第二十二章 世界
扉の向こうは、何もない場所だった。
色もなく、音もなく、上下も左右もわからない、ただ広がる白い静寂。歩いても、進んでいるという感覚さえない。自分の足音すら聞こえず、時間の流れているかどうかも、わからなかった。カイの手だけが、確かな重さとして、ルナの手の中にあった。
「――怖くて、逃げたくなったら、教えて」
「教えたら、どうするんだ」
「一緒に、立ち止まる。無理に進まなくていい」
「――お前、そういうところ、本当に変わってるよな」
「うん。よく言われる」
「――怖いか?」
「怖い。でも、あなたの手が、あるから」
「俺も、同じだ」
歩き続けるうち、ルナは、ふと、自分の足が、地面を踏んでいる感覚を、はっきりと感じ始めていることに気づいた。何もないはずの場所で、足の裏に、確かな抵抗があった。まるで、この白い静寂そのものが、二人の歩みに応えて、少しずつ、形を持ち始めているようだった。
しばらく歩くと、白い静寂の中に、ぽつりと、光の粒が現れた。一つ、また一つ。増えていく光は、やがて、見覚えのある景色を描き出した。
草原だった。丘があり、湖があり、遠くに塔の輪郭があった。旅の始まりの、あの場所と、同じ景色。
「――始まりの野?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。ここは、すべての場所であり、どの場所でもない」
聞き覚えのある言い回しに、ルナは振り返った。そこに立っていたのは、旅の最初に見た、あの小さな灯りだった。人でも、精霊でもない、光そのものの姿。
「――あなたは?」
「わたしは、世界そのものだ。あるいは、お前がこれから完成させる、器そのものと言ってもいい」
灯りは、ゆっくりと二人の周りを一周した。値踏みするような、それとも、迎え入れるような動き方だった。周りの草原が、その動きに合わせて、微かに波打つように揺れる。まるで、この場所全体が、灯りの意思と、緩やかに繋がっているようだった。
「愚者よ、そして、もう一つの愚者よ。お前たちは、これまで、多くの座を巡り、多くのものを選んできた。恐れを消さずに歩くことを。繋がりを手放さないことを。半分だけの真実に、乗らないことを」
「――それが、正しかったんですか?」
「正しい、という言葉は、この場所には似合わない。ただ、"本物だった"と言うことはできる」
灯りは、二人の間に浮かぶ、繋がれた手を見つめた。
「かつての愚者は、この場所に至った瞬間、自分が何のために歩いてきたのか、わからなくなった。彼女は、"至ること"だけを目的にして、至った先にあるものを、何も持っていなかったからだ」
「――わたしたちは?」
「お前たちは、至ることを目的にはしなかった。カイを失いたくない、という気持ちが、ずっと道を照らしていた。それは、目的というより、もっと、根の深いものだ」
灯りの姿が、ゆっくりと変わっていった。少年でも、老人でもなく、どこか、魔術師リオンにも、教皇オルバにも、ノクスにも似た、すべての座の主を薄く重ねたような輪郭になった。
「――ここで、最後に一つ、問う。お前は、自分自身を、どう思っている? 残響であること、二つに分かたれていたこと、完全ではなかったこと。それらすべてを、受け入れられるか?」
ルナは、しばらく、目を閉じた。旅の道のりが、まぶたの裏に、次々と流れていった。名前をもらった夜。フローラの甘いパン。獅子の牙。老人の灯り。運命の輪。正義の天秤。逆さの森。灰色の川。二色の水。崩れる塔。歪んだ水面の星。欠けた月。太陽の下の食事。審判の間で聞いた、かすれた声。
「――受け入れます。残響でも、完全じゃなくても。それがわたしだから」
「もう一つ、聞いておく。お前は、いつか本当に消える日が来ることを、恐れずにいられるか」
「――恐れます、きっと。でも、恐れながらでも、今日まで歩けた。だから、その日が来ても、多分、同じように歩けると思う」
灯りは、その答えに、これまでで一番、静かに満足したような気配を漂わせた。
灯りは、その答えに、静かに頷いた。それから、もう一度、同じ問いを、今度は違う角度から投げかけた。
「――もう一つ。お前は、自分がこの世界にとって、"意味のある存在"だと、証明できるか」
その問いに、ルナは、これまでの旅で聞いた、無数の言葉を思い出した。フローラの「いるだけでいい」。ガイウスの「役割のない者は許されない」。ソルの「答えを知らなくても、道は歩ける」。イリスの「積んだ重さが、輪郭になる」。アストレアの「誠実であれば、それでいい」。ノクスの「予測できないことを、恐れすぎるな」。オルバの「揺れながらでも、決めねばならない」。どれも、正しく、同時に、どれも、今の自分にとっての答えとしては、足りなかった。
「――証明は、できません。意味があるかどうかは、多分、誰かが決めることじゃないから。ただ、わたしは、ここまで歩いてきたし、これからも、歩き続けたいと思ってます。それだけです」
灯りは、しばらく、その答えを、噛みしめるように黙っていた。
「カイ、お前は?」
カイは、ルナの手を、もう一度、強く握った。
「――受け入れる。俺は、誰かの片割れかもしれない。でも、この旅の間、俺は、ちゃんと"カイ"として、笑って、怒って、怖がって、選んできた。それを、なかったことにはしたくない」
「――もう一つ、聞く。お前も、いつか消える日が来ることを、恐れずにいられるか」
