序章・第一話:針と油と冷ややかな目
【一】
和朝の栄華を象徴する、架空の帝国・日華国。
その奥深くに鎮座する「奥宮」は、帝に使える数千の女たちがひしめく美しくも苛烈な園である。
「ねえ、劉女中。新人なんだから、もっと手際よく動けないの?」
高圧的な声が、御針司の作業場に響いた。
声をかけたのは、入宮三年目の先輩女中・翠蘭だ。周囲の女中たちも、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらを見ている。
「申し訳ございません。以後、気をつけます」
頭を下げたのは、今年入宮したばかりの女中——劉 凛玲であった。
小柄な身体に、やや垂れがちな大きな瞳。透き通るような白肌と可憐な佇まいは、誰から見ても「おとなしく、気弱で、何を言っても反撃してこない扱いやすい娘」に映る。
だが、深く下げた頭の下で、凛玲は静かに胸中の刃を研いでいた。
(……この女たち、わざと私の作業の手順をずらして仕事を遅らせているわね)
凛玲がこの恐ろしい奥宮に身を投じた理由はただひとつ。
半年前、この奥宮で「不審な事故死」を遂げた最愛の姉・劉 鈴華の死の真相を突き止めるためだ。
優しく、誰からも慕われていた刺繡の名手・鈴華。彼女が自ら命を絶つはずがない。遺品に残されたわずかな違和感を頼りに、凛玲は姉のいた御針司へと潜入したのだった。
【二】
その日の夕刻。
明日、後宮の最高権力者である第一の妃・中宮様に献上するための「祝いの御衣」が完成しようとしていた。
桜色の絹地に、金糸と銀糸で繊細な鳳凰が舞う逸品。
これを仕立て上げたのは、新人ながらずば抜けた技術を持つ凛玲だった。
「まあ……なんて見事な刺繍。これなら中宮様も大層お喜びになるでしょうね」
検分に訪れた典事(上級女中)が絶賛し、凛玲にねぎらいの言葉をかけて立ち去る。
典事が部屋を出た瞬間、翠蘭の顔が妬みと激怒で歪んだ。自分の手がけた衣裳よりも、新人の凛玲の作品が評価されたことが許せなかったのだ。
「……ちょっと、凛玲」
翠蘭が歩み寄ってくる。その手には、髪を整えるための髪油がなみなみと注がれた小瓶が握られていた。
「あら嫌だ、足がすべっ——」
白々しい叫びとともに、翠蘭は小瓶を傾けた。
粘り気のある黄色い油が、完成したばかりの桜色の御衣へ、盛大にバシャリと振りかけられる。
「ああっ! 大変、手が滑ってしまったわ! ごめんなさいね、凛玲ちゃん!」
翠蘭は口元を扇で隠しながら、ニヤニヤと歪んだ笑いを浮かべた。周囲の女中たちもクスクスと嘲笑う。
水と違い、髪油の染みは洗っても絶対に落ちない。明日の朝一番で中宮様に届ける御衣が台無しになれば、不手際をやらかした凛玲は重いお仕置きを受け、即座に奥宮を追放される。
「どうしようかしらねぇ? 今から作り直すなんて絶対に無理だし……お可哀想に」
勝ち誇った顔で凛玲を見下ろす翠蘭。
当然、可憐で気弱な新人は泣き崩れるか、蒼白になって許しを乞うと思っていた。
しかし——。
【三】
「……」
凛玲は泣かなかった。動揺すらしなかった。
すっと背筋を伸ばすと、それまでの大人しい可憐な雰囲気が嘘のように消え去る。
そして、フッと半目になり——底冷えするような冷ややかな「ジト目」で、翠蘭の顔をじっと見据えた。
(……へえ。私を舐めて、そんな使い古された嫌がらせをしてくれたわけね)
凛玲の目が鋭く細められる。
急激に冷え込んだ室内の空気に、笑っていた女中たちが思わず息をのんだ。
「……な、何よその目は! 不満があるなら言いなさいよ! 手が滑っただけだって言っているでしょう!?」
