霹靂
※ぬるい恋愛は「カクヨム」へ移転中です。美位矢直紀で検索お願い致します。
暫くの間ご迷惑お掛けします事、お許し下さい。
※再推敲しながら全て移転します。少し読み易くなると思います。
4 霹靂
「山崎、桁が一つ違うぞ」
「申し訳ありません」
「発注先も間違ってるぞ」
「すみません」
4月30日金曜日の午前中、月末の戦略企画室の空気は張り詰めていた。
「このページはリストと数字が一行ずつ全部ずれてるじゃないか」
「すみません」
「山崎、いつもこんな仕事してるのか?そもそも社内規約に反してるだろ」
「本当に申し訳ありません」
久美子は涼介が座るデスクの前に立ち、深々と頭を下げた。
「山崎一人の仕事じゃないんだぞ。まず課で精査して久保田部長に提出、そして企画開発の飯田部長が承認だろ。分かってる筈なのに何故俺の所に持って来たんだ」
「・・・久保田部長は忙しくしてましたし、竹下さんも今日提出の資料や納品チェック沢山抱えてますし、飯田部長はおとといから不在ですし・・・少しでもスケジュールを・・・私一人で大丈夫だと・・・時間も短縮出来ますし・・・」
「だからルール違反を百も承知で皆の負担を減らす為に私が全部やりましたって事か?それに内容が完璧なら怒られるより褒められるだろうって事まで計算してたのか?それとも何か?万が一トラブルでも起これば、全て私の責任だと言って格好良く辞表を出す事も視野に入れてたのか?」
「・・・・・」
久美子は唇を噛み締めていた。
「山崎、こんなスタンドプレーが賞賛されるのは映画やドラマの世界だけだ。例外があるとすれば、使命感を持って、私利私欲を捨てて取り組んだ時だけだ」
「・・・すみません」
「俺は辞表を破り捨ててエールを送る様な人間じゃないぞ。二度とこんな事はするな」
久美子は前日のゴールデンウィーク初日の休日出勤を利用し、元町店リニューアルの中間報告書や見積書などを一人で作成していた。そして誰にも知れず前倒しで完成させた書類を室長室の机の上に置き、会社を後にしていた。そんな久美子の行動は全て涼介と会う機会を増やしたいとする思いから端を発していた。
久美子は涼介の評価を得てポイントを稼げれば、今迄以上に親密になれると信じていた。しかしそんな動機の中にある邪な部分は得てして致命的なミスを引き起こす素地を持っていた。
(ああ、やっちゃったなぁ・・・)
部署へ戻るエレベーターの中で、集中力の欠如が如実に現れた書類を捲りながら久美子は反省していた。
(頑張んなきゃ・・・負けないわ・・・)
涼介の怒った姿に初めて触れた久美子は、自分のエゴを潔く認める事で意気消沈やネガティブな気持ちを断ち切ろうとしていた。そしてそんな感情は涼介への恋心を更に燃え上がらせる事にも繋がっていた。
「山崎、何故室長に呼ばれた?」
15分程前に涼介からの内線電話を取り、室長室に行くよう指示していた久保田は部署に戻って来た久美子をデスクの前に呼んでいた。
「コテンパンに叱られて来ました」
「どうしてだ?」
「褒めて貰おうと抜け駆けしました」
久美子はそう言って、至る所に赤ペンでチェックされて差し戻された書類をデスクの上に置いた。
「・・・なるほどな」
久保田は書類にざっと目を通していた。
「久保田部長、申し訳ありませんでした」
「山崎、これ、竹下と二人で最初から作り直して明日の1時迄に出せ。3時に飯田部長と打ち合わせだから」
「分かりました」
「挫けるなよ」
久保田は優しい目をしていた。
△
「ほんとに?・・・そんなに休み取れるの?・・・うん、私は連休取れそうだけど・・・」
「・・・・・」
