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ぬるい恋愛✉Ⅱ #everlasting love  作者: 美位矢 直紀
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真実






2 真実






「・・・もしもし・・・元気か?・・・」

 涼介はリビングに戻りながらXPERIAをスピーカーにして話し掛けていた。

「元気に決まってるよな・・・そうだな・・・まだ一週間も経ってないしな・・・仕事中岡部の声が聞こえないとこれから寂しくなるかもな・・・」

 恭子は突然掛かって来た涼介からの電話に“会いたくなったんでしょ”と冗談を言っていた。

「悪いけど明日大手町店の調査資料送ってくれないか・・・そうだよ・・・ああ・・・閲覧出来る様にしてるのか・・・そうだな・・・パスワードは変わってないよな?・・・」






     △






「電話誰からだったの?」

 和明は洋室から戻って来たマキに聞いた。

「あ、美由紀」

「美由紀って、マキがたまに相談してる人だっけ?」

「そう。子育てで結構ストレス溜まってるみたい」

 マキはそう言いながらキッチンに向かい、カップボードの食器をせわしなく整理し始めた。

「・・・・・」

 和明はまだ質問をしたそうな表情を浮かべ、マキの姿を追っていた。






     △






「もう一度一から洗い直した方が良いと思います」

 だらだらと続きそうな会議に涼介はそう結論を放った。

 涼介の手元には北九州支店管轄の大手町出店計画の資料が有った。

 4月の第一週、最上階に在る社長室隣の会議室には沈黙が訪れていた。

 会社は今年の秋に世田谷区経堂駅近くにレストランを出店する計画をしていた。昨年末から前室長が店舗のコンセプトや出店までのアウトラインを構築していたが、前任の退職と涼介の着任という人事の変更に因り計画は一時ペンディングとなっていた。

 経営陣や各部署のトップが集まる会議は一時間近く経過していた。涼介は前任の室長が纏めた出店に関する資料を3月中旬頃には目を通し、引継ぎを受けた時には自身が考える問題点や疑問点をピックアップしていた。

 涼介にとっては戦略企画室室長として最初の大きな仕事だった。流されず、空気を読み過ぎず、ましてやスタンドプレイに走る事など許されない立場を忘れる事無く、綿密に繊細に、リスクを背負うにしても背負うだけの根拠を出来るだけ多く表面化したいと考えていた。

「それは全てを白紙に戻すという事かね」

 涼介の結論に補足を求める為に、そう社長がハナを切った。

「いえ、場所は問題ありません。不動産事業部の尽力が分かる立地です。だからこそ不動産事業部が何故その場所を確保したのか、その意思を無駄にしないコンセプトを一から構築する必要があります」

 涼介は冷静だった。

 前任の室長が進めていた薄利多売型ファミリータイプのレストランに以前から懐疑的だった不動産事業部の部長は力強く頷いていた。

「という事は、集客層や単価や、まさか図面まで変えるつもりなんですか?」

 経営企画室の室長が言った。

「経堂は東京での2号店になります。東京での初店舗となった多摩プラーザ店出店計画当時、入社3年目だった私もチームに参加させて貰っていました。その時に勉強したのは担当者全員の妥協無き姿勢です。以降、各店舗毎コンセプトが違えど新規出店やリニューアルの時にその姿勢を社員が守り続ける事で今のレストラン事業部の売り上げを維持しています。それは長期的に会社のブランドを守る事にも繋がり、責任管理をする社員のモチベーションも上がり、今後の優秀な人材の確保にも繋がります」

 涼介は更に続けた。

「お客様の意向や時流は大切です。しかしそれを全てとし、要求されるだろう全てを受け入れて安易にコンセプトに織り込んでしまえば店舗はいずれ荒んで来ます。接客サービスの分野だからこそお客様とは対等だという考えの下、自信を持って他社とは違う良質のサービスを提供出来なければ会社の経営モデルそのものが壊れてしまいます」

「どんな店にしたいのかね」

 専務が直入した。

「一言で言えば、入りづらいレストランにしたいと考えています」

「ほう。ならば10月1日のオープンがずれる可能性も有るという事か」

 社長が聞いた。

「いえ、資金計画を崩し、金利が発生する様な延期はしません」

「・・・・・」

 経営企画室の室長は少し安堵の表情を浮かべ頷いていた。

「そうか。それじゃあ佐久間君、2週間後を目処に新たな概要を作ってくれ。そこでその“入りづらいレストラン”について論議しよう」

 社長は“お手並み拝見”という様な雰囲気で会議室に居る全員を見渡し、異論が無い事を確認しながらそう言った。

「分かりました」

 涼介は冷静に、自らの信念にも返事をしていた。






     △






「久保田部長、それでお願いします」

「分かりました」

 経堂新店舗出店会議を終えたその日の夕方、企画開発部のミーティングルームで行われていた元町店全面リニューアルに関する中間報告会議に出席した涼介は終始穏やかだった。

「飯田部長、それじゃこの案件はレストラン事業部に丸投げって事でいいんだよな?」

「室長、丸投げって失礼な。言葉は選んで下さい」

「ふっ・・・それとこの“優越感や孤高を嗜む客層の来店を狙い、洗練や気品を提供する”って言うキャッチは竹下君が考えたのか?」

涼介は飯田の切り返しに笑い、質問を続けた。

「あ、はい」

「なるほど、割と俺好みだよ・・・竹下君と山崎君、久保田部長の指示を忠実に守りながらアイデアを投げて困らせて意見を戦わせろよ」

「はい・・・」

「分かりました・・・」

 二人の顔には会議の空気に終始溶け込めず、流れにも追い付けていない戸惑いが浮かんでいた。

「じゃ終わりましょう。お疲れさん」

 元町店は6月の一ヶ月間を使い、より一層雰囲気を大切にした大人の空間に仕上げる為に個室や中二階を造り、カウンターBARを新設する事になっていた。

 リニューアルの担当は企画開発部飯田部長の指示でレストラン事業部が当っていた。本来なら企画開発部の真骨頂を発揮出来る仕事だが、部の1課2課とも百貨店事業部の仕事に掛かり切りであり、強引に時間を割いた負荷に因る仕事の質の低下を避ける為、元町店の内情に詳しい元店長だった久保田に任せていた。そして久保田は店舗管理1課に仕事を担当させ、中心となるべき社員に竹下と久美子を据えていた。

「佐久間室長、復帰と昇進、おめでとう御座います」

 久保田は態と畏まった挨拶をしながら涼介に歩み寄った。

「何言ってんっすか部長、勘弁して下さいよ」

 涼介は立ち上がり、久保田の笑顔に敬意を払い感謝していた。

「いやあでも嬉しいよ。あっちゅう間に追い越されちまったけどな」

「僕の中では今でもお世話になった厳しくて優しい店長なんですよ。これからも色々教えて下さい」

「ははっ、そういう時代もあったかな」

 二人の立ち話には、師匠を越えようとしている弟子との会話の様な絶妙な間合いがあった。そして今後再び充実した仕事が出来るだろう期待感が笑顔から溢れていた。

 入社当時、半年間研修をした元町店は涼介にとって思い入れの強い店舗だった。その時の店長であり、右も左も分からない涼介が指導を受けたのが現在のレストラン事業部部長の久保田修造だった。久保田は47歳になっていた。涼介より一回り年上だが、当時の涼介を知る久保田は誰よりも涼介の出世を喜んでいた。

「飯田、お前ちょっと見ない間にお腹出し過ぎじゃね?」

「歩かないし食べるし飲むし、まあしょうがないだろ」

 二人の絶妙な距離感に飯田も加わった。

 飯田昇は涼介と同期の35歳だった。二人は入社当時からずっと企画開発部に所属し、若さに任せていた頃からの遊び友達であり、酒の席では愚痴を言い合える仲だった。飯田は涼介が1課の主任だった時、その勤勉さと実直さを買われて2課の課長を務めていた。涼介が北九州に転勤になった後もお互いの仕事や情報収集を兼ねて密に連絡を取り合っていた。昨年飯田が企画開発部の部長に昇進した時、涼介は自分の事の様に喜び、年度末に涼介が室長として本社に戻る事が決まった後、その人事が如何に適切であるかを周囲に力説していたのが飯田だった。

「・・・・・」

 竹下は席を外し立ち話を始めた三人の会話を黙って聞いていた。

「・・・・・」

 久美子は仕事中決して見る事が出来ない、リラックスした上司が始めた垣根の無い会話を間近で見て居られる事に、ある種感激していた。

 久美子はお互いを認め合い、信頼の下で成り立つ男同士の会話を美しいと感じていた。そしてそれぞれの上司が仕事中に見せる骨っぽさや信念と、目の前で軽口を叩き合う物腰とのギャップに、第一線で仕事をする男性の計り知れない底力を垣間見た様な気がしていた。


「それにしても凄い会議だったね・・・」

 部屋を出てホールを歩いていた久美子が竹下に言った。

「いやあ、あの感じであのテンポって、相当なもん見せて貰ったかもな」






     △






“帰り寄っていい?”

