2
紅夜叉とイスカが向き合っている。手にはそれぞれの得物を携え、微動だにしない。
二人の様子は対照的だった。槍を構え、全身に気を漲らせて紅夜叉を見据えるイスカ。対して紅夜叉は、構えもせずに余計な力を抜き、イスカの遥か後方をぼんやりと見ているような眼をしている。
イスカが動いた。『魔力発動機』を起動して、初めから全開で攻める。長く持った槍が唸りを上げて振るわれる。
長く持った槍は、手元の動きは小さくても、てこの原理で刃先は大きく動く。剣を振るうよりも遥かに速い速度で斬りかかる槍は、時に肉眼でとらえられる速度を超える。
もちろん威力も早さに比例する。今は刃は着いていないが、実戦ならば人間の四肢を一撃で切り落とすほどの威力が出る。ましてや使い手は、身体強化を最大限に掛けたイスカだ。
だがイスカの鋭い攻撃は、紅夜叉にかすりもしない。避けていると言うより、見切られている。槍の届く間合いを見切って、紙一重で届かない距離を保たれている。
イスカも決して単調な攻撃をしている訳では無い。槍を持つ長さを微妙に変えながら、揺さぶりを掛けている。
しかし紅夜叉は、一体どうやっているのか、間合いを完全に見切っている。どんな速い攻撃も、射程距離外には届かない。
やはり、安全策では勝てないという事か。
剣と槍の戦いならば、剣の攻撃は届かないが槍の攻撃は届くと言う間合いを維持して、一方的に攻め立てるのが基本だ。
だが基本にのっとった戦い方では、紅夜叉には届かない。それだけの力量差があるという事だ。ならばどうするか?
答えは一つだ。当たらないなら前に出るしかない。
それが危険である事は百も承知だ。紅夜叉の攻撃が届く間合いに踏み込むのだから、当然反撃が来るようになる。少なくとも今は、こちらが一方的に攻めているのだ。
だがそれはいつまでも続かない。続くはずが無い。やがて紅夜叉はこちらの攻撃に慣れ、僅かな隙を突いて特攻してくる。差し違えるのも構わずに踏み込んで、一撃必殺の攻撃に打って出る。
ならば、慣れられる前にさらに激しく攻め立てて、紅夜叉が防戦一方の今の状態に止めなくてはならない。
いつか紅夜叉自身が言っていた事だ。迷ったら、前だ。
槍を持ち直して腰だめにする。間合いを詰めるにしても、ただ前に出るという訳にはいかない。攻撃しながら前に出なければならない。
さらに紅夜叉は、こちらの斬撃を全て見切っている。斬撃が効かないのならば、突くしかない。
一瞬のための後、最大に踏み込んで、最速の突きを繰り出した。まともに当たれば、刃が付いていなくても胸を貫き通すだろう。
地面をこする音がした。イスカの槍が虚空を突く。だがイスカはそれを認識してはいられなかった。イスカの胸元に紅夜叉の刃が迫っている。いや、刃すら認識せず、ただ殺気を感じた。
べた足に足を付けて制動を掛け、槍を立てながら引いて刃を弾く。どうにか死線を潜りぬけると、すかさず後方へ飛びのいた。
紅夜叉はイスカの突きに合わせて右足を大きく引いて半身になり、身を引きながら剣を突きだして、突いてくるイスカを逆に突いたのだ。
距離を取った二人が、また正面から向き合う。初めに戻った様な格好だが、イスカは押されていると感じていた。
二・三度の呼吸の後、イスカは再び突っ込んだ。今度は槍の中ほどを持ち、初めから接近戦である。
激しい応酬が繰り広げられる。イスカは自身の最大の武器である高速を活かし、ただの一瞬も止まる事無く攻め続ける。
止まらないどころか、速度が落ちる気配すらない。相手が紅夜叉でなければ、いずれ手数の多さに対応しきれずに、押し切られる。
だがその本質は防御である。槍は至近距離戦闘に難があるうえ、イスカ自身も攻めと守りならば攻めを得意とする。
故に、高速の連撃で押し続け、相手を防戦一方に追いやる事によって守りの弱さをカバーする。攻撃を防ぐのではなく、攻撃させない事で防御する。
『攻撃は最大の防御』を地で行く、防御のための攻撃である。