4月30日の午後、クライアントとの打ち合わせが終わった帰りの車中、鎌田はマキの会話を気にする事無く運転していた。
「うん、覚えてるよ、箱根だよね・・・早いよね・・・」
電話に意識を集中させているマキの声はいつもより大きかった。
首都高速横羽線を下る車から横浜公園出口の案内看板が見えていた。
「そうだよね予約してるよね・・・そっかぁ3、4、5っかぁ・・・」
「・・・・・」
本線から外れようとウインカーを点滅させた鎌田は一度マキの顔を見た。
「分かった・・・うん、でも急な仕事が入っちゃったら二泊出来ないかも・・・そう・・・じゃあ明日の夜電話する・・・一応3日のお昼ね・・・それじゃ・・・」
マキはそう言って和明からの電話を切った。
鎌田は横浜公園出口手前の下り坂でスピードを落としていた。
「このままどっかで御飯食べて帰りますか?」
「・・・聞こえてたよね?」
「ええ、全部」
「・・・・・」
マキは少し困った顔をしていた。
「余計なお世話ですけど、行きたくないんですか?」
一般道に合流する信号待ちで鎌田は単刀直入した。
「行きたくないって言うか、行けるのかなって」
「?・・・それは彼氏さんの仕事を気にしてるって事ですか?」
「だって連休って忙しいでしょ、ショールームだもん」
「輸入車の代理店でしたっけ?」
「そう」
「でも予約してあるんでしょ?」
「取り敢えず押さえただけかもよ」
「乗ってないですね」
「だってウチも仕事入るかもじゃん」
「入らないですよ、ウチはそんな業態じゃないし」
「・・・・・」
マキは自己都合を更に捏ね繰る前に、鎌田にピシャリと扉を閉められた。
「マネージャーの彼氏さん、きっと分かってますよ、急に仕事なんか入らないって」
「・・・・・」
冷静な鎌田の言葉に、マキは途方に暮れそうな表情を浮かべていた。
「本当に余計なお世話ですけど、僕がマネージャーなら行かないかな。逆に彼氏の立場だったら、さっきの電話のマネージャーの感じ、火が付きますね」
「火が付く?」
「折角折り合い付けて休み取って予約して喜んで貰おうって電話したのに、彼女が引き気味で乗り気じゃなくて嘘まで付くなんて、全く燃えるぜって」
「・・・・・」
マキは鎌田の駄目押しに、完全に途方に暮れた。
「御飯行きます?」
アクセルを踏み込む前に鎌田はもう一度聞いた。
「・・・お腹空いたね」
マキは鎌田の助言に揺れる気持ちの落とし所を見出せないまま、泊まったとしてもセックスだけは絶対にしたくないと思っていた。
△
♪何も手に付かず過ごしてる何か期待して
欲しいのはあなたの愛だけ
振り向いて今すぐ抱きしめて
止められない溢れる思い受け止めて
夜の帳が下りていた。
新港埠頭や大桟橋を繋ぐ海岸通りは昼間とは違う賑やかな色合いを見せていた。
「・・・良い歌じゃんこれ」
久美子はラジオから流れ始めた曲にそう呟いた。
♪もっともっと会いたい
会えない時を乗り越えて
何処に居てもいつでも会いに行くよ
「♪ふふふん・・・♪・・・」
海岸通り店のディナータイムを手伝った帰り、久し振りの接客業務で疲れていた久美子の顔には笑みが戻り、運転している営業車の中でテンションを上げていた。
5月1日の土曜日、レストラン事業部は全員出勤していた。
長谷川物産本社の就業は基本的に暦通りだったが、経営企画側に属する事業部は各店舗や営業所の都合に合わせ、関連会社から飛び込む急を要する仕事の対応や、各店舗から要請があれば接客業務のヘルプに行く段取りになっていた。
