冠位十二階を定めます
推古九年(六〇一年)九月八日、新羅の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。
推古一〇年(六〇二年)二月、来目皇子を征新羅大将軍に任命し、兵2万5千人を九州に派遣する。来目皇子は厩戸皇子の弟である。しかし、来目皇子は九州で病気になり、出発できないまま、翌年二月四日に筑紫で薨じた。そのため朝廷は土師連猪手を派遣して周防の娑婆で殯を行った。
推古一〇年十月、百済僧の観勒が来朝する。観勒はマルチエキスパートであり、各分野に人をつけて学ばせた。
陽胡史祖玉陳:暦法
大友村主高聡:天文・遁甲(占星術)
山背臣日立:方術(仙術・医術・占術など)
推古一一年(六〇四年)四月、新たな征新羅大将軍に当麻皇子(麻呂子皇子)を任命する。当麻皇子は用明天皇の息子である。当麻皇子は難波から船で出発したが、妻の舎人姫王が明石で薨去した。このため、妻を明石で葬り、引き返した。
結局、新羅出兵は実現しなかった。むしろ善徳にとって先進国新羅を相手とした泥沼の戦争は倭国の政治基盤を揺るがすだけであり、消極的方針により望ましい方向に持っていったのではないかと思われる。
善徳は推古一一年(六〇四年)に冠位十二階を制定した。大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智の十二階である。冠の色や飾りで身分を区別するために冠位と言う。これまでの氏に対して与えられる姓と異なり、個人に対して与えられ、各人の朝廷での地位を明確にした。第一回遣隋使など海外の制度の研究が反映されている。
冠位十二階の目的は氏姓にとらわれず、有能な人材を登用する点にある。これは蘇我氏にとって必要な施策である。蘇我氏は大和朝廷において由緒正しき氏姓ではなく、氏姓で登用されることの矛盾を実感していた。蘇我氏の出自は不詳で、葛城氏の分流とも渡来人とも言われている。政治に登場する時期も馬子の父の稲目からであり、大王家との外戚政策はあるものの、実力で勢力を強めた家柄である。
また、蘇我氏は実力者になった後も一族内部に対立を抱え続けていた。後に馬子の弟の磨理勢は蘇我宗家と対立し、滅ぼされる。これも由緒正しき氏姓でないためか、一族に不満分子を抱えているところが蘇我氏の弱点であり、藤原氏のように栄華を誇ることができなかった理由である。善徳としては一族という理由だけで頼ることはできず、外部から有能な者を集める必要があった。
そして善徳自身、母親は滅ぼされた物部氏の娘であり、両親の身分が共に重視される時代において、身分の点では満ち足りているという状態ではなかった。そのため、氏姓制度の矛盾を認識し、それを改める政策を採用することは自然である。
日本史知識では冠位十二階は聖徳太子が定めたことになっている。馬子が冠位を授与されなかったことは天皇中心のヒエラルキーという聖徳太子の理想と蘇我氏の権勢の矛盾と解釈されがちである。しかし、この世界では善徳が制定している。自分の父親をランク付けするわけにはいかず、馬子が授与されないことは当たり前である。
善徳は推古二一年(六〇四年)に十七条憲法も制定した。「和をもって貴しとなす」から始まる十七条からなる基本法である。この十七条憲法も日本史知識では聖徳太子のものとされるが、善徳の理念の反映である。日本書紀により蘇我氏は横暴というイメージがつけられているが、実際は諸豪族の支持の下に行動しており、和の政治を実践している。蘇我氏は滅びる時でさえ、諸豪族の支持が得られないとなると抗戦を放棄した。
第十二条は「国司・国造、百姓に収斂することなかれ」と定める。国司や国造(地方行政の責任者)は、民衆から勝手に財物や労力などを集めとってはならないとの意味である。内容は良いが、ここで善徳は失敗してしまった。この時代には存在しない国司という言葉を使ってしまった。これは善徳が日本史知識を持った転生者のためである。ここから十七条憲法は後世の偽作説が出てしまうことになる。