だがそれが、イスカの想定通りに行っているかと言えば、全くそうでは無い。傍目から見ると、紅夜叉はイスカと同じくらい攻撃を繰り出している。
単純な速さで言えば、魔力による身体強化をしたイスカに、生身の紅夜叉は追いつく事が出来ない。
だがそれは平均速度の話であって、瞬間速度ではその限りでは無かった。常時高速で攻め立てるイスカに対して紅夜叉は、回避するとき、攻撃するときのみイスカに匹敵する速度を発揮し、それ以外のときはむしろ動かない。瞬発力による高速と、ための為の静止を繰り返していると言って良い。
そして紅夜叉の戦術は、これもイスカとは対照的に、攻撃のための防御、つまりカウンターが主体である。
イスカの攻撃に対し、それを見切って回避行動をとる紅夜叉は、ただ回避をするのではなく、回避によって死角に回りこんで攻撃を仕掛けてくる。
回避行動と攻撃が、完全に一連した動きとなっているのだ。
それどころか、両者の応酬が続くうちに紅夜叉の防御的攻撃は、さらに攻撃的に変化した。
普通、剣術における防御行動は三段階ある。回避・受け流し・切り払いである。
相手の攻撃はまず回避する。もちろんこの時可能ならば、回避から反撃に移る。紅夜叉が今までしていたのはこれである。
回避できない攻撃は、受け流す。相手の武器に剣を当て、攻撃の方向を左右に逸らし、力を逃がすのである。
それすら不可能と見れば、切り払う。相手の攻撃に真っ向から打ち合い、こちらの攻撃を上乗せして攻撃を封じ、そのまま致死の一撃を与えるのである。
だがこれは、失敗すればそのまま自分が致死の一撃を受ける事になる。故に最後の手段とされる。
ところが紅夜叉は、回避も受け流しも捨てて、全て切り払い出した。いや、正確には切り払いきれないと見れば、渋々受け流すか回避している。常軌を逸している。
イスカは戦慄すら覚えた。自分が攻めれば攻める程、鋭い反撃が反ってくる。まるで自分自身を攻撃しているかのような錯覚にとらわれる。
錯覚とも言い切れないかもしれなかった。この時すでに紅夜叉は、すでに意思は無く何者でも無く、ただいかにすれば目の前の相手に必殺の一撃を入れる事が出来るかを、本能にも近い感覚で追い求めるだけの存在と化していた。
イスカは考える。このまま攻め続けても突破口は開けないどころか、紅夜叉がさらに対応してくるだけだ。ならばどうするか?
動き続けるしかない。もっと速く、もっと大きく、それしか自分には出来ない。
イスカが槍を突きだす。紅夜叉がまた足を引いて半身になりながら、逆に突く。だが今度はイスカもそれを予測し、余裕をもって横移動で突きを避ける。
紅夜叉は突きだしたまま剣を寝かせ、腰の高さを横薙ぎに振りぬいてきた。
血の気が引くような思いがしたが、イスカは動きを止めない。とっさに指の力で槍を空中に放り上げ、自分は地面にへばりつくように身をかがめて、横一線の斬撃の下をくぐる。
立ち上がり、回転しながら落ちてきた槍を頭上を受け、そのまま大上段から槍を紅夜叉の脳天めがけて振り下ろした。
剣を横薙ぎに振りぬいた体勢の紅夜叉に、切り払いも受け流しも無い。回避も間に合わない。良くて腕に一撃、実戦ならば切り落とされる。
イスカの体が後方に吹き飛んだ。紅夜叉が肩からぶつかってきたのだ。胸部に肩の衝突を受けたイスカは一瞬息が詰まるが、すぐに回復し着地。体勢を立て直し、紅夜叉の追撃を避けきった。
また両者の距離が開いた。迂闊だったとイスカは思う。常に前に出る紅夜叉ならば、今の体当たりは当然の行動だったに違いない。それを予測できなかった自分が迂闊なのだ。
ともあれ立ち合いでは勝てないという事は、残念ながら認めるしかない。一対一の立ち合いで勝てないならば、戦場風に行く。即ち、大きく動く。走り合いならば、自分の方に分があるはずだ。
イスカが目線の動きだけで周囲を確認し、壁の方に向かって真っすぐに駆け出した。紅夜叉もそれに倣い、二人が距離を保ったまま壁に向かって走る。