ゴールデンウィーク期間中の店舗管理課は各人の出勤日を事前に調整していた。久美子は2日から4連休を取っていた。久保田は暦通りの休日を取り、竹下は5月4日迄出勤し、5月6、7日と有給を取って次週の土日に繋げ5連休を取っていた。
「よしっ!頑張ろっ」
久美子は疲れが飛んで行く感覚を曲から貰っていた。
操るハンドルも軽快になっていた。
歩道で腕を組むカップルに微笑み掛ける余裕も出来ていた。
久美子は歌に勇気を貰い、明日から始まる連休をどう過ごすか考え始めた。
車は横浜税関前の信号を右折していた。通りの両側には優美にライトアップされた由緒ある建物が点在し、後方は赤レンガ倉庫を彩っているだろうオレンジ色の光が夜空に溶け込んでいた。
(きっかけ作んなきゃ・・・)
久美子は連休中の何処か一日だけでも涼介と一緒に過ごしたいと思っていた。
(?・・・誰だろうこんな時間に・・・)
右ウインカーを点滅させ、対向車が途切れるのを待って本社地下駐車場に営業車を滑り込ませた久美子は、直ぐ後ろを追うように進入して来たヘッドライトが気になった。
(まいっか・・・嘘っ、9時過ぎちゃった・・・ふぅ、直帰したかったな)
所定の場所に停める為にハンドルを切り返していた久美子は、同じ時間に入って来た一台の車が誰なのか気にするよりも、カーナビに表示されている時間に疲労感が押し寄せて来る事を止められず、営業車で動いた手前一度社へ戻らざるを得なかった自分の選択を悔いていた。
エレベーターホールに向って歩く久美子の耳に、コンクリートを踏む堅い靴音が聞こえていた。
久美子は風除室の扉を開け、エレベーターが2基ずつ正対しているホールに入ろうとしていた。
久美子は振り向いた。しかしホールから見る駐車場は暗過ぎて何も見えなかった。
「・・・・・」
久美子がエレベーターのボタンを押した時、風除室の扉が開く音が聞こえた。
(うわっ!!・・・)
視線を外さず、ゆっくりと近づいて来る涼介の圧力に久美子はたじろいだ。
「お疲れ様です」
久美子は心の準備を急いだ。
「お疲れさん」
「・・・室長、元町リニューアル資料の件、申し訳ありませんでした」
「もういいよ、終わった事だ。次に活かせばいいから」
涼介は穏やかだった。
「はい・・・」
「何処からの帰りなんだ?」
「海岸通り店のヘルプです」
「そっか、大変だったな、ご苦労さん」
涼介はそう言って重役や来賓の為に確保されてある専用エレベーターのボタンを押した。
二人はそれぞれ隣り合ったエレベーターの前に立っていた。
「・・・室長はどちらからですか?」
「経堂だよ」
「経堂って、東京ですよね?」
「ああ」
「仕事・・・ですか?」
「10月にレストランをオープンするんだよ、経堂駅の近くに」
「えっ!そうだったんですか」
「現場付近の調査で行ったんだけど、まだ色々揉めててな」
そう言った涼介の肩は少し翳っていた。
「大変ですね・・・」
“♪♪・・・”
久美子が呼んだエレベーターのチャイムが鳴った。
「・・・あの、室長」
「どうした?」
扉が静かに開いた。
二人は向き合っていた。
「一日、私に下さい」
「?・・・」
「私、明日から連休なんです」
「・・・・・」
涼介は滑るように締まり行く扉に目を向けていた。
「・・・私の友達は皆な予定が入ってて、竹下君は仕事ですし、姉さんは彼氏と温泉に行くって言ってましたし、もし宜しければ室長に・・・何処か・・・連れてって貰いたいなって・・・」
久美子が話している途中、専用エレベーターのチャイムが鳴り、扉が静かに開いていた。
「そっか」
涼介は扉を手で押さえていた。
「何処か連れてって下さい」
「大胆だな・・・」
涼介はエレベーターに乗り込んだ。
「もう予定入ってますか?」