「恐れるだろうな、絶対に。だが、ルナが言った通りだ。恐れながらでも、今日まで歩けた。それで、十分だと思う」
灯りは、静かに頷いた。その輪郭が、ゆっくりと、光の粒に分かれ、二人を包むように広がっていった。
「――では、証明された。お前たちは、一つに戻ることでも、どちらかが消えることでもなく、二つのまま、本物の繋がりを持ったまま、この場所に立っている。それこそが、これまで誰も為さなかった、"完成"の、新しい形だ」
光が、白い静寂を、ゆっくりと、色のある景色に変えていった。草原に、色が戻る。空に、あの紫と藍が溶け合う夜が戻る。星が瞬く。
気づくと、そこには、これまで出会った、すべての守護者たちの姿があった。魔術師リオン、女教皇イリス、女帝フローラ、皇帝ガイウス、教皇オルバ、正義のアストレア、そして――少し離れた場所に、ノクスも立っていた。
フローラが、真っ先に駆け寄ってきて、ルナとカイを、両方まとめて抱きしめた。
「――よかった、本当に、よかった!」
「フローラ、痛いよ」
「痛いくらい、我慢しなさい! こんなに嬉しいんだから!」
ガイウスは、少し離れた場所で、腕を組んだまま、ぶっきらぼうに言った。
「――前例がない、と言ったのは、撤回する。今、目の前に、前例が立っている」
その言い方が、彼にとっての、精一杯の祝福なのだと、ルナにはわかった。
イリスは、静かに近づき、ルナの手をそっと取った。
「――あなたの旅を、最初から最後まで、断片ではなく、通しで見てみたかった。今度は、時間をかけて、聞かせてもらえる?」
「うん。全部話す。あなたが渡してくれた水晶の話も、忘れずに」
「楽しみにしているわ」
オルバは、少し離れた場所から、ただ静かに、二人を見つめていた。声をかけることはなかったが、その表情には、これまでの重い責務の中で、初めて見せる、安堵に近い柔らかさがあった。
「――ノクス」
「愚者よ。わたしは、まだ、お前たちの道を、完全に正しいとは言わない。だが、少なくとも、この結末は、世界に新しい歪みを生まなかった。それだけは、認めよう」
「あなたの考えも、間違ってなかったと思う。ただ、そこに、もう一つの道があったんだと思う」
ノクスは、それに答えず、ただ、微かに、口の端を上げた。それが、彼にとっての、精一杯の肯定だったのかもしれない。
リオンが、二人の前に歩み寄った。
「――よくやった。お前たちは、わたしが失った、あの子には辿り着けなかった場所に、辿り着いた」
「あなたのおかげでもある。ずっと、隣で、怖いまま歩いてくれたから」
イリスが、静かに言った。
「――あなたの肩から先に、足りなかったもの。覚えている?」
「覚えてる」
「あれは、"繋がりの記憶"だったの。生まれたばかりのあなたには、まだ何もなかった。今は、どう?」
ルナは、自分の両手を見た。もう、透けてなどいなかった。旅の中で積み重ねた、すべての記憶と、感情と、選択が、確かな輪郭として、そこにあった。指の先まで、しっかりと、自分のものだと感じられた。
カイも、自分の手を見つめ、それから、ルナの手と重ね合わせた。
「――お前の手、俺の手、どっちも、ちゃんとある」
「うん。二つ、ちゃんとある」
「不思議な気分だな。前は、"半分"だって言われて、少し怖かったのに。今は、"二つ"であることが、当たり前に思える」
「わたしも、そう思う」
二人は、しばらく、繋いだ手を見つめたまま、何も言わずに立っていた。言葉にしなくても、伝わるものが、そこにはあった。
「――全部、ちゃんとある」
夜空を見上げると、月が、まん丸に満ちていた。かつて、名もない自分が目覚めたあの夜と、同じ月だった。ただ、あの夜と違って、今のルナの隣には、しっかりと手を握るカイがいて、旅の中で出会った、すべての人々がいた。
リオンが、最後に、静かに二人の前に立った。
「――これから、どうする。世界の座に至った者は、大抵、しばらくすると、次の役割を与えられる。だが、お前たちは、前例のない存在だ。何が待っているかは、わたしにも、教皇にも、わからない」
「わからないなら、また、歩きながら決める」
「――お前らしい答えだ」
カイが、隣で小さく笑った。
「俺は、しばらく、ただの旅を続けたい気分だな。目的があるから歩くんじゃなくて、歩くこと自体を、目的にするような旅」
「いいね、それ」
「決まりだな」
夜が更けても、誰も、その場を離れようとしなかった。始まりの野に集った守護者たちは、それぞれのやり方で、二人の存在を祝っていた。フローラは、いつの間にか用意していた祝いの料理を並べ、ガイウスまでが、渋々といった様子で、椀を手にしていた。
草の匂いがした。
それは、旅の始まりに感じた匂いと、同じ匂いだった。けれど、今のルナには、その匂いの意味が、はっきりとわかっていた。
生きている。
そして、一人ではない。
その二つを、同時に感じられることこそが、彼女がようやく辿り着いた、本当の「世界」だった。
朝が来て、始まりの野に、初めての光が差し込んだとき、ルナは、カイの手を握ったまま、静かに目を閉じた。旅は、まだ終わらない。むしろ、ここからが、本当の始まりなのだと、彼女は、どこかで、はっきりと感じていた。
だが、それがどんな旅になるのかを、恐れながら想像するよりも、今は、ただ、この朝の光と、隣にある温かさを、味わっていたかった。
草の匂いが、また、した。風に混じって、遠くから、フローラの料理の匂いも、微かに漂ってきた。
――終わり――