 久美子はマキにそうメールを打っていた。

 中間報告会議が終わった後、部内で残務を済ませた久美子は退社後マキの会社に寄り、今後のスケジュール報告や今日の会議の内容を事前に報告しようとしていた。


 オーセンティック・アドバタイズメント・デザインは長谷川物産から元町店リニューアルコンセプトに基づいた店舗の在り方を提案、具現、商品化する依頼を受けていた。担当はマキが率いるチームだった。

「今日始めて室長と仕事したんだけど、やっぱ凄いわ」

 久美子はマキのデスクの横に座っていた。

「元町の件?」

「そう。もうね、三人とも切れっ切れ。あ、お世話になります」

 マキと話しながら、久美子は時折り傍を通る顔見知りの社員に挨拶をしていた。

 鎌田は既に退社していた。

 マキはパソコンに届いている資料をチェックしていた。

「後の二人は?」

「飯田部長と久保田部長」

「そっかー、飯田さんも久保田さんも鋭いもんね。いつも苛められるもん」

「それは姉さんの提案が悪いからよ」

「まあそうだけど・・・ね、その室長ってあの二人より手強そう?」

「もうね、半端な事やったら理詰めでやられるわよきっと。金額とかスケジュールとかじゃ無さそうだもん」

「そう。まあでも遣り甲斐は有るわね」

「ほんとにそう。本当に良い男だった。見惚れてたもん。上司としてさ」

「へぇー」

「会議終わった後三人で話してたんだけどさ、格好良かったもん。隙が無いのに隙だらけな所も惚れちゃうんだよねぇ」

 久美子の顔は妄想でニヤけていた。

「ふーん、よく分かんないけど、一目惚れして正解だって事?」

「もちろんよ!絶対彼女になる」

「あ、そう言えば村上チーフ居るわよ。会う?」

「えー何よ突然・・・良い気分だったのに。そんな急に気持ち切り替えて挨拶なんか出来ないよ」

「そうなの?」

「そうよ・・・あ、どうもお世話になってます」

 マキ越しに居た社員と目が合った久美子は挨拶をした。

「久美子、あなたやっぱり村上チーフとの食事断った方がいいんじゃない?」

 マキは恋心を躍動させ、それを好影響として仕事に反映させ充実した時間を勝ち取っている久美子を少し羨ましいと思っていた。

「姉さんちょっと意地悪じゃない?ね、和明さんと上手く行ってないの?」

「何言ってんの!」

「だってこの前も何だか和明さんに隠し事してた風だし」

「そんな事ないよ」

「私と大事な話があるってデート止めちゃったんでしょ?」

「だって久美子大事な話があるっていったじゃない」

「そうだけどデートの中止とかじゃないじゃない。私知らなかったし」

「・・・・・」

 マキは割りと的を得ていた久美子の言葉に少し慌てていた。






     △






「ありがとう。助かった。今日はバス乗りたくなかったんだよね」

 久美子はマキに自宅まで送って貰っていた。

「あれ?あなた車で通ってるんじゃなかったの?」

 車は本牧通りを走っていた。

「そうだったんだけど、4月から会社の駐車場使えなくなっちゃったのよ」

「何で?」

「人増えたし、来客用とか遠い社員優先とか。駐車場借りてもいいんだけど高いじゃない。勿体無いもん。」

「そうなの」

「近いからいいんだけどね。飲む時車気にしなくても良いし」

「・・・・・」

 マキは笑っていた。


「寄る?」

「ううん、今日は帰るわ」

 マキは車を久美子のマンションの前に停めていた

「そう、じゃあね、ありがと」

「じゃあね」

 車を降りた久美子から視線を戻そうとした時、駐車場に停めてある一台の車がマキの目に入った。

(北九州ナンバーって・・・九州かしら・・・珍しいわね・・・誰か越して来たのかな・・・)

 マキはそれ以上の関心は示さず、車を走らせる為に一度バックミラーを見た。

 涼介が小倉に在る北九州支店に転勤になっていた事をマキは知らなかった。それ故に駐車場に停まっている北九州ナンバーのBMWと涼介を繋げる線は無かった。






     △






 本社2階の大会議室でレセプションが催されていた。

 4月9日の金曜日、集まった人達はそれぞれにグラスを傾け、思い思いに食事を愉しんでいた。

 レセプションは各部署の役職のみが参加し、立食形式で催され、新入社員と本社勤務となった社員の歓迎会、取引業者との懇親会、会社の年度経営計画発表を兼ねていた。


「総務大変だろうな」

 飯田が隣に居る涼介に言った。

「こんな大掛かりだったかな」

 涼介はそう言ってビールを飲み干した。

 レセプションは一段落付いていた。新しい顔の紹介やプロジェクターでの経営方針発表など、親睦を深めるにあたって外せないプログラムは全て終了し、場内では総務部が考えたアトラクションが始まっていた。

「お疲れさん」

 久保田は会場の隅で飲んでいる飯田と涼介の姿を見付け、笑顔でその二人に加わった。

「お疲れさんです」

「ご苦労様でした」

 二人は久保田に挨拶を返した。

「結構突っ込まれてたね」

 右手に水割りを持つほろ酔いの久保田は気分が良さそうだった。

「ええ、もういつもの事ですよ。弄られるのも慣れました」

 レセプション前半に有った個人紹介の時、涼介は上司や先輩から仕事振りやプライベートについてかなり際どく突っ込みを入れられていた。

「佐久間、昔から年上の受け良いもんな。ねぇ部長」

 涼介にずっとそうして来ていた久保田を知っている飯田は水先を変えた。

「まあ、そういう所はあるな」

 久保田は本当に気分が良さそうだった。

「北九州でもゆっくり飲んでられなかったですもん、“佐久間あー!佐久間は何処だあー!”って」

 涼介は三人を包む雰囲気に戯けながらそう言った。


 輪の中は昔話に花が咲いていた。

 会場には何かのゲームで勝った人の奇声が飛んでいた。仕事の終えた社員達も集まり始めていた。

「部長!お疲れ様ですっ!」

「おう、お疲れさん」

 久保田はその声に振り向いて二人に笑顔を見せた。

「お疲れ様です」

 輪に加わった後に落ち着いて挨拶をした久美子は最高の笑顔を見せていた。

「今帰って来たのか?」

「はい、打ち合わせ長引いちゃって」

「そうか・・・まあ飲め。乾杯しよう」


 涼介の回りには久美子と竹下を加えた五人の輪が出来ていた。

 会場では恒例のビンゴ大会が始まっていた。

 三人は程好く酔っていた。

「室長、部長、こいつら同期なんですよ。厳しく育ててやって下さい」

 久保田が真顔で言った。

「・・・飯田、宜しくな」

 涼介は久保田の“振り”をそう流した。

「お前ら久保田部長に迷惑掛けんじゃねぇぞ。竹下、分かってんな」

「はいっ、分かっておりますっ」

「ははっ、飯田、お前舐められてんぞ」

 涼介は笑っていた。

「竹下、お前、そういう所からだぞ」

 飯田も笑っていた。

「・・・部長、これから何処か飲みに行くんですか?」

 久美子は三人の話を他所に、久保田に話し掛けた。

「いや、その予定はないよ」

 久保田は三人のやり取りを見て笑っていた。

「部長、何処か連れってって下さい!室長、飯田部長、連れてって下さい!」

 久美子は久保田にそう言った後、二人に煌くような眼差しを向けて強請った。

「・・・俺は家で母ちゃんが待ってるから帰るけど、飯田、連れてってやったらどうだ?どうせ佐久間と飲みに行くんだろ?」

「佐久間、どうする?」

「良いんじゃないか」

「そっか、なら決まりだな」

「やった!良かった!竹下君、行くわよっ」

 久美子は竹下の腕を掴んで揺らしていた。

「全然OKですっ」

 揺れながら答えた竹下は、久美子のそんな行動に照れていた。

 竹下は同期入社の久美子の事が好きだった。レストラン勤務の久美子とずっと店舗管理課だった竹下は話す機会が殆ど無かったが、久美子の移動によりその距離は文字通り接近し、久美子の天真爛漫さに触れ、恋心を芽生えさせていた。

「室長、本牧にしませんか?落ち着いて飲める場所があるんです!」

 久美子はまだ竹下の腕を両手で掴んでいた。

「本牧?」

「そう言えば佐久間、お前また本牧にマンション借りたらしいな」

 飯田は思い出した事を会話に挟んだ。

「えっ!室長本牧なんですか?」

「そうだよ」

「本牧のどの辺りなんですか?」

「一丁目だよ」

「えっ!私も本牧一丁目に住んでるんです!」

 久美子の瞳は煌いていた。

「へえーだからその辺りの美味しい店を知ってる訳か」

「はいっ」

 久美子は涼介との奇遇に胸を躍らせ、声を弾ませていた。

「そっか。じゃ本牧にしようか」

 涼介はこの後の予定を久美子に任せた。


 ビンゴゲームの数字を叫ぶ声が会場に響いていた。

 仕事を終えた社員が三々五々集まっていた会場は、人が増えた分盛り上がりを見せていた。

「・・・じゃぁ俺は帰るよ」

 流れが決まる頃合いを久保田は見計らっていた。

「お疲れさまでした」

 涼介は久保田に軽く頭を下げた。

「戦略企画室室長、企画開発部部長、二人を宜しくお願いします・・・お前ら会社のトップ二人と飲める機会なんてそうざらに無いんだぞ。俺に感謝しろよっ、はははっ、お疲れさん」