久美子はエレベーターに乗り込んだ涼介の正面に立った。
「これも山崎の技か?」
「・・・・・」
久美子は声を出せなかった。
「昨日の件もそうなんだろ?」
「いえ、それは・・・」
「言ったろ?俺はエールを送る様な人間じゃないって」
「あの・・・」
「じゃあな、お疲れさん」
「・・・・・」
久美子は締まり行く扉に消えた涼介の残像をじっと眺めていた。
△
夜の帳は完全に下りていた。
馬車道の街路樹は少しだけ冷たい風に少しだけ枝を揺らしていた。
悶々としていた。
苦々しくもあった。
早い足取りで黙々と歩く涼介は苛まれたくないと思っていた。
△
「お久し振りですね」
綾美は満面の笑みを浮かべていた。
「どうも」
「今夜はお一人ですか?」
「そうだね」
三週間程前に純一と待ち合わせをしたBARに涼介は来ていた。綾美の顔を見るのはその時以来二度目だった。
「黒でしたよね?」
「いや、ラムバックを」
煙草に火を付けようとしていた涼介はそう言った。
店内は深い時間に合わせた少し重い照明の下、いつもとは違うジョン・コルトレーンが流れていた。
カウンター上の何箇所かにだけスポットライトが落とされていた。
「同じやつを」
「あ、はい・・・早いですね」
一杯目を涼介の前に差し出し、グラスを拭こうとカウンターに背を向けていた綾美は、低く響いたその声に振り向き、ほんの数秒ぐらいで空になっていたグラスに手を伸ばした。
「・・・・・」
涼介は地下駐車場で久美子の大胆な言動を振り切った時、経堂店出店に関して山積する問題に抗うモチベーションを既に奪われていた。その事実は今日中に纏めるつもりだった現地調査報告書の作成を先送りにさせていた。更には久美子が突き付けた言葉の中に、マキは相愛の彼氏と順風満帆であるという事実が紛れていた事に動揺していた。
「どうぞ」
「・・・・・」
涼介は左指に挟んでいた煙草を右に持ち替え、コースターの上に置かれた二杯目に左手を伸ばした。
(情けねぇ・・・)
久美子が言った“マキが彼氏と温泉に行く”という文言を涼介は何度も脳裏に過ぎらせていた。
(・・・ぬるいな)
現実は如実に涼介を襲い、確実に叩きのめしていた。そして叩きのめされた涼介の思考回路が発信するマキへの想いは切なさと厳しさを増していた。
(・・・まったく・・・)
もう一度最初からやり直し、空白の時間をマキが取り戻そうと思っているとすれば、どんな事情があっても彼氏と温泉などには行かない筈だと、涼介は導きたい結論に投げ遣りな思考で接していた。
「綾美さん、お願い」
切迫した問題を解決する糸口を見つけられない焦燥感に血の気が引く様な汗を掻いていた涼介は、煙草を消しながら三杯目を頼んだ。そして手前勝手で常に自己都合を優先するぬるさを心の中でせせら笑った。
「ペース早過ぎますよ」
様子を注意深く観察していた綾美はおもむろに涼介に近づき、そう言って空のグラスを下げた。
「・・・・・」
ぬるい自分をせせら笑った時、自らの美意識に課していた制約の様なものを全て排除していた涼介は、綾美の言葉を気にする素振りもなくスーツの内ポケットから取り出していたXPERIAの通話履歴を開いた。
涼介は今夜初めて自分の行動や決断に淀みや迷いが無い事を感じていた。
履歴の一つをプッシュした涼介は、今夜これからの行動を明確に意識し、肝に銘じていた。
呼び出し音は涼介の左耳で繰り返されていた。
「・・・・・」
綾美はいつまでも顔を上げようとしない涼介に何か得体の知れない気迫のようなものを感じながら、ずっと涼介の目の前に居たい気持ちを瞳に滲ませて待っていた。
「・・・・・」
