最終章⑥
車の中では、誰も何も喋らなかった。
別に気まずかったからではなく、むしろ車内の空気はとても穏やかだった。
あのまま電車で帰るよりもこの方がよかったと思えるくらいに。
それと、単純に眠かった。
昨夜ほとんど眠れなかったせいだろう。
三十分も経つ頃には、僕はすっかりウトウトしていた。
そんな僕の様子にお母さんが気付いて声をかける。
「眠かったら、あんたも寝ていいわよ」
「うん……え? 僕も?」
眠い目をパチパチさせながら聞き返すと、お母さんはバックミラーをちらりと見た。
普段前の席に座らない僕はそういう器用な真似はできないので、直接後ろを振り返る。
「あ……」
今朝の校門前での澄風さんとの会話を思い出す。
「寝る時は部屋に鍵をかけるようにしてたの」
お墓での笹内の言葉も頭をよぎる。
「高校生になってからは学校で寝ないように気を付けてました」
友達が寝ているところを見るのなんて珍しくない。
だけど、笹内と澄風さんは違う。
二人とも、過去の経験が原因で人前では寝ることを避けていた。
だからその笹内と澄風さんがこうして安心した寝顔を見せてくれていることに、とても救われた気持ちになった。
「……懐かしいわね」
「え?」
お母さんの独り言のような呟きに、僕は運転席へ視線を戻す。
「あんたも昔はよく、後ろでああやって寝てたのよ。お父さんが運転して、私がそこの助手席に座ってね。覚えてない?」
「……少しだけ、覚えてる」
記憶の底の方に残っている、お父さんとお母さんと三人で出かけた昔の思い出。
あの頃は世の中のどんなものもキラキラしていて、恐ろしさや不安なんてどこにもないように思えた。
そんなふうに楽観的で怖いもの知らずな存在でいられたのは、澄風さんが言っていた通り、お父さんとお母さんが僕を守ってくれていたおかげなんだろう。
「……お母さん」
「ん?」
「いつも、ありがとうね」
「何よ、改まって」
「なんていうか、今までそういう気持ちをちゃんと伝えてこなかったなと思って」
「……ふうん」
お母さんは少し嬉しそうに笑った。
駅のホームで自分なりに色々と考えた結果を伝えることができて、僕も嬉しかった。
そして、あの時お母さんに感謝し忘れていたことがもう一つある。
僕とお母さんが住んでいる家のことだ。
あの家は、二人で住むには少し広すぎる。
おそらく、本来は四人くらいの家族が暮らすことを想定して作られたのだと思う。
それなら、二人用の家なりアパートなりに引っ越せば住宅費はもっと安く済んだはずだ。
にも関わらずお母さんがそうしようとしないのは、あの家で四人で暮らす日々についてお父さんと一緒に考えていた時間を、なかったことにしたくないからじゃないだろうか。
その夢を、何かの形として残しておきたかったんじゃないだろうか。
僕と、お母さんと、お父さんと、もう一人。もしお父さんが生きていたら、僕には弟か妹がいたのかもしれない。
もしそうなっていたら、なんという名前だったんだろう。
「……ねえお母さん。僕の名前って、お母さんとお父さんのどっちが考えたの?」
「どうしたのよ。また随分急な質問じゃない」
「なんか、お父さんのことを考えてたら知りたくなって」
「……本当に、今日は色々なことがあったみたいね」
そう言って、お母さんはどこか遠くを見つめるような眼差しになった。
「…………そうねえ。もちろん最後は二人とも納得したうえで決めたけど、勇気って名前を最初に提案したのはお父さんの方だったわよ」
「お父さんは、どういう理由で勇気って名前を選んだの?」
「名前の通り勇気のある子に育ってほしいから、って言ってたわ……あの人らしく単純で、真っ直ぐな理由だったわね」
「勇気のある子か……僕、あんまり度胸がある方じゃないんだけど」
「そういう単純なことを言ってるんじゃないわよ。勇気のあるっていうのは、おかしいことにはちゃんとおかしいと言って、そのせいで苦しんでいる人がいれば寄り添ってあげられる人のこと。少なくとも私とお父さんは、あんたの名前にそういう意味を込めたの」
一昨日までの僕ならこの話を聞いてもピンとこずに、しばらく経てば話してもらった内容も忘れてしまっていたのかもしれない。
だけど今の僕にはお母さんの言葉の重みが理解できた。
自分の名前に込められたお父さんとお母さんの願いが、ちゃんと伝わってきた。
「……でも、今までお母さんの方からそういう話をしてくれたことってなかったよね。小学生の時も僕が宿題で聞いただけだったし」