 酔いも手伝っている久保田は態と慇懃に飯田と涼介に頭を下げ、自身の助演に満足している態度を部下へ向けた。

「ありがとう御座います!」

「あざっす!」

 二人は歩きながら手を振る久保田の背中に頭を下げた。

「・・・お前達ちょっと待っててくれ。佐久間ちょっと・・・」

 飯田は立ち去る久保田に会釈をした後、涼介の肩を抱き二人から少し離れた場所に歩いた。

「ちょっと電話に出てくれ」

 プッシュし終わった自分の携帯を飯田は耳に付けていた。

「誰だ?」

「上さんが煩いんだよ、一本連絡入れとかなきゃ」

「ふっ、了解」

「“新しい室長”から誘われてるって事だと、ウチのやつも許してくれるだろうしな・・・ああ、もしもし・・・」

 飯田は笑っていた。

「・・・ああそうだよ。それじゃあ新しい室長と代わるから。失礼の無い様にな」

 そう言って飯田は携帯を涼介に渡した。

「どうも初めまして・・・いえいえ奥さんこちらこそ・・・飯田とは昔からの付き合いで・・・ええ、心配ないですよ・・・」


「最高だな」

 電話を切った飯田は涼介にそう言った。

「いい様に使ってくれるよな」

「当たり前じゃんかさ。今度野毛行こうぜ、良いオカマBARがあるぞ。これから“室長”どんどん使うからな」

「ははっ、了解だな・・・竹下、彼女が待ってるなら連れて来てもいいぞ」

「えっ!?室長それは無いっす」

 竹下は涼介の問い掛けにそう答え、場の空気に自分を溶け込ませる久美子の能力に関心していた。

「山崎、会社の友達誘ってもいいぞ」

 涼介は久美子の持つ社交性や、状況を打開して自分の思う方向へ持って行く意思の強さに岡部恭子を思い出していた。

「はい、あーでも、もう誰も居ないと思います」

 久美子は気さくな涼介に触れる度、そして同じブロックに住んでいるかもしれないという奇遇も手伝い、近い将来必ず二人で食事に行く事を恋心に命じていた。






     △






 タクシーから見える本牧通りには背の高いビルが増えていた。

 竹下が前に乗り、久美子は飯田と涼介に挟まれていた。

「運転手さん、あそこを左に曲がって下さい」

「・・・・・」

 久美子の声を聞いた涼介の心は、まだ自身の予測を否定していた。


「ここか?」

 涼介はタクシーが停まった場所の右側に見える暖簾を見つめていた。

「はい“司”って言います。ここの掻き揚げとキンキの煮付け最高なんですよ」

 久美子は嬉しそうにそう答えた。


 檜の引き違い戸は相変わらずだが、その建て付けや暖簾は真新しい輝きを放っていた。

 涼介は自宅の筋向いにある“司”に未だ顔を出していなかった。それは11年前、マキとの最後の食事となった日から暖簾を潜っていない事を意味していた。

 涼介は顔を出せなかった。大切にし過ぎてしまったマキとの想い出を紐解いた時、目の前に現れる事実を笑い飛ばす心の準備が曖昧なままだった。そんな自分をつまらない野郎だと思っていた。願っていた環境が整ったにも拘らず、勇気を持って前へ踏み出せない自分をぬるい男だと思っていた。

 マキに対しての自虐から抜け出せず、それがどんな真実であろうと、その真実が白日の下に曝される事を涼介は何処かで恐れていた。それ故涼介はあの時と同じ様に能動的に情熱を曝け出す事を美しいとせず、不埒な美学を貫く準備はしていた。その事が計り知れない代償となって苛まれ続けた事も過ぎた事として済ませ、また新たなる代償に苛まれるかもしれない準備はしていた。

 涼介は愛する人に対する直情的で無骨な行動を取らなければならない時に、未だ自分を愛する事を好きでいたい感情に身を委ねていた。






     △






「いらっしゃい!おっ、久美ちゃんいらっしゃい!」

 入り口の戸が引かれた音に直ぐ声を上げた板さんは、久美子の姿を見てそう言い直した。

「こんばんわっ」

「いつも元気だねぇ久美ちゃんは」

「板さんこそ」

「今日はどっちだい?・・・はい、いらっしゃい!」

 カウンターか座敷かを聞きたかった板さんは、久美子の後に続く人影にそう声を掛けた。

「皆な一緒なんで座敷いいですか?」

 久美子は一度振り返り、左腕を後ろに伸ばしてそう言った。

「はいよっ、何人だい?」

「四人です」

「座敷4名入るよっ、作っとくれっ!」

 板さんはそう言って包丁を握り直した。


「・・・どうも」

「はい、いらっ、おおっ!」

 魚を捌いていた板さんは、目の前に届いた少し低い声に顔を上げ驚いた。

 タクシーの支払いを済ます為に暖簾を潜る事が皆なより少し遅れた涼介に板さんは気付いていなかった。

「お久し振りです」

「おーっ!あんた佐久間さんじゃないか!久し振りだねぇ!」

 板さんは手を止め、相好を崩した。

「ほんとご無沙汰してすいません。変わらないっすね板さん、元気そうだし」

「あんたも元気だったかい!ほんと久し振りだねぇ!」

 カウンター越しの会話は店内に響いていた。

「まあ何とか」

「男振り上がったねぇ。見違えたよ」

「そんな事ないですよ・・・板さんは相変わらず若いですね」

「板さん!佐久間室長の事知ってるんですか!?」

 座敷に上がっていた久美子は、聞こえて来た会話に驚いた顔をしてカウンターに戻って来た。

「知ってるも何もあんた・・・久美ちゃんのお連れさんかい?」

「えっ、はい。ウチの新しい室長で北九州から戻って来たんですけど板さん、室長と・・・」

「昔よく来てたんだよ」

 久美子の勢いにキョトンとしていた板さんに涼介が助け舟を出した。

「そうだったんですか!」

「ああ、壁に杉板貼ってた日本家屋の時だけどな」

「そうなんだよ久美ちゃん・・・それであんた佐久間さん、北九州って、九州かい?」

 板さんは二人の顔を交互に見ながらそう聞いた。

「そうです。福岡県です」

 涼介が答えた。

「おーそうかいそうかい。そんなに遠くに行ってたのかい」

「ほんと遠いですよねぇ」

 話に割り込んだ久美子は板さんと同じ様に二人を交互に見ていた。

「もう10年ぐらい経ちましたね」

「そんなになるかい」

「10年も前ですか!?」

「ああ・・・ずっと顔出してなくてすいませんでした」

 涼介は久美子に向って頷いた後、板さんに頭を下げた。

「何言ってんだいあんた!・・・しかし嬉しいねぇまったく」

「・・・・・」

 久美子は板さんの声に釣られて笑顔を見せていた。

「またこれから使わせて下さい」

「はははっ!あいよっ、おーい、奥案内して!」


 3年前、マキの横浜支社転勤の後、久美子はマキに連れられて初めて“司”の暖簾を潜っていた。仕事の取引きが増えるに連れ“司”を二人で利用する回数も増えていた。当時久美子はまだ根岸の実家に住んでいた。今のマンションに住む事になったきっかけは、一人暮らしを始めたいとする久美子の相談を受けていたマキの進言に因る所が大きかった。

 板さんは久美子とマキが姉妹だという事を知っていた。二人はカウンターで飲む事も多く、二人の愚痴に付き合う事も手伝い、過去や近況にも多く触れていた。


「山崎、いつから此処を使ってるんだ?」

座敷に上がる前に涼介が聞いた。

「良いお店があるよって姉さんに言われて、3年ぐらい前かな?その時から結構此処で飲んでます」


 恵比寿の寮に住んでいた時のマキは“司”で疲れを癒す事は無かった。横浜に戻って以降、久美子や同僚と頻繁に訪れる様になっていた。

“司”の存在はマキにとって唯一涼介と再会出来るかもしれない心の拠り所だった。涼介の近況がどうあれ、マキは涼介と同じ会社に勤め始めた久美子の存在に因って文字通り“司”を拠り所としていた。

“司”の目の前で始まったビルの建築が賃貸マンションだと知ったマキは、そこを新居とする事を久美子に強く勧めていた。拠り所の周辺に身近な人間が居る事で幾許かでも涼介との再会の可能性が上がると信じていた。

 マキは昨年の秋に一度だけ、和明の車に流れていた曲に涼介を思い出し、その日のデートで利用した事があった。しかしそれ以降は再び和明と訪れ様とはしなかった。マキにとって“司”に和明が介在する事は和明への冒涜であり、自身の期待に対する不都合でもあった。


「じゃあ生を4つお願いします。後、取り合えず・・・」

 久美子はお絞りを持って来た女性に注文していた。

 飯田と竹下はお品書きを見ていた。

 涼介は煙草を吸いながら何もかもが新しい“司”の佇まいを見渡して“あの頃”の記憶と残像を脳裏に浮かべていた。


「あ、もしもしお疲れです・・・」

 一品の注文をしている竹下の横でI phoneをチェックしていた久美子は、受信していたメールの一つに電話で折り返していた。

 「・・・そう、それは来週打ち合わせする予定よ・・・えっ?・・・そう・・・今から食事・・・まだ仕事中なの?あっ、ちょっと待って、その件なら今ね、隣に飯田部長居るから」

 久美子は話しながら飯田の顔を見ていた。

「飯田部長、AADの山崎マネージャーと鎌田さん呼んでもいいですか?」

「電話姉さんだったのか。ああ良いよ呼びな」

「仕事の話、ちょっと出るかもしれませんけど大丈夫ですか?」

「大丈夫も何も呼びたいんだろ?それに担当お前じゃないか。竹下も居るし。じゃんじゃん仕事の話やれよ」

「分かりました。有難う御座います・・・姉さん飯田部長が絶対来いって!一緒に飲みましょうって!」

 久美子は塞いでいた送話口から手を離し、許可が出る事を想定していた笑顔と口調で話していた。

「山崎はそういうとこのセンス有るよな。竹下見習えよ・・・山崎、代わろうか?」

 飯田は竹下の苦笑いを見た後、久美子に話し掛けた。

「あ、はい・・・姉さんちょっと待ってね」

 久美子は飯田に電話を渡した。

「・・・どうもいつもお世話になってます・・・いえいえ・・・はい・・・今日のレセプション居られなかった様ですし来ませんか?一緒に飲みましょう・・・はい、そうです・・・すいません、ちょっと宜しいですか?担当の竹下が何か伝えたい事が有るそうなので」

「えっ!?・・・あ、もしもし、はい、お世話になってます・・・はい・・・えっと、来て下さい・・・あの・・・あっ!」

 飯田の強引な振りに焦った竹下は話の途中でまた焦った。

「もしもし・・・はい、新しい室長も居られますし、紹介したいので是非入らして下さい・・・はい、本牧の“司”で御座います・・・そうですね、それではお待ちして居ります」