繰り返される呼び出し音は涼介の左耳に響き続けていた。
「・・・・・」
出来上がってしまった三杯目のラムバックを新しいコースターの上にそっと置かざるを得なくなった綾美は、新たな接客の為にその場所から離れた。
「・・・・・」
涼介は一定に響き続ける発信音の無機質に冷静さを取り戻し、左耳にXPERIAを当てたまま今夜久美子が見せた地下駐車場での大胆な行動を顧み始めていた。そして欲しいものを手に入れる為に強かな戦略を練り、機を見るに敏だった岡部を思い出していた。
「・・・・・」
涼介は岡部の時と同じ様に久美子の術中に嵌ってみるのもまた妙味があるかもしれないと考え始めていた。
「・・・・・」
マキとの再会を報告した時に純一から“お前らしく、ぬるくどろどろでもいいんじゃないか”と呆れられた事も思い出していた。
涼介は抱えるつもりのなかったやり場の無い苛立ちにうんざりしていた。そして心を覆う靄をわだかまりなく飛散させ次の手順を明瞭に出来るかもしれない、愚か過ぎる荒んだ自己満足に比重を置く結論ありきの思い上がりをぬるく許す事を迷っていた。
涼介はゴールデンウィークに何の予定も入れてなかった。願わくはマキと一緒に過ごす時間が欲しいと思っていた。三杯目のラムバックを頼んだ時、その願いの質は切望だと分かっていたにも拘わらず迷っていた。荒んだナルシズムなどではなく、形振り構わずマキを強烈に抱きしめたい衝動に突き動かされている事を分かっていながら迷っていた。今マキが何処で何をしていても、誰とどんな状況の下であっても必ず会いに行き、惜しみなく奪う覚悟が体中に溢れている事を明確に自覚して電話を掛けているのに迷っていた。
「・・・・・」
涼介はXPERIAをカウンターの上に置いた。
繋がらなかった一度目の電話が、涼介にとってある意味全てだった。
明るい画面に浮かぶ名前の主に、一瞬、二人はこのまま古き良き異性の友人として元に戻らない方が最良であり、圭子や純一を交えた四人での関係を深く育てる事が正解ではないかと諭されている気がしていた。そして三杯目を飲みながら、経堂店出店計画が順調ならば気持ちの逡巡や動揺加減がまったく違っていたかもしれないと、相変わらず責任の所在を他に求めながら遠くなるマキの影を追っていた。
「大丈夫ですか?」
少し遠い所に居た綾美は涼介の前に戻って来た後そう言った。
「・・・・・」
涼介は目で“何が?”と聞きながら煙草に火を点けた。
「・・・誰か・・・いらっしゃるんですか?」
綾美は初めて見る涼介の雑な所作が気になっていた。
「何故?」
「今・・・電話してたようなので・・・」
綾美はカウンターに投げ出している待受け画面のXPERIAに何度か視線を落とした。
「来ないよ」
そう答えた涼介の眼差しに、綾美は脛に傷を持っているだろう男が放つ独特の色気を感じて少したじろいだ。
「そうですか・・・佐久間さん・・・まだ此処で飲まれますか?・・・」
カウンター内にある従業員用の小さなデジタル時計が23:10を表示している事を確認していた。
「どうして?」
「私、今夜は11時で仕事終わ・・・」
綾美は放り出されていた待受け画面のXPERIAが誰かを呼び出している画面になっている事に気付いて言葉を切らされた。
「・・・それで?」
呼び出し続けている画面に目を落としていた涼介は、綾美を見ないまま右腕のROLEXに目をやった。
「・・・いえ、あの、すみません・・・」
綾美は伝えたい言葉を飲み込み、洗い終えていたグラスを棚に戻し始めた。
「・・・・・」
涼介は呼び出し続けていた。
ジャズは店内の重さに纏わり付くように流れていた。
