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天使狩り  作者: 飛鳥
第1章
39/124

朝の教室


 またしてもうだうだと、深夜のマンションの階段を上がっていく。人の気配がない。こんなにも静かなのに、この巨大なコンクリ箱の中で数多くの人間が眠りについているなんて不思議な話だ。

 よくよく考えても見れば、面積に対してこの人口比率。もしかすっと立体駐車場と同じようなものなのかもしれない、なんて寝ぼけ頭で考えていたら躓いた。

「でッ」

 最後の一段だった。登り終え、我が家を目指して浮遊霊する。このマンションで霊を見かけることは殆ど無いが、

「ただいまーッス」

 声を投げると、キッチンの方から春子さんが顔を出してきた。洗い物の途中だったらしい。

「おかえりなさい光ちゃん。どうだった? 赤羽の監視任務」

 テレビの音が聞こえていて、まるでうちの家だけ午後十時みたいだ。苦情が入らない程度に気を配ってはいるが。

「……まあ、特に何も。つまらんオチがついただけッス」

「そう――あとで聞かせてね。先にお風呂へ入りなさい」

「ういーっす」

 部屋に戻り、寝巻き類を引っ張りだして風呂場へ向かった。時計を見れば三時だった。風呂を出て眠って、そのあとはどうしよう。

「学校か…………面倒くせェな」

 そういえば伊織のやつとの別れ際に、しっかりしろ的なことを言われたような気がする。有紗にはサボるのは今日だけで、俺も明日はちゃんと登校するからお前もな、みたいな口約束をしてしまった気がする。

 溜息が出た。無論たばこの煙なのだが。時間を考えれば、ぎりぎり遅刻覚悟でもせいぜいあと四時間程度しか眠れやしない。こんなんじゃやっていられない。一体、タケルのやつはどうやって狩人と学業を両立させているんだ?



 翌日は早くに目が覚めた。ほとんど眠ったまま、重い体を引きずってゾンビのように登校したのだが、通学路の記憶が薄い。学校にたどり着き、誰もいない早朝の教室で呆然と時計を見ていたのだが、どうにも加減を間違えてしまった気がしないでもない。

「…………誰もいねぇ……」

 早すぎた。早起きなどとんとしないので、ちょうどいい時間に登校するという習慣がなかった。

 いやにしんと冷え切った教室――整然と並んだ席に、誰一人として座ってはいない。それは新鮮でもあり、なんだかさみしげでもあった。外からだってほとんど生徒の声が聞こえない。青色の朝。まるでなんだか、誰もいなくなってしまったみたいじゃないか。

 このまま誰も来ないんじゃないか。そんな不安は、ほどなくしてやっと解消された。

「む……光一か」

 よりにもよってコイツとは。見慣れた学ランに澄ましたクールフェイス。まったく何考えてやがるんだろう。

「おいタケル、お前、数時間前に顔合わしたばかりだろうがよ。全然寝てねぇだろお前」

「フ――愚かだな光一。“寝てない”という言葉は不眠時に、“あんまり寝てない”は五分睡眠を強いられた時に使う言葉だ」

「壊れてんぞお前……」

 タケルが席につく音が静けさによく響いた。俺はこうして会話しながらだって寝落ちしてしまいそうなのに、タケルにはそんな様子が一切ない。まったくどうなっていやがるのだか。

 しかしよく考えてみると、それ以降タケルは物静かだった。なるほど、分かりにくいだけで、一応こいつも疲労してはいるのか。

 特に会話もなくぼぅっとケータイいじったり寝ようとしてる間に、少しずつクラスの人間が顔を見せ始めた。

 始めはおしゃべりな女子の二人組。俺を見るなり意外そうな声を上げて詰め寄ってきたが、面倒なので適当に相槌打っておいた。

 次に真面目そうな眼鏡のガリ勉が。笑顔ひとつないカタい顔してるくせに、ドアを開けるなり俺たちを見ては「……おはよう」と声を投げてきたのが意外だった。見るからに根暗そうだったのに。その気難しそうな挨拶に、さっきのおしゃべりな女子二人が、嫌な顔ひとつせず「おはよー!」って返していたのもまた不思議な光景だった。

 ……それきり、そいつらは何事もなかったかのように自分の空間に戻ったようだったが。目を合わせるでもなく隣り合い、かたややかましく雑談を、かたや教科書の用意やなんかを数mの距離でやっていて、お互い気にもかけない。そのことが何だか妙に思えた。

「…………俺、やっぱ教室って慣れねぇな」

「ん? なんだ光一。学生にあるまじき発言だが」

「お前ら慣れ過ぎなんだよ。こんな狭い箱に、こんだけの人数が押し込められてるなんて異様なことだぜマジで。なんで平気なんだ?」

「あっ、それ超分かるー! へぇ、浅葱くんも私と似たようなこと考えたりするんだ。なんか意外ー」

「…………」

 訂正、今現在、人数は少なすぎた。筒抜けの会話を意図せぬ方向から拾われてしまったのだ。

 俺の机に体重を載せるように詰め寄ってくる。うるせぇ女。

「ねぇねぇ。浅葱くんってばさ、本当に坂本さんと付き合ってるの? 伊織ちゃんとはどういう関係? いっつも不良だけど進級大丈夫なの? ねぇねぇねぇ」

「るせぇ。面倒くせぇ。香水つけすぎだバカ……」

「え、うそつけすぎ?」

 途端に慌てふためいてやがる。しきりに自分の匂いを嗅ごうとする女だったが、人間は自分の匂いはわかりにくいんじゃなかったか? 