 運ばれて来た生ビールを各人の前に置いた後、話していた竹下から電話を奪った久美子は態と丁寧過ぎる口調で話し、皆の笑いを誘っていた。






     △






「・・・・・」

 電話を切った後、マキは唖然としていた。

「どうしたんですか?」

 鎌田が聞いた。

「長谷川物産の飲み会に参加するわよ」

「えっ!」

「新しい室長と飯田部長、竹下さんと久美子だって」

「マジですか」

「絶対来いって」

 久美子と鎌田はデスクを挟んでお互いの顔を見合っていた。






     △






「それじゃ室長、音頭を」

 飯田が言った。

「皆お疲れさん。竹下頑張ろうぜ。じゃ乾杯」

「乾杯っ!」

「お疲れさんですっ!」

 卓の中央に差し出された四人のビアグラスは二、三度音を立て、それぞれの元へ戻って行った。

「あーっ、美味いっすね!」

 竹下は一気に半分程飲み干していた。

 久美子は笑顔を見せ、飯田は満足そうだった。

「山崎って結構やるんだな」

 涼介は場の空気を華やかにさせている久美子や竹下を気に入っていた。

「山崎のお陰で意外と取引き上手く行く事が多いんだよ、マジで」

「ああ、分かるよ」

「そんな事無いです、私は先輩達に助けられてるだけです」

 涼介に言った飯田の評価に久美子は恐縮を挟んだ。

「竹下、良いチームだな・・・そう言えば山崎、さっき姉さんって言ってたよな」

 久美子と竹下の姿に涼介は北九州支店で3年間共に働いた恭子と広山を思い出し、何か蘊蓄を傾け様としていたが、折角の宴席で二人に緊張を強いてしまうだろう重い話を咄嗟に避け、座の空気を雑多な世間話に機転した。

「はい。取引先に勤めてるんです」

「取引先?」

「AADでクリエイティブ・マネージャーやってんだよ」

 涼介の意図を読んだ飯田はそう補足した。

「AAD?」

「オーセンティック・アドバタイズメント・デザインです。山崎クリエイティブ・マネージャーは元町店リニューアル担当なんですよ、な、山崎」

 話に加わった竹下は澄ました顔で久美子を見ていた。

「・・・そういう事か」

 涼介は情報の整理を続けた。

「はい。社名長いから皆AADって言ってます・・・でも室長、姉妹だからって仕事を妥協したりはしませんよ。そんな事したら久保田部長に怒られますから。だから安心して下さい。ね、竹下君」

 涼介が振ってくれた話題に妙味を感じた久美子は、涼介との会話を増やす事を目論み、自分をより深く知って貰う事に機転した。

「そうですね」

 竹下は涼介の顔を見ていた。

「飯田部長にもけじめは付けろよって言われてますし・・・室長も私が何か変だったらどんどん叱って下さい。この前の会議の時の室長凄かったし、言う事を聞いとけば間違いないって思ったし、尊敬したし、格好良かったし・・・」

「おいおい山崎、その目は何だ?」

 語尾を濁した久美子の上目遣いに飯田は突っ込んだ。

「・・・正直、室長がどんな女性に興味あるのか気になります」

「へぇー・・・佐久間、お前山崎に手を出したら結婚だぞ」

「マジっすか!室長はそんな公私混同はしませんよね?」

「飯田も竹下も、それに山崎も飛ばし過ぎだぞ。まあ、徐々にやって行こう」

 涼介は久美子の話を他愛も無い世間話として流そうとしていた。

「・・・・・」

 久美子は冗談なのか本気なのか分からない曖昧な笑顔を見せていた。

 レセプションに加わった後の流れは久美子の筋書き通りだった。宴会の席ではさり気無く涼介の事を好きだと周知し、涼介という天守閣を落とす為の援軍を募り、本丸の外堀を埋める画策を機を見て実行していた。

「姉さんもきっと室長見たら好意を抱くと思うよ」

 久美子は曖昧な輪郭を更にぼんやりと印象付ける為に敢えて竹下にそう言った。

 飯田と涼介は笑っていた。

 竹下はにこやかな顔で2杯目の生ビールを注文しようとしていた。

(どんな人なんだろう・・・)

 涼介は極自然に久美子の“姉さん”という言葉に再び反応した。

 当然涼介はマキが新卒で入社した会社を知っていた。しかし目の前に差し出された情報だけでマキと久美子を結び付けるのは余りに好奇過ぎ、飛躍し過ぎだと思い込んでいた。

「室長、もう一杯頼みますか?」

 マキの参加は想定外だったが、久美子はそれを巧みに利用してマキにも役割を担って貰う算段を始めていた。

 無血開城を理想とする久美子にとって、内堀を埋める為の参謀としてマキは最高の存在であり、切り札だった。






     △






(どんな人なんだろう・・・)

 移動中のタクシーの中でマキは考えていた。

 マキは上司に恋をしてる久美子の行動に本気を悟り驚愕していた。それは同時に新しい室長が一体どれ程の人物なのか単純に知りたい好奇心と、久美子の為に冷静に洞察し分析したい探究心を抱かせていた。

「ごめん、ちょっと・・・」

 マキはそう言って口元で人差し指を立てた後、隣に座る鎌田に恐縮の目を向け電話を掛けた。

「・・・もしもし・・・うん、お疲れ様・・・」

「・・・・・」

 黙している鎌田は、以前から気になっていた久美子と一緒に飲んでいる絵を想像していた。

「うん、そうなの・・・まだ掛かりそうなの・・・駄目よ、明日の朝早いんでしょ?・・・」

 マキは今夜会う事になっていた和明にキャンセルの電話を入れていた。

「・・・私も明日早いのよ・・・そう、休みだけど・・・ううん、実家に行くの・・・」

 今夜いくらマキの仕事が遅くなっても平気だと言う和明をマキは柔らかく説得していた。






     △






「はい、いらっしゃい!」

「・・・こんばんわ」

「おっ、いらっしゃい!」

 ストーブに乗せた鍋の油に目を落としていた板さんはマキの姿を見て少し驚いていた。

「久美子奥ですか?」

「居るよっ・・・そちらはお連れさんかい?・・・はい座敷2名入るよっ、久美ちゃんの卓に案内してっ」

 板さんは上機嫌だった。


「あ、来たかも」

 久美子は座敷まで聞こえて来た板さんの“久美ちゃん”の声に反応した。


「・・・・・」

 マキは板さんに軽く会釈して歩き始め、鎌田も続いた。

「今夜は好きなお客さんばかりで嬉しいねぇ・・・はいお待ちっ」

 二人の姿を笑顔で見送った板さんは割と大きな声で独り言を喋った後、カウンターのお客さんに掻き揚げを出した。


「姉さんお疲れ」

「あ、お疲れさん」

「鎌田さんどうもお疲れ様です」

「お疲れ様です」

 鎌田とマキを迎え入れ様とした久美子は座敷に上がる縁台で二人に会い、それぞれ挨拶を交わした。

「こっちよ」

 そう言った久美子に二人は少し緊張の面持ちで付いて行った。


「来ました」

 障子を開け、そう言った久美子の声に全員立ち上がった。

「・・・こんばんわ」

 マキは笑顔を向けた。

「ああ、どうもこんばんわ。お仕事大変そうですね」

 飯田は歓待の表情を浮かべ、マキに近づいた。

「いつもお・・・世話に、なって・・・ます・・・」

 マキは辛うじて最後まで喋った。


 衝撃が胸を熱く貫いていた。

 鼓動が全身に痛い程響いていた。

 驚愕に締め付けられた身体は動かなかった。

 呼吸を止められ、声を忘れていた。

 瞳に映る時間だけが物凄くスローで動いていた。

 マキは再び恋に落ちていた。

 あの日の朝に感じた予感が紛れも無く脳裏に甦っていた。


「・・・・・」

 マキは飯田が差し出した手に両手をぎこちなく差出し、握手をしていた。

「姉さん」

「えっ、あ、はい」

 久美子の声にマキは我に返った。

「こちらが新しく着任された戦略企画室、佐久間室長です」

 マキは見開いた瞳を元に戻す事を忘れていた。

「・・・どうも。佐久間涼介です」

 マキの下へゆっくりと近付いた涼介は右手を差し出した。

 涼介は久美子の後に入って来た女性を見た時、身体が一瞬後ずさっていた。

 何をどうすればいいのか分からない感覚に支配されていた。瞳に取り込み続けているその姿に、呼吸を乱さぬ事を考えるだけで精一杯だった。

 

 あの日の“司”以降、涼介は恋愛という、人間にとって必要不可欠な領域を泳ぎ回り、どんな時でも自分だけが溺れない場所を選び続けていた。愛情の本質など知る由も無く、しかし身体中から愛情の本質が溢れていた時代を思い出させてくれたエリカにさえ背を向けていた。

 涼介は本質に戻る為に女性を傷付け続けていた。

 たった一つの理想を守る為に他の全てを傷付けていた。

 譲れない理想が目の前に立っていた。

 本質そのものが抱きしめられる距離に居た。

 涼介はあの日の朝と同じ様に、一瞬にして恋に落ちていた。


「・・・あ、どうも・・・山崎マキです」

 涼介の右手を握り返したマキの両手は微妙に震えていた。

「室長、こちらがオーセンティック・アドバタイズメント・デザイン、営業統括クリエイティブマネージャーの山崎マキさんです」

「宜しくお願いします」

 涼介は選ぶ言葉を迷っていた。

「室長、それとさっき言ったんですけど改めて、私の姉です」

 久美子は照れてるかの様な振る舞いで少し声を抑えていた。

「そうですか、お姉さんですか」

 涼介は迷いながら、今後この場でマキに対して見せるべき態度を探っていた。

「はい・・・初めまして」

 マキは乱打する鼓動を抑えられないまま、久美子の言った“姉”という言葉に切なくも気丈に反応していた。そして姉としての現実を直視する事を選ぼうとしていた。

「そしてこちらが同じく鎌田さん。姉と一緒に今回の元町リニューアルを担当して頂いてます」

「初めまして。宜しくお願いします」

 涼介はそう言って鎌田と握手をした。

「失礼します」

 障子を引く音がした。

「お、ビール来たぞ。さ、硬いのはこの辺にして乾杯しよう」

 場は飯田の一言でそれぞれ肩の力が抜け、一気に緩やかになっていた。

 二人は辛うじて平然を装っていた。若気の至りでは済まされない、あの当時より少しだけ理性的になった二人がそこには居た。しかし二人はその大人故の判断が正解だったのかどうか懐疑の心も燻らせていた。直情的に思い切り抱き合っていた方が、その正否が瞬時に分かっていたかもしれなかった。