綾美は涼介に背中を向けていた。
「・・・いいよ、付き合うよ」
両肘をカウンターに付け、左手の指で両瞼を押さえ、目の疲れを解すように少し俯いていた涼介は綾美を見る事なくそう言った。
「・・・・・」
振り向いた綾美は何も答えず、涼介のXPERIAの画面を見ていた。
「・・・15分後に店を出るから」
自虐を引き連れ、再びぬるい恋愛に向き合い始め、ずるい主観に妙味を得ようとする方向に舵を切った遊び人は“山崎マキ”の字が大きく映し出されている呼び出し画面を切り、XPERIAの電源も切った事を少し大袈裟に綾美に見せつけた後、動かない綾美を見つめ返していた。
△
♪二人腕を絡め歩いてた
遠いずっと遠い記憶
聞かせてよあの頃の歌を
好きだったあの声
(君がいた夏・小柳ゆき)
テーブルの上には飲みかけの黒ビールとCDケースがあった。
リビングの履き出し窓は開け放たれていた。
ベランダで頬杖を付いているマキは背中で大好きな曲を聞いていた。
今夜のこの時間、涼介は何をしているんだろうと考えていた。
♪世界中の誰より私の心を照らした
愛を身体に感じてた
君がいた夏忘れないよ
(君がいた夏・小柳ゆき)
夜風は凪いでいた。
少し蒸し暑さを感じていた。
和明に電話をしなければならなかった。
箱根への旅行を断る理由が欲しかった。
付き合い始めた半年前の自分に悔しさを感じていた。
(電話しなきゃ・・・)
マキは溜息を一つ吐いた。
リビングへ戻ったマキはCDを止めた。
(日帰りに出来ないかな・・・・・)
グラスに汗を掻いていた黒ビールをマキは飲み干した。そしてソファに放り投げたままのトートバッグに手を伸ばした。
(・・・えっ!)
マキは驚きと“ときめき”を同時に感じていた。
XPERIAには涼介からの着信が記録されていた。
履歴には“5月1日22:45”を皮切りに何度も何度も記録されていた。
(マジか・・・ヤバい・・・もう・・・)
マキは記録の数に焦っていた。
ぎこちなくXPERIAを弄りながらマキは直ぐに折り返した。
(お願いお願いお願い・・・あっ!もしも・・・)
手で握っていたスピーカーからの応答にマキは反応していた。しかしその女性は涼介を呼び出す事が出来ない状態を音声で告げていた。
(・・・何でなの・・・リョウ・・・)
涼介の最後の着信から20分程しか経っていないのに繋がらなかった。
受け入れざるを得ない現実にマキは胸を締め付けられていた。
マキは何度も何度も繰り返し発信し続けていた。そして何度も何度もメールを打ち、待っていた。
マキはソファに座ったまま、何処を見つめるでもなく、何をやるでもなく、少し途方に暮れかかりながら待っていた。
涼介からの着信に気付かなかった自分が悔しくて仕方なかった。
電源を入れて欲しいと祈っていた。
和明への電話など、もうそんな事はどうでもよかった。
時間だけが重く過ぎていた。
悔しくて悔しくて仕方なかった。
午前1時を過ぎていた。
チェストの上に置いたままの掛け時計から、カチカチと胸を締め付ける様な無機質で無情な音が部屋に響いていた。
悶々としていた。
苦々しくもあった。
必ず連絡が来ると信じていた。
眠れなかった。
途中、和明からの着信があった。
出れなかった。
出られる訳がなかった。
もう苛まれたくないと思った時、ベッドの中で返信を待つマキは気持ちを決めた。
マキは今夜初めて自分の行動や決断に淀みや迷いが無い事を感じていた。
△
「どうしようかな・・・」
ヘッドライトもテールランプも何時もよりその数が少ないと感じていた。
通りに面している見慣れた街灯りは何時もの様に流れていた。