先に駆けだし、速さでも勝るイスカが先に壁際までたどり着く。そのまま速度を落とさず、白い土塗の壁が視界一杯になるほどの距離で、急カーブを切る。
イスカが垂直に立つ壁を、走った。だがそれは僅かな間の事で、すぐにイスカは壁を思い切り蹴って、紅夜叉の頭上を、すれ違うように跳んだ。
跳びながらイスカは前転し、紅夜叉の背中に引っ掛ける様に槍を振るった。イスカが飛んだ時に制動を掛けた紅夜叉は、剣を背負う様にしてイスカの槍を防ぐ。
だがイスカは、頭が持ち上がるときに回転に横捻りを加え、空中で振り向き、槍を大上段に構えて振り下ろした。今度は自分が落下する分も加わり、先程よりも威力は高い。
紅夜叉は背負う様にしていた剣を、担ぐような格好で頭上に掲げた。槍と剣が打ち合い、腕が痺れるような強烈な衝撃が響く。衝撃に耐えきれず、紅夜叉が剣を取り落した。
着地したイスカの体が再び宙に浮いた。何が起きたのか解らず、イスカが驚愕に目を見開く。
視界に紅夜叉の姿が映り、理解した。紅夜叉がイスカの槍を掴んで、背負い投げにしていた。剣は取り落したのではなく、自ら捨てたのだ。
綺麗に投げられたため、着地自体は体勢を保ちながら出来た。しかしイスカは着地しながら地面を前転する。案の定、着地地点に紅夜叉の剣が突き立っていた。
紅夜叉の追撃をかわしながら、イスカも反撃のための布石は打っていた。紅夜叉が一度自ら剣を手放した様に、着地した時点で槍を自分の右脇に置き、手を放す。
一度置いた槍を、前転してから拾う事で、短く持ち直す事が出来た。今、イスカと紅夜叉は至近距離である。ここで先に攻撃を打ち込むには、短くて小回りの利く武器の方が有利だ。そして槍は、最大限短く持てば、正面に対してはナイフ並に小回りが利く。
穂先のすぐ下を握った槍で、右回りに振り向きながら水平に切り裂いた。
右からイスカの槍、いや、今はナイフに等しい刃が迫る。紅夜叉は突きたてた剣を軸にして、その身を左に倒した。完全に倒れそうになるのを、左足と左手で支える。
イスカが振りぬいた刃が前髪を掠めるのを感じると、左足のばねを使って体を跳ね起こす。その勢いのまま逆袈裟に切り上げる。狙いはイスカでは無く、その後方に突き出た槍の柄だ。
長く突き出た柄を大きく跳ね上げられ、てこの原理に従い大きな力で、イスカの手元より先の刃が地面を向かされる。槍はイスカの右後方で、刃を地面に向けて立つ。ここからでは、防御も攻撃にも移れない。
逆袈裟に剣を振りぬいた紅夜叉は、振りぬいた先で剣を止め、霞構えになる。一歩踏み込みながら、手首を返して打つ。
刃引きの刀身が、イスカの首筋を打った。
◇
どうにもおかしい。そう紅夜叉は感じていた。
近頃自分が自分では無い様な違和感がある。いや、それは今になって現れたものでは無く、以前から微かに感じていた事だ。だが近頃は、それがもう無視できない程に大きくなっている。
現に、今のイスカとの立ち合いも、自分にしてはずいぶん温いやり方をしたものだと思う。最後の一撃は以前の自分ならば、下手をすれば首の骨が折れかねない様な一撃を、躊躇無く浴びせていただろう。
それ以前に、鬱陶しいだけのはずだったイスカの挑戦を、どこか心待ちにしている自分が居た。これも以前ならば考えられない事だった。
狂う。ただ狂う。自分にはそれしかないし、それで十分なはずだった。そこに意味など有りはしない。生きる事に対し意味を求める事自体、無意味な事だと思っていたはずだ。
それが僅かに揺らいだのは、やはり安東高星と言う男と出会った時だ。あの時、『意味のある戦いに自分の意思で参加するならいいのか?』という言葉に、確かに心を動かされた。
あれ以来自分はここに腰を落ち着け、少しずつ、らしくない様に変わったのだろう。その原因が今の自分を取り巻く、小うるさい連中である事も間違いない。
自分がここに居るのは、『意味のある戦いを始めてやる』と大言壮語した高星を見極める為だった。今、高星を見て、あの時の言葉は本物だろうかと考える。