 マキはもう一度涼介に会えたのなら、二度と離したくないという強い思いを事有る毎に反芻していた。しかし同時に涼介との間には余りに長過ぎる歳月が流れている事を懸念していた。それはマキの意識に未知への不安と現実逃避出来ない潔さも介在させ、涼介との再会を周知させる事で逆に今後味わうかもしれない決定的な落胆の回避をマキに選ばせていた。

 涼介は最初に言葉を交わした時ではない“初めまして”にマキの意思を悟り、この後の流れを心に落としていた。そして初対面を装う事を選んだマキに、諸手を挙げて喜べない現実が介在する事を垣間見て少なからず落胆していた。それがお互いの近くに居る人に掛ける迷惑を考えての行動だとしたら、今後直視せざるを得ない現実が想像以上に胸を押し潰して行くだろう事を覚悟していた。

 劇的に再会した後の二人の対処はぬるい行動かも知れなかった。しかしそれぐらい二人は、二人の真実から遠ざかっていた。


「それじゃ山崎、あ、ウチの山崎ですよ、今度はお前が音頭取れ」

 座に戻った六人は飯田の声でビアグラスを持ち上げた。

「えー、じゃ、ウチの山崎が音頭取ります。えへっ・・・それではADDさんと長谷川物産が今後も良きパートナーとして仕事が出来ます様に。それと姉さん元町店リニューアル宜しくねっ。乾杯!」

 久美子は若干の酔いも手伝い、茶目っ気を出していた。

「美味いすねっ!」

「美味いっ!」

 竹下はまた一気にグラスの半分を空け、卓の真向かいに座る鎌田も声を上げた。

「美味し」

 弾ける笑顔の中で、マキだけが作り笑顔の様な表情を浮かべていた。

 六人は座敷の上座から涼介、久美子、鎌田と座っていた。卓を挟んだ上座には飯田が座り、竹下、マキと続いていた。

「鎌田さんと飲むのは初めてですね」

 乾杯の後、隣に座る久美子はそう声を掛けた。

「そうですね・・・会う事自体、かなり前に二、三度打ち合わせして以来ですから」

「えっ?打ち合わせした事有りましたっけ?」

「ええ、可愛い人だなって思ってましたよ」

 久美子の“掴み”的会話に、鎌田は空気の読めない芸人の様に前掛かりになっていた。

「あら、そうだったんですか・・・竹下君、何か食べ物注文しようよ」

 久美子は分かり易く扉を閉めた。

「・・・そうね、銀杏の串焼きと平目の刺身と・・・鎌田さんは何が良いですか?」

 竹下とお品書きを見合っていた久美子は閉めた扉を直ぐに開けたが、ドアノブから手を離さなかった。


 会話はまだ過去の仕事をなぞる事に終始していた。座は久美子が中心となって話が進んでいた。皆は座の空気を壊さぬ様それぞれ気を使っていた。

 涼介は穏やかな笑顔で相槌を打つ事が多かった。涼介と対角の位置に座るマキは皆から振られる話題に笑顔を置いていた。

「室長、こういう場で飲まれる時はいつもそんな感じなんですか?」

 久美子は座の流れを変え様と試みた。

「そうだな、まだ余り酔ってないからな」

「飯田部長、室長って酔うとどんな風になるんです?」

 久美子は涼介の話もそのままに質問の矛先を変えた。

「佐久間はいつもこんな感じだよ。ま、でも、エロ面白いやつかな」

「何だよそれは」

「泣いたり喚いたり眠ったりするやつじゃ無いって事だよ」

「そうなんですね」

「どうした?興味あるのか?」

「えっ!?いえ、色々噂が入ってましたから」

 飯田に突っ込まれた久美子は予め話題にしようと思っていた話を振った。

「ほう、どんな?」

「冷たくて厳しくて、何を考えてるのか分からない難しい人だって・・・すみません、こんな事言って」

「ははっ、どうなんだ佐久間、割と当たってんじゃないか?」

「ははっ、そうだな」

「飯田部長って、全然イメージ違いますね」

 レセプションに合流して以降、飯田が見せている一挙手一投足の感想を竹下が挟んで来た。

「そうそう、私もそう思った」

「そうか?もっと陰険なやつだと思ってたか?」

「・・・愉快な人だ、って」

 少し考えた竹下はそう言った。

「愉快ってお前、俺の事馬鹿にしてるだろ」

「えっ!とんでもないっすよ」

「尊敬出来ないんだよな、竹下」

「いえ、そんなつもりで言ったんじゃ無いです!」

 涼介の突っ込みに竹下は慌てた。

「そういう所だぞ竹下、山崎見習え」

 飯田が更に突っ込んだ。

「・・・またっすか」

 座の全員が笑っていた。

 久美子の狙い通り、流れは確かに変わっていた。

「・・・何だか姉さんいつもと様子が違うよ。体調でも悪いの?」

 皆と一緒に笑っていた久美子は、斜前に座るマキの振る舞いに“らしさ”が見えない事が気になっていた。

「そんな事ないわよ」

 突然投げられた久美子の言葉にマキは少し焦っていた。

「そう?ならいいけど。何だかちょっと重そうだもん、身体」

「お腹空いてるのに急に飲んじゃったからかも・・・でももう大丈夫よ、結構食べたから」

 マキは姉妹故にいつもと違う雰囲気を敏感に察知されたのか、座の全員がそう感じている事を久美子が代弁しただけなのか、どちらにしても自覚しているぎこちなさが涼介に変な誤解を与えていないか心配だった。

「じゃあ黒ビール頼んじゃう?いいんでしょ?そっちの方が」

「そうね、そうしようかな」

 久美子に再び顔色を伺われて座の雰囲気を壊す事が無い様に、マキはいつもより酔う事を選んだ。

「山崎、俺も黒宜しく」

 二人の会話が耳に届いていた涼介は三杯目の生ビールを飲み干し、そう言った。

「室長も黒好きなんですか?」

「ああ、最近は黒スタートが多いかな」

「そうなんですか。姉さんと同じですね」

「・・・そう言えば名刺交換してませんでしたね」

 久美子との雑談できっかけを得た涼介は、乾杯以降会話の無かったマキにそう話し掛けた。

「あっ、そうですね、失礼しました」

 マキの挙動は明らかに可笑しかった。壁際に置いてあったPRADAのトートバッグに慌てて近づき、手荒にバッグを弄り始めた。

「・・・・・」

 マキが名刺を探している間に歩み寄っていた涼介は、マキの様子を伺いながら両膝を畳に付けて待っていた。

「今後とも宜しくお願い致します」

 探し出した名刺を手に向き直ったマキは急いで頭を下げた。

「こちらこそ。・・・黒ビール好きだったんですね」

「えっ?はい・・・」

「ウチの竹下と山崎を鍛えてやって下さい」

 そう話しながらYシャツのポケットから名刺入れを取り出し、ゆっくりと名刺を抜き取って渡した。

「いえいえ、とんでもないです。私の方が色々教えて貰ってます・・・」

 マキは涼介の行動に、否応無しで名刺入れに目を向けさせられていた。

「・・・ああ、これですか。もう10年以上使ってるんですよ。ボロボロになっちゃったけど愛着があるんでこれからもずっと現役でしょうね」

 涼介はある意味強引に、少しだけ芝居掛かった物言いでLouis Vuittonのモノグラムをマキに見せた。

「・・・・・」

 マキは涼介の手の中に有る名刺入れを強い眼差しで見つめていた。

「当時付き合ってた彼女から誕生日に貰ったんです」

 何処か遠くを懐る様な、しかし雑談の域を超えないような口振りで涼介は言った。

「・・・そうですか」

 付け加えられた言葉でマキは鮮明に当時を思い出した。

「愛着ある物が傍に有るとリラックス出来るんですよね。大切な商談でもこれが目の前に有ると緊張しないんですよ。山崎さん、今日は僕と初めて会って緊張されてる感じが見受けられるんですが、もう座も進みましたし、皆と同じ様にいつも通り大いに愉しんで下さい。何かあれば僕がフォローしますので」

 涼介は穏やかにそう告げた。

「・・・はい、ありがとう御座います」

「・・・・・」

 涼介は笑顔を残し、自分の座へ戻って行った。

 他の四人は盛り上がっていた。

 丁々発止、鎌田と久美子は笑顔で渡り合っていた。飯田と竹下はそんな二人のとばっちりを受けていた。

「美味しい・・・」

 マキはいつの間にか座に置かれてあった黒ビールを飲みながら、優しくも気障を携えて助けに来てくれた涼介に感謝し、あの頃と変わらない懐かしい語り口に、あの頃とは違う愛情を感じていた。

(名刺入れまだ持ってたなんて・・・)