たじろいだ翠蘭が声を張り上げる。凛玲は冷ややかなジト目のまま、すまし顔で口を開いた。声のトーンは静かだが、芯の通った通る声だった。
「いいえ、翠蘭様。手が滑ったのではないということは、私にも分かります」
「はぁ!? 証拠もないのに言いがかりをつける気!?」
「証拠なら、お手元にございます」
凛玲はすっと翠蘭の手元を指さした。
「油の瓶を不意に滑らせて落としたのであれば、油は瓶ごと衣の上に落ちるはず。ですが、瓶は翠蘭様の手の中にしっかりと残っています。そして、瓶の口ではなく『側面』に油が伝っている……これは、意図的に指で瓶を傾けて注ぎ去った証拠です」
「くっ……! た、たとえそうだとしても、お前がへまをしたことに変わりはないわ! 明日の朝までにその衣が用意できなければ、追放されるのはお前よ!」
開き直って鼻で笑う翠蘭に対し、凛玲のジト目はさらに深くなった。
「追放? いいえ、困るのは私ではなく……翠蘭様、あなたです」
【四】
凛玲は迷いのない手つきで作業台から薬草の粉末と、深い紫色の染料を取り出した。
「な、何をする気よ!?」
「油の染みは落ちませんが、油を吸った絹糸は『特定の草木染料』を弾くという性質があります。……姉から教わった技です」
凛玲は刷毛を取り、油が飛び散った箇所を中心に、手際よく紫の染料を乗せていく。
すると、どうだろう。染料が定着する部分と弾く部分が見事なコントラストを描き出し——油の染みだった場所が、夜空に浮かび上がる『幻想的な夜桜の影』へと一瞬で姿を変えたのだ。
金糸の鳳凰と、油弾きを利用した影桜。
ただの桜色の着物だったものが、息をのむほど幻想的で豪華な「一品物」へと昇華した。
「な……なに、これ……!?」
絶句する翠蘭に、凛玲はジト目のまま、凛とした声で追い討ちをかける。
「明日の献上品は、これでより一層素晴らしいものになりました。……さて、翠蘭様。典事様が戻られたら、こう報告いたしますね。『翠蘭様がその高見せする機転により、油を用いた隠し染めの技法をご提案くださり、この素晴らしい御衣が完成しました』と」
「え……?」
「典事様は大層お喜びになり、きっと翠蘭様に『では、その技法のカラクリを中宮様の前で披露しなさい』とお命じになるでしょう。……もちろん、翠蘭様なら完璧に実演できますよね? ご自分でなさったことなのですから」
「つ……!」
翠蘭の顔から血の気が引いた。裁縫の知識もろくにない翠蘭に、そんな高度な技法が実演できるはずがない。嘘がバレれば、帝や中宮を謀った「不敬罪」で即刻首が飛ぶ。
「や、やめなさい! そんな報告……!」
「嫌なら、今すぐ私の前にひれ伏して謝罪し、今後は私の指示に従うと約束してください。……それとも、中宮様の前で恥をかき、お仕置きをお受けになりますか?」
凛玲の冷ややかなジト目が、逃げ場を完全に塞ぐ。
圧倒的なロジックと倍返しの罠にハメられた翠蘭は、ガクガクと膝を震わせ、ついに床に膝をついた。
「わ……分かったわ! 私が悪かったわ! 謝るから、典事様には余計なことを言わないで……!」
「……かしこまりました。分かっていただけて何よりです」
凛玲はすっと元の可憐で大人しい笑みに戻ると、深くお辞儀をした。
だが、その瞳の奥には、冷たく燃え上がる復讐の炎が宿っていた。
(覚悟しなさい、奥宮の狐たち。……姉様を殺した黒幕を引っ張り出すまで、邪魔する奴は一人残らず叩き潰してあげるわ)
劉 凛玲の、スカッとする倍返しの戦いが、今ここから始まった。
(第一話・完)