 そうこうしている間にまたドアが開いて、誰か、髪の長い女子生徒が入ってきた。

「…………な……!?」

 目を疑い、ぐるりと回って目眩がする。そいつの姿を観た瞬間に、朝の静かな教室が死地に変わった気がしたのだ。

 見慣れた制服。そんなものを着ているはずがないのに。俺を見つける爬虫類の双眸、どこまでも人間味の感じられない氷のような意思を宿した目――

「…………てめぇ、」

 そいつも目を見開いていた。教室に一歩踏み入ったところで動作を停止し、俺を凝視して固まっている。

 触れることのできない硬すぎる沈黙が教室を支配した。だが、うるさい女子生徒は省みない。

「――え、何。知り合い? 浅葱くん昨日休みだったよね?」

 が、お陰で重苦しい沈黙は壊れた。タバコを口にくわえると、うるさい女子が何やら悲しそうな顔したので引っ込めた。教室だ。我ながらテンパっている。

「知らんな。知るわけねぇだろ、誰だアイツ。見たことねぇ顔だが」

「そうなんだ。転入生だよ、朱峰椎羅ちゃん。めっちゃ美人だよねー超綺麗だよねーふふふふふ」

 そこで何故に、怪しげに嬉しそうに頬染めてあいつを見るんだか。本当にヘンな女。

 朱峰なにがしは、知らん顔して自分の席に座り教科書を整理している。タケルの前の席だった。ヤロウははたと不思議そうな顔して朱峰の背中を見ていた。

「…………まるで人間じゃないみたいだよね」

 頭を叩かれたような錯覚。ばか女は朱峰の整いすぎた横顔に見入っている。本当、整いすぎていて人間味が感じられないのだ。

「へ――そうだな。まるで人間じゃないみたいだな」

 背もたれに身を預ける。聞えよがしに言ってやると、ばけものが教科書整理を止めて鬱陶しそうにこっちを睨んできた。

「おう転入生、ハジメマシテよろしく。なんだ? 何睨んでんだよ」

「………………別に……」

 ついと興味を失ったように前に向き直る。タケル以外の三人が、不思議そうに俺たちを見比べていた。



 ほどなくして不思議なことが起こった。有紗がぎりぎりに登校してきたのだ。

「……あ?」

 なんだ、これ。いや別にぎりぎりに登校してくることが問題なわけじゃないのだが。

 有紗はなに食わぬ顔で教室に入ってきて、平常通りみんなに挨拶をしながらこっちへやって来ようとしていた。

 すでにほぼ揃っていたクラスメイトたちも何の気ない。そう――――有紗がぴたりと、完全に動作を停止するまでは。

「……あ?」

 なんだ、これ。有紗が無表情で、一点を見つめて固まっている。まるでさっきの俺と朱峰みたいだ、案の定相手は朱峰だった。――教室にいた人間たちも静まり返る。

 有沙と、朱峰椎羅がなぜだかお互い無表情で睨み合っている。

「…………え、おい。何だ……?」

 わけが分からない。有紗だぞ? 俺の幼馴染で、クラス委員で病的に過保護な坂本有紗が何故だかここに来て完全に微動だにしない。

 不思議な目をして、不穏な沈黙を保って椎羅と視線で刺し合っている。クラスメイトたちは何も言わない。ただただこの一触即発の空気を何とかしようと、しかし何とすることもできずに立ち往生している。

 椎羅の後ろの席、タケルのやつもいきなりの静寂にさすがに困惑している。俺だってそうだ。

「…………有紗?」

「え?」

 声を投げれば、意外なことにいつも通りだった。不自然ないつも通りの返事を、こっちに振り返って返してきたのだ。

 とてとてと平常運行でやってくる。クラスの人間たちも同じ。

「なに、光一。呼んだ?」

「いや、呼んだ? じゃねぇだろ――」

 言いながら見やるが、朱峰椎羅の態度もぶれない。既に何事もなかったように教科書に目を落としている。

 有紗の表情には純粋な疑問符しかない。つい数秒前、間違いなくあの朱峰と不穏に見つめ合っていたにも関わらず――。

 何かが間違っているくらいに、この教室は一瞬で平常運行を取り戻していた。

「……光ちゃん、ちょっと」

「んぁ?」

「ちょっと。」

 教室の出口で伊織が呼んでいた。意味深に厳しい顔をしていた。


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