 マキはそう思いながら何気なく涼介を見た。

「・・・・・」

 涼介は視線をマキに預けて待っていた。そして誰にも気付かれぬ様に穏やかな眼差しで小さく頷いた。

 盛り上がる座の中で、ほんの一瞬だったが二人は充分に見つめ合っていた。そして今夜マキが大切にしたものと、涼介がずっと大切にしているものを二人は理解し合えていた。


「鎌田さんに冷酒行きますか?」

「・・・ね、久美子、佐久間室長って何処から着任したの?」

「竹下、お前達の名刺には携帯番号印字されてるのか?」

「山崎マネージャーは元々デザイナーだったんですよね?」

「小倉の次が博多よね?」

 六人はそれぞれ会話を交わしていた。

 座には愉しさに加え心地良い落ち着きが訪れていた。

「分かりますか?小倉って。地元なんですけど、ちょうど3年間かな、飛ばされてまた戻って来たんですよ」

 流れの中で涼介は笑いながらマキにそう説明した。

「室長、ウチの広告やグッズのデザイン、最近はほとんどAADさんに頼むんですよ」

 淡々と続いているマキと涼介の会話に久美子は新たな話題を差し込んだ。

「僕の部屋からAADさんのビル、見えますよ」

「そうですか・・・打ち合わせがやり易くて助かってます」

「本社は・・・恵比寿でしたよね?」

「そうです」

「若い頃、恵比寿よく行ってましたよ」

「遊びにですか?」

 久美子が茶茶を入れた。

「仕事だよ。なあ飯田」

 涼介は東京で仕事が有る時に、遠回りをしてでもマキの住む恵比寿の街並みを抜けていた事を懐かしんでいた。

「姉さんもずっと恵比寿だったんですけど、3年前横浜支社に移動になったんだよね」

 久美子は座に向けた話の最後をマキに語り掛けた。

「そうだったんですか」

「栄転ですよね、マネージャー」

 自分のグラスに冷酒を注いでいる鎌田の声は酔っていた。

「そんな事無いよ、地元だからよ」

「竹下、結婚するなら山崎マネージャーの様な女性にしろよ」

 飯田が澄ました顔で弄った。

「いや、僕は・・・」

「何だ、ウチの山崎の方が好きって事か?」

 今夜初めて飲む竹下を気に入った飯田は、終始楽しそうに絡んでいた。

「部長、勘弁して下さい」

「山崎さんは竹下さんを好きなんですか?」

 自嘲気味に、しかし急角度で鎌田はそう切り込んだ。

「えっ!?」

「さっきからお二人を見てると仲が良いんでちょっと焼けちゃうんですよね。竹下さんは絶対好きですよね?久美子さんは?・・・」

「鎌田君」

 マキが窘めた。

「あ、ごめんなさい」

「鎌田さん、そんな事無いですよ。いつも一緒に仕事してるんでそう見えちゃうだけですよ、ねえ竹下君」

 久美子は涼介の手前、少し焦っていた。

「山崎」

「はい」

「すいません、ウチの山崎です・・・AADさんとの取引はいつ頃から始まったんだ?」

 意外と大きな声で二人同時に返事をした事で涼介はそう言い直し、少し張り掛けた空気を強引に変えた。

「えっと・・・姉さんがこっちに戻って来てからですから・・・3年前だよね?」

「そうね・・・そうです、6月の異動で横浜に来ました」

「6月ですか・・・」

「どうしたんですか室長」

 久美子はほっとしていた。

「・・・いや・・・竹下、12日のAADさん一緒に行くか?山崎も」

「室長が宜しければ」

「行きますっ!」

「いえ佐久間室長、12日の月曜日はこちらからご挨拶にお伺いさせて頂きます」






     △






「美味しかったっす!」

「僕もこれから使わせて貰います」

「板さん明日も来るねっ!」

 それぞれの挨拶の後、久美子はおどけた。

「あいよっ・・・マキちゃんありがとねっ」

「ご馳走様でした」

「板さん、また来ます」

 支払いを済ませ、皆が溜まる玄関引き戸の前に戻って来た涼介は力強く感謝の気持ちを伝えた。

「あいよっ!・・・ありがとう御座いましたっ!」

 カウンター越しに皆を見送る板さんの顔には嬉しさが溢れていた。


「ふーっ・・・」

“司”を出たマキは夜空に向って息を一つ吐いた。

「お疲れさん」

 最後に出て来た涼介はマキの背中に気持ちを込めてそう言った。

「お疲れ様でした」

 振り向いたマキは今夜の感情を笑顔に集約させていた。

 マキは目の前に居る涼介の姿に、願えば叶い、思えば通じる事を顧みていた。

 涼介はマキの後ろではしゃぐ仲間達に、3年前、ほんの2ヶ月ずれていた現実を顧みていた。


 竹下はタクシーの手配をしていた。

 飯田は煙草を気持ち良さそうに吸っていた。

 鎌田は久美子の傍から離れなかった。

「久美子の家に泊まろうかな」

 マキは欲しい物を我慢している子供の様な顔をしてそう言った。

「え?いいけど、どうしたの?珍しいね」

「そう?飲んだ時たまに泊まってるじゃない」

「泊まるんですか!?」

 二人の会話に突然その言葉が飛んで来た。

「鎌田さん飲み過ぎですよ!」

 今夜再三見せられた鎌田のアピールに久美子は始めて苛付いた。

「そんな事無いですよね?マネージャー」

「飲み過ぎだよ鎌田君」

 初めて見る部下の酔った姿にマキは少し呆れていた。

「山崎、チケット切っていいぞ」

 涼介が後ろから声を掛けた。

「タクシー使いません。歩いて帰ります」

 そう答えた久美子は振り向きざまに笑顔を作っていた。

「近くなのか?」

「はい」

「そっか。じゃぁな。今夜はありがとう」

「とんでもないです。お礼を言うのは私の方です。色々と勝手な事ばかり言ってすいませんでした。本当に有難う御座いました」

 久美子はそう言って頭を下げた。

「来たんじゃないか?」

 久美子の肩越しに見えたヘッドライトの明かりに涼介は反応した。


「竹下、じゃぁ気を付けて帰れよ。鎌田さんも気を付けて。飯田、奥さんに宜しくな」

 タクシーに乗り込んだ三人に涼介は言った。

「皆さん今日一日ご苦労様でした!」

「お疲れ様でした」

 久美子とマキは涼介に続いて挨拶をした。

「山崎久美子さん、また飲みに行きましょう!」

 鎌田がタクシーの中から叫んだ。

「はーい」

 久美子は苦笑いを交えて会釈をしていた。


「それでは山崎さん、お疲れさまでした。今日会えて光栄でした」

 細い路地を消えて行くタクシーを見送った後、涼介が言った。

「こちらこそお話出来て良かったです」

「それじゃあな、山崎」

「室長のタクシーが来るまで待ってます」

「俺は歩きなんだ」

「えっ!?そんなに近いんですか?」

「ああ。それじゃあな・・・お疲れ様でした」

 涼介は二人にそう言って踵を返した。

「えーっ!!」

「どうした?」

 その声に涼介は驚いて振り向いた。

 夜風が三人の頬を撫でていた。

 ほんの数秒、静寂が訪れていた。

「室長の家って・・・此処・・・なんですか?」

 直情的に驚いていた久美子は“司”の真向かいに在るマンションを見上げながら恐る恐る聞いた。

「ああ、そ・・・」

 涼介は何気無く見たマキの表情に喋る事を止められた。

「・・・・・」

 驚きの余り声を出す事が出来なかったマキは、再び見開いた瞳を元に戻す事を忘れて涼介を見つめていた。

「そう・・・だけど、まさか山ざ・・」

「私も此処なんです!」

 涼介の言葉を遮った久美子は、溜めていたものを一気に吐き出すかの様にそう叫んだ。

 路上に三人は立ち竦んでいた。

“司”から漏れる明かりとマンションから溢れている光が、言葉を発しない三人を優しく照らしていた。

 涼介は驚嘆を顔にだけ出し、思わず夜空を見上げていた。






     △






「ね、ね、信じられる!?」

「・・・・・」

「こんな事有っていいの!?」

「・・・・・」

「姉さん!」

「・・・・・」

 マキを先に家に入れて303号室の玄関ドアを閉めた後、リビングへ歩くマキの後ろ姿に久美子は立て続けに喋っていた。

「久美子、白ワイン有る?」

 キッチンに向ったマキは冷蔵庫を開ける前にそう言った。

「有るわよ、ね、501号室だって!」

 久美子はマキの真後ろに居た。

「・・・高そうね。開けるわよ」

「もうドラマ以上じゃない!?」

「・・・・・」

「何か運命みたいなもの感じない?」

「・・・・・」

「雰囲気あるし、めっちゃ格好良かったし!」

「・・・・・」

「姉さん何か言ってよっ!」

 白ワインとグラスを片手にワインオープナーを探し、リビングに戻ったマキにぴったりと張り付いていた久美子は、ソファに腰を降ろしてもコルクを抜く事を止めず、顔を見る事も無く、相手にしてくれないマキに叫んだ。

「あの車、りょ・・・佐久間さんの車だったのね・・・」

 マキはグラスを口に当てた後、そう言った。

「そうよね!そうだったのよねっ!見慣れない車が有るなって気にはなってたんだけど、まさか室長の車だなんて夢にも思わないじゃない!もうね、何だかイメージ湧いて来たもん、助手席に乗ってドライブしてるとこ!」

「北九州かぁ・・・」

「そうそう、北九州ナンバーなんて有る事すら知らなかったもん!」

「・・・・・」

 マキは黙ったままゆっくりと立ち上がった。

「どうしたの?」

「トイレ」

「ははっ、もう姉さんったらぁ・・・そう言えばさっき涼介って言い掛けてなかった?室長の事」

「えっ!!そんな事ないわよっ」

「・・・シャワー浴びてこっ」

「・・・・・」

 マキはトイレに行く前に、久美子に少しまずい事になる寸前にさせられていた。


 久美子は浴室だった。

 リビングのカーテンは静かに揺れていた。

(見える筈ないか・・・)

