものが、息をのむほど幻想的で豪華な「一品物」へと昇華した。

「な……なに、これ……!?」

絶句する翠蘭に、凛玲はジト目のまま、凛とした声で追い討ちをかける。

「明日の献上品は、これでより一層素晴らしいものになりました。……さて、翠蘭様。典事様が戻られたら、こう報告いたしますね。『翠蘭様がその高見せする機転により、油を用いた隠し染めの技法をご提案くださり、この素晴らしい御衣が完成しました』と」

「え……?」

「典事様は大層お喜びになり、きっと翠蘭様に『では、その技法のカラクリを中宮様の前で披露しなさい』とお命じになるでしょう。……もちろん、翠蘭様なら完璧に実演できますよね? ご自分でなさったことなのですから」

「つ……!」

翠蘭の顔から血の気が引いた。裁縫の知識もろくにない翠蘭に、そんな高度な技法が実演できるはずがない。嘘がバレれば、帝や中宮を謀った「不敬罪」で即刻首が飛ぶ。

「や、やめなさい! そんな報告……!」

「嫌なら、今すぐ私の前にひれ伏して謝罪し、今後は私の指示に従うと約束してください。……それとも、中宮様の前で恥をかき、お仕置きをお受けになりますか?」

凛玲の冷ややかなジト目が、逃げ場を完全に塞ぐ。

圧倒的なロジックと倍返しの罠にハメられた翠蘭は、ガクガクと膝を震わせ、ついに床に膝をついた。

「わ……分かったわ! 私が悪かったわ! 謝るから、典事様には余計なことを言わないで……!」

「……かしこまりました。分かっていただけて何よりです」

凛玲はすっと元の可憐で大人しい笑みに戻ると、深くお辞儀をした。

だが、その瞳の奥には、冷たく燃え上がる復讐の炎が宿っていた。

(覚悟しなさい、奥宮の狐たち。……姉様を殺した黒幕を引っ張り出すまで、邪魔する奴は一人残らず叩き潰してあげるわ)

劉 凛玲の、スカッとする倍返しの戦いが、今ここから始まった。

(第一話・完)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。