「こういうことはね、周りが口で言っても仕方ないのよ」
僕の疑問に、お母さんは実に放任主義らしい答えを返した。
「例えば『いじめをしちゃいけないなんて小学校で教わることだけど、あんたと同じ年になってもそれが理解できてない人だっているでしょ」
「……うん、いるね」
「それと同じで、親がいくら『あなたの名前にはこういう意味がある』って教えても、それだけで子供が名前の通りに育つわけじゃないもの。進路の話にしてもそうだけど、結局どういう人間になりたいのかは、あんたが自分の意思で決めないとね。そういうことを考える時に自分の名前の意味について考えてくれたりすると、親としてはちょっと嬉しいって話よ」
「……お母さんは、僕が名前の通りに育ってるって思う?」
「正直言うと、歳の割に呑気すぎるんじゃないかって心配してた部分もあったんだけどね。あんた友達は多くても、真剣な相談とかできるような友達はいなさそうだったから。でも、きっと笹内くんや翠山さんがそうなんでしょ?」
「うん。僕だけが友達だと思ってたけど、今はもうお互いに友達だと思ってる」
「ま、それなら今日のところは合格ってことでいいんじゃない。あんたなりに色々経験して、成長してるみたいだしね」
助手席から見るお母さんの目つきは、普段後ろの席から鏡越しに見る時よりも優しげなものに見えた。
「……お父さんも、生きてたらそう言ってくれたかな?」
「あの人は私より全然甘いもの。きっと百点満点だとか、百二十点だとか言って褒めてくれるわよ」
「……そうだね。お父さんはそういう人だったよね」
僕とお母さんは、笹内と澄風さんを起こさないように小さい声で笑い合った。
僕達四人を乗せた車は、それぞれの我が家が待っている街へとタイヤを走らせる。
なんだか無性に、早く家に帰ってお父さんにただいまと言いたい気分だ。
窓の外を見ると、空は夕暮れなのか夜なのか区別が付かない紫色になっていた。
刻々と暗さを増していく闇の中、次第に星達が瞬き始める。
今の僕には、笹内や澄風さんの頑張る姿がその星達と重なって見えた。
きっと僕は、今まで青空しか知らずに生きてきたのだと思う。
お母さんがずっと僕のために頑張ってくれていたおかげで、世界は楽しいことに溢れているのだと信じていられた。
本当は真っ暗なはずの空を、太陽が明るく照らしてくれているように。
でも、いつまでも親が守ってくれるわけじゃない。
太陽はいつか沈んでしまう。
沈むまでの間も光は少しずつ弱くなっていって、世界は本当の姿を見せ始める。
多分、その始まりが今日だったのだ。
だからもう、世界が青空なのだと無邪気に信じていた頃には戻れない。
小さい頃に信じていたほど楽しいことばかりではないこの暗い世界とも、向き合わなければならない。
浮気や犯罪に手を染めて子供を傷つける親はいるし、そうした理由で心の病気になった人をいじめる人間も、残念ながら存在するんだ。
これから先、またそういう人間と対峙しなければならない時が来るのかもしれない。
だけど、世界の暗さを知れてよかったと思うこともある。
僕よりも早く青空を失ってしまった、笹内や澄風さん。
そういう人達の見えなかった努力に気付けたことだ。
親が子供を愛してくれるのが当然だと思い込んだままだったら、親の愛を失った人達がどれだけ辛い思いをして頑張っているのかなんて、気付くことはできなかった。
太陽が出ている間は、星を見ることができないのと同じように。
いや、笹内や澄風さんだけじゃない。
誰だって、いつかは親に守ってもらわずに生きていかなければならない。
僕が子供でいられる時間は、あと二年もない。
十八歳になれば選挙に行けるようになるし、車の免許だって取れるようになる。
こうしてお母さんが運転する車に乗れるのも、もう数えるほどしか残っていないのかもしれない。
だからせめて、それが許される今だけは、もう少しこの安心感に身を委ねていたい。
まどろむ意識の中で、決意と甘えが混ざり合う。
運転席でもなく後ろの座席でもなく、お母さんが運転してくれる車の助手席で、僕はゆっくりと、心地よい眠りに落ちていった。
今回でこの物語は完結となります。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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