 マキはベランダから見上げていた。

 視線の先に在るだろう501号室を見つめていた。

 夜風は変わらず頬を撫でに来ていた。

(あんなに輝いてたっけ・・・)

 建物に狭まれた夜空に輪郭の綺麗な満月が出ていた。

 真下には“司”の暖簾が揺れていた。

(どうしてこうなっちゃったんだろう・・・)

 ワイングラスを左手に持ったままマキはベランダの手摺りに両肘を置き、頬杖を付いた。

 マキは今夜の出来事を整理出来ないまま耽っていた。劇的な再会だった。再会した場所も劇的だと思っていた。それを脳裏に巡らしただけで鼓動が激しくなっていた。涼介の地元が小倉だという事を忘れていた。望んでいない状況での再会だった。涼介との間に有る縁の深さや複雑さを感じていた。私の気持ちを知っている筈なのに神様は悪戯が過ぎるとも考えたくなっていた。久美子が一目惚れをした相手が涼介である事は想像の範疇を遥かに越えていた。

(涼介・・・)

 久美子は無邪気だった。マキは自分の気持ちを押し殺して久美子を応援するべきなのかどうか苦しんでいた。そしてずっと感じている胸の痛みを信じるべきなのかどうか迷っていた。






     △






(マジか・・・)

 自宅に戻った涼介はそのままキッチンへ行き、テーブルの上に置きっ放しだったマイヤーズのボトルに手を掛けた。

(まさか此処に住んでるとは・・・)

 涼介は複雑な真実を顧みながらグラスに氷を入れラムを注ぎ、冷蔵庫のウィルキンソンを手に取った。

 涼介は散会した路上でマキの驚いた顔を見た時、マキが此のマンションに住んでいると決め付けていた。しかしその刹那、涼介のそんなぬるいときめきは久美子の声に因って掻き消されていた。

 涼介は今夜久美子が見せていた姿に切なさを感じていた。それは3年間北九州支店で一緒に仕事をした岡部恭子の振る舞いに、余りに似過ぎているせいもあった。

(やばいな・・・冷静じゃいられないな・・・)

 涼介は甘くない現実を思い知らされ、待ち受けているだろう想像出来ない多難な前途に胸を締め付けられていた。

 心を落ち着かせる事が先決だった。

 涼介はポケットのXPERIAに手を伸ばした。

 ラムバックはいつもより荒々しく泡立っていた。


(ふーっ・・・)

 涼介は満月に向って息を一つ吐いた。

(こんなに余裕が無いのは久し振りだな・・・)

 涼介は目には見えない何かに試されているのかもしれないと思っていた。しかし神様は絶対に人を試したりしないと思っていた。ならば自分の生き方や決断全てに原因が有る筈だった。だとすれば過去に積み重ねた女性に対する卑劣な行為にどうやって許しを請えばいいのか、しかも遥か先を見据えた願望を帰結する為に、今後自分の行動に何が求められているのかを悩んでいた。

(・・・・・)

 涼介はベランダのエッジにラムバックを置き、両肘を付いた。

 建物から漏れる光が路地を綺麗に照らしていた。

 真下に見える“司”の暖簾は揺れていた。

(マジかよ・・・)

 腕を組み、男性の肩に頬を寄せて歩くカップルが路地を抜け様としている後姿が見えていた。涼介はその二人に、マキと寄り添い本牧の裏通りをビデオショップから自宅まで歩いた夜を思い出していた。

(!!・・・)

 涼介は不意に甦った遠い記憶に戸惑いながら、路地を抜け行く二人から視線を久美子が住む303号室辺りに向けた時、ベランダに頬杖を付く女性の姿を見つけて驚いた。

(マキ・・・)

 その名前を声にする事を迷っていた。同時にマキの身体が動いた瞬間、身を隠す事を迷っていた。

“♪♪・・・♪♪・・・”

(・・・・・)

 涼介はゆっくりとベランダから身体を離し満月を見つめた。そしてこのタイミングで着信音と共に震えたポケットのXPERIAに手を伸ばす事を選んだ。






     △






(・・・・・)

 涼介は右腕を上げ時計を見た。

 4月10日、土曜の夜7時を少し過ぎた辺り、待ち合わせた時間にはまだ20分程有ったが、純一が指定したBARのボックス席は全て埋まっていた。涼介はまだ誰も座っていない10脚程の椅子が直線に並んだカウンターに案内されていた。

 涼介は昨夜“司”から自宅に帰って直ぐ、純一に“明日時間を作ってくれ”とメールを送信していた。折り返しに電話を使った純一は住吉町に“良いBARが有る”と快諾していた。

 今年の5月で33歳になる古川純一は、横浜駅前に本社を構えた住宅設備機器を取り扱う会社の相生町支店の課長だった。支店は相生町四丁目に在り、関内大通りに面していた。ブロックの向こう側は馬車道だった。会社の帰りに同僚達と飲む事が多い純一は、馬車道を通り一本入った住吉町にプライベートで使えそうなBARを見つけていた。そして3ブロックも離れていない真砂町に会社が在る涼介と、いつか仕事帰りに使う様になるだろうと思っていた。


「お決まりになりましたか?」

 上品なBARの雰囲気に溶け込んだ女性が涼介に声を掛けた。

「麒麟のスタウト有りますか?」

 涼介は白いシャツを凛と着こなし、落ち着いた化粧とダークブラウンに染めたセミロングの髪を後ろで束ねた女性が醸している清潔感に好感を持った。


「初めてですよね?」

 大きな瞳を細め、スタウトを涼介の前に差し出した女性が言った。

「そうですね」

 女性の穏やかな表情に涼介も目を細めた。

「お仕事帰りですか?」

「今日は休みですよ」

「休日なのにスーツなんですね」

「ええ、午後からちょっと会社にね」

「そうですか・・・」

 カウンターの女性は笑顔を一つ見せ、グラスを拭き始めた。

「・・・此処は古くから?」

 女性の素振りに何かまだ喋り足りなさそうな雰囲気を感じた涼介は、自分の受け答えが淡白過ぎたのではと思い、新たな会話を切り出した。

「・・・お店ですか?・・・お店は2年前ぐらいにオープンしたと思います。私はまだ半年ですけど」

「・・・・・」

 涼介は笑顔で頷いていた。

「会社は近くなんですか?・・・」

 女性はそう聞いた後、視線を涼介の後ろに向け軽く会釈をした。

「そうですね、駅の・・・」

 女性の視線に釣られた涼介は喋りながらその方向を見ようとした。

「真砂町四丁目、だったかな」

 涼介の話を遮り女性の質問に答えたその声は、涼介の肩を一つ叩いて隣に座った。

「おう、お疲れさん」

「お疲れ・・・綾美さん、もう口説かれてたんじゃない?」

 純一は笑顔でそう挨拶をした。

「お久し振りです。いらっしゃいませ」

「久し振りだね、元気でしたか?」

「はい・・・いつもすみません、いらした時に私が出勤してなくて」

「いやいや、大丈夫ですよ・・・黒か」

 純一は笑顔のままそう言った後、涼介の飲み物を見た。

「・・・純一、お前目が高いな」

「ははっ、そうだろ、綺麗な女性だろ」

「古川さんは何になさいますか?」

 涼介の一言と純一の返した言葉に、綾美は一気に二人との距離が縮まったと感じていた。

「ハーフ&ハーフだろ?」

「そうだな、そうしよう」


「こちらの方とはどんな関係なんですか?」

 ハーフ&ハーフをカウンターに置いた綾美は純一にそう聞いた。

「学生の頃からの腐れ縁だよ」

「綾美さんでしたよね?純一とは?」

 今度は涼介が質問した。

「ああ、いや、此処を使い始めた頃に新しいバーテンダーで入って来てさ、それで仲良くなってな・・・ね、綾美さん」

 涼介の質問に純一がそう答えた。

「はい、古川さんとは色々お話させて貰ってます。いつも良いアドバイスをして頂いて助かってます・・・あの、お名前お伺いしても宜しいですか?・・・私は杉原綾美と申します」