高星が始めたばかりの大きな戦。それが意味のあるものか、それとも結局は全てが無に帰す無意味なものか、未だどちらとも判断は付かない。
だが高星が、自分のしている事に意味が有るかないかと考えてはいない事は解った。高星は、自分のしている事の意味は、自分で決めると信じている。
意味が有るのか、無いのか。何に価値が有り、何に価値が無いのか。何を尊ぶべきで、何を卑しむべきか。その全てを、高星は他人の決めた基準では無く、自分の決めた基準で測ると決めているらしい。
傲慢と言えばこれほど傲慢な事も無いが、何か突き抜けた傲慢だった。少なくとも、世に掃いて捨てるほど居る嫌な奴の傲慢とは、決定的に何かが違う。
そして、高星を傲慢と言うならば、自分も傲慢以外の何者でもないだろう。世の常識や秩序などは糞喰らえ。自分のやりたいように生き、死ぬときは理不尽に、ゴミの様に死ぬだけだ。
紅夜叉のその信条もまた、自分の決めた基準にしか従わないと言う点では、同じ傲慢だった。
ならば、高星が自分の事業に自分で意味を与えている様に、紅夜叉もまた自分自身の手で自分の人生を無意味なものにしているのだろうか? ふとそう思い、すぐに頭を振って考えない様にした。
なぜかは解らないが、それを考えたくは無かった。
肌脱ぎになり、汲み上げた井戸水を頭から被った。
井戸水は例え真夏でも冷えているが、春も終わる頃の陽気の中で、激しい立ち合いをして火照った体には心地よい冷たさだった。
生きている。そう紅夜叉は実感した。
生きる事に執着は無く、死ぬ事に恐れも忌避する気持ちも無い。むしろ、どうあっても生きたい、死にたくないと生に執着するという事が、本気で理解できなかった。
それでも、自分が今確かに生きているという事を実感するのは、心地の良いものだった。
紅夜叉にとって生きるという事は快楽であり、死はそれを実感するのになくてはならないものだった。死線を潜らない生など、生きている実感は無い。
生きる事とは即ち、戦う事だ。紅夜叉にとってはそうだった。
自分は戦うために、戦うためだけに生きている。自分の命はそのためにある。そして自分が戦うのは、生きるためだ。
初めは文字通り命を繋ぐためだった。今は、自分が自分と言う存在であるために、戦う事が不可欠になっている。戦わない自分は、自分ではない。ただの抜け殻だ。
まさしく、夜叉の生き様だった。
それに比べれば、冷水を被る事で火照った体を冷やす事で感じるものなど、温い実感に過ぎない。
「はい、手拭い」
撫でつける様に髪を絞っていると、真新しい手拭いを差し出された。操だ。
何か言おうと逡巡して、結局無言で手拭いを取った。この場で言うべき言葉など、そう大層なものであるはずが無いのに、何も出てこない。
これもまた、らしくない自分の変化だった。初めはただの言い訳だったはずだ。夜叉の生き様に、やはりどこか後ろめたい物を感じ、人間らしい行いで上辺を取り繕うとした。
操はただ、その誤魔化しを向けるのに都合の良い存在でしかなかったはずだ。だから時々面倒になって捨てようとしたし、必要以上の興味も向けなかった。
だが気が付けば、切り離しがたい存在として傍に居る様になっていた。そして何気ない礼の言葉を掛けようとして、それが出来ずにいる自分が居る。
自分はただ戦うために生き、生きるために戦う。そういう夜叉の生き様をしてきたし、それしかできないはずだった。
それが今、それ以外の、自分以外の何かのために生き、何かのために戦う様になりつつあるとでも言うのだろうか? 言い訳でしかなかったはずのものが、本物になっていると言うのだろうか?
それこそ、気の迷いだと思った。
一度、悪鬼に堕ちた者が、再び人に戻れるなどという事は無い。ましてや自分は、人間なんて上等な生き物だった事は無いのだ。
「俺はただ狂うだけだ。俺の死がやって来るその時まで」
これまでもそうだったし、これからもそうであるはずだ。自分に言い聞かせる様に、あえて言葉にして呟いた。