 綾美は笑顔だったが、何処か少し用意していた言葉を押し出す様に喋っていた。

「何か緊張してる?」

 純一は率直に聞いた。

「え?ええ、少しだけ・・・すみません」

 綾美はちょっとはにかんだ。

「まあいいじゃない・・・そうですか、僕は佐久間涼介です。これからこいつと来ますので宜しく・・・」

 涼介は純一にそう言いながら綾美に向ってグラスを持ち上げ、そのままグラスを純一に近づけた。

「ああ、そっか、お疲れさん」

 純一は涼介の所作を見て同じ様にグラスを持ち上げた。

「お疲れ」

 グラスが澄んだ響きを一度立てていた。

 綾美は二人の様子を笑顔で見ていた。


「此処、良く使ってんのか?」

「ああ、会社から近いし、落ち着くしな」

 二人は2杯目を飲んでいた。

「良いBARだな」

「・・・って事はお前、駄目だぞ」

「何がさ?」

「あんな感じ出して、私の気持ち見抜いて下さいって、態とちょっとだけ押して来る女性に弱いだろ?」

 純一は涼介の思惑に釘を刺さず、いきなり止めを刺した。

「ふっ、大丈夫だよ」

「どうだかな・・・仕事はどうよ?」

 純一は笑顔に少し訝しを混ぜた後そう聞いた。

「ああ、まだ慣れないから色々と時間掛かってるけど・・・土曜日は仕事なのか?」

「ん?ああ、隔週でな。今日はその隔週だったんだよ・・・で、どうした?そんな事より何かあったんだろ?」

「・・・昨日ウチの会社でレセプションが有ってな」

「おう、それで?」

「流れで“司”に行ったんだよ」

「ほほう、なるほど。それでどうよ、板さん相変わらず元気だったろ?」

「そうだな」

「あの人は老けないし変わらないよな・・・で?」

「マキに会ったよ」

「マジかっ!!」

 純一の声は意外と店内に響いていた。

 離れた所に居た綾美もその声に一瞬顔を向けていた。

「マジか!」

 二度目の声も店内に響いていた。

「・・・マジか涼介」

 純一はもう一度、低い声で言った。

「ああ・・・凄い事だよな、これって」

「凄いって言うか、お前らってのはまったく・・・それで?」

 純一は二人を繋ぎ続けている縁という諸行に感嘆していた。

「ウチの会社に山崎って居るんだけど、妹だったよ」

「妹?・・・居たか?妹・・・」

「店舗管理課って所に居るんだけど、仕事の系列が俺と同じだから顔を合わせる事が多いんだよ」

「・・・・・」

 純一は黙っていた。

「凄い事だろ?」

「ああ、それで?」

「“司”で六人さ」

「六人?」

「会社の連中とマキとその部下かな」

 涼介は淡々と語っていた。

「・・・・・」

 純一は想像を巡らし、考えていた。

「別れた“司”で再会なんて絵に書いた様だろ?」

「その絵のタッチを教えてくれ」

「・・・レセプションでな、妹に飲みに行こうって強引に誘われて“司”に行ったんだよ。そしたらマキが登場だよ」

「もっと繊細なタッチを教えてくれ」

「妹はさ、久美子って言うんだけど“司”を良く使ってるらしいんだ。マキとは広告の担当同士なんだよ、それで新たな上司を紹介するって事で妹がマキを呼んだ訳さ」

「・・・・・」

 純一は更に想像を巡らせていた。

「マキの会社AADって言うんだけど、知ってるよな?まあその横浜支社が尾上町三丁目に在ってさ、そこでクリエイティブマネージャーやってるんだよ、マキは今さ・・・目と鼻の先過ぎて笑うだろ?」

「ほんと目と鼻の先じゃないか・・・それじゃ恵比寿から戻って来たって事か」

「ああ、3年前転勤になってたらしい。俺が小倉に行った直ぐ後だよ」

「ふっ・・・」

 カウンターはお酒を愉しむ人が増えていた。二人の沈黙はBARのシルエットとして溶け込んでいた。

「何て言うか、何だかお前の言う様に物凄い事になってるな」

「・・・・・」

 涼介は2杯目の黒ビールを飲み干した。

「圭子は尾上町だぞ」

「そうだよな、あそこの角だったよな」

「四人が3ブロックぐらいの間に集まっちまった」

 純一は離合集散を繰り返させている、そんな不思議な力を行使しているものに少しだけ開き直っていた。

 圭子は証券会社に勤めていた。所在は尾上町四丁目で馬車道に面していた。涼介の会社は市庁前大通りを挟んだ真砂町に在り、マキと純一を含めた四人の会社はそれぞれ隣り合わせたブロックの中に在った。

「・・・で、どうなる予定なんだよ」

 純一は取り敢えず涼介が描くシナリオの結末を聞いた。

「お互い、何も起こさなかったんだよな・・・」

 涼介は自分に言い聞かせる様に呟いた。

「妹さんのせいか?」

「・・・衝撃は受けたけどな」

「で?・・・それだけじゃないだろ?」

「俺と同じマンションに住んでたよ・・・」

「えっ!?どっちが?」

「妹の方がさ」

「・・・・・」

 純一は次々と出て来る事実に驚くよりも、四人の距離に加わった一人の女性の影響が今後の二人にどれぐらいの影を落とすのか、先の見えない真実に押し黙ってしまった。

「・・・正直、全てに迷ってるんだ」

「マキちゃん彼氏居るのか?」

「居るだろうな・・・」

 涼介はマキと初対面の体で接した事を話し、どうする事も出来なかった事を話し、久美子が自分の気持ちを伝えようとしている会社での様子や、昨夜“司”で見せた久美子の仕切り方を話し始めた。

「・・・分かるんだ。ちょっと危険な感覚がさ」

「なるほどな」

 純一は頷いた。

「あの勢いや行動は昔の俺を見てる様だし、小倉にも似た感覚の女性が居たんだよ。しかもやっぱり部下さ」

「涼介お前、分かっちゃいるとは思うけど、その妹さんを惚れさせる様な事はすんなよ」

 純一は何かに背中を押された様に、涼介の心にそう捩じ込んだ。

「・・・これは必然か?」

「ああそうだな。涼介の信念からすれば偶然では無いよな」

「ふっ・・・あいつ変わって無かったよ・・・むしろいい女になってた・・・やっぱりさ、恋に落っちまったよ・・・」

「だろうな・・・」

「神様は誰の味方だと思う?」

「神様はいつも真摯で誠実な人の味方だよ」

「ふっ、じゃぁ俺はまた苛まれんのか」

「どうあれ、妹さんは駄目だぞ」

「何故?」

 涼介は態と突っ込んだ。

「・・・続きを言ってくれよ」

 純一は問い掛けに答えるのではなく、促した。

「・・・マキには彼氏が居るかもしれないし、俺には居ないし、妹の気持ちを受け入れても罪では無いと思うけどな」

「・・・神様を敵に回したいのか?」

「敵か・・・ふーっ・・・」

 純一が発した言葉が放つ、偉大で崇高な力学の様なものに抗えない無力感が涼介に溜息を漏らさせていた。

「まぁでも好きにやってもいいのかな・・・マキちゃんに彼氏が居ても居なくても、その妹さんに手を出して、また厄介な問題抱え込んでどろどろになってもさ」

「それが結論か?」

「ああ、お前らしくぬるく生きていいのかなってお・・・」

「こんばんわ」

 会話を止められた二人はその声に振り向いた。

「・・・奥さん、久し振りです・・・呼んでたのか?」

 少し驚いた涼介は挨拶をした後、純一を見た。

「ああ」

 純一はにこやかだった。

「復帰良かったね」

 二人の後ろに立っていた圭子は笑みを浮かべ涼介の肩を一つ叩いた。

「ありがとう」

「願えば叶うものね」

「そうなのかな・・・」

 涼介は圭子の言葉に耽り、頷いていた。


 圭子は古川純一と結婚して丸2年を迎え様としていた。

 圭子は大倉山に、純一は高島町に住んでいたが、二人は結婚する半年ほど前から桜木町にマンションを借りて一緒に住み、結婚した1年後、磯子駅に程近い場所に新築されたマンションを買っていた。

 今年の7月で29歳になる古川圭子は10年前、自分の内面を絶対に晒すまいとする尖った若さを見せていた大学一年生の時に純一と付き合い始め、純一の紹介で涼介と知り合っていた。

 7年前の大学四年生の夏、圭子は純一と付き合いながらも羽田東急ホテルで一夜を過ごした時の涼介の態度に耐えられず、途方に暮れた過去を持っていた。

 6年前、社会人となった春に圭子は一度純一に別れを告げていた。そして身も心も涼介に捧げる決心をして訪れた天王洲アイル第一ホテル東京シーフォートで涼介の身勝手な仕打ちに思い描く幸せを微塵に蹂躙され、容赦無く叩き付ける豪雨の中“手を離してよっ!”と叫びながら涼介を振り払った過去があった。

 三人の真実は他人から見れば歪だった。しかし三人は流れる時間に説得されるかの様に、思い出したくない過去を心に絡めながらも認め合い、許し合っていた。


「奥さんは何を?」

「私運転だからジンジャエールだけ貰おうかな」

 涼介の隣に座った圭子はそう言った。

「了解・・・じゃあね、辛口のウィルキンソンだけを一つと、俺達にはマイヤーズのラムをそれで割って下さい・・・後、オレンジをちょっと絞って貰えますか?」

 目の前に来ていた綾美に注文した涼介は何処か楽しそうだった。


 三人の背中は良い雰囲気を醸していた。懐かしい話も少し出ていた。時間を忘れて味わっていたい心地良さが三人の下へ訪れていた。

「いいお店ね・・・純一がよく使うお店なの?」

「ああそうだよ。花咲町のBARなくなっちゃったからさ」

「マジか」

「ああ、キャバクラになっちまった」

「ははっ、そっか・・・まあ、あの辺りじゃしょうがないのかな」

 涼介は昭和の喫茶店の様な、古い木造のBARに純一と二人で足繁く通った時代を思い出していた。

「・・・ね、もうそろそろ出ない?明治屋閉まっちゃうよ」

「そうだな・・・涼介、今夜お前の家に泊まるから」

 圭子の言葉に純一は満を持してそう切り出した。

「そうなのか?」

「家庭料理とは無縁だろ?」

「まあな」

「今夜は二人に何か作って貰って、ゆっくり三人で飲もう」

 純一は圭子と打ち合わせをしていた今夜の流れを涼介に告げた。

「ははっ、なるほど」

「まさかもう誰か部屋で待ってたりするのか?」

「ふっ・・・」

「マキちゃん呼んでもいいぞ」

 純一は少し茶目っ気を出してアドリブを入れた。

「マキちゃんって、あのマキちゃん?」

 圭子はその名前に反応した。

「そうだよ」

「会ったの?」

「・・・・・」

 驚いた顔を圭子に向けられた涼介は、面映そうな顔をして頷いた。

「会ったんだよ、偶然というか必然というか、な」

「そうなんだ・・・ねえ純一、どんな人か会ってみたいよね?」

 圭子は涼介に身を預けながら、無邪気さと悪戯っぽさを二人に投げ掛けた。

「そっか、奥さんは知らないんだよな」

 純一はそう言って涼介を見た。

「涼介、呼ぼうよ」

 圭子は瞳を輝かせ、照れくさそうに黙っていた涼介の肩を揺すっていた。


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