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遠目には、二つの島が並んでいる様に見えた。
近づくにつれ、地続きの一つの島である事が解るようになった。
アドス島は、北側の山地と南側の山地の間に平野部が存在すると言う地形をした島である。
正確には、北側の山地はやや西に、南側の山地はやや東よりを斜めに走っている。ニの字を反時計回りに少し回したと言えばよいだろう。
北側の山地の方が高く、標高は1000mを超える。南側の山地はその半分程と言ったところだ。
行政区画上は玄州に属する、本土から船で一昼夜の距離に浮かぶこの島が、『黄金の島』と呼ばれている理由は、割と直接的である。
この島は帝国有数の金山の島なのである。特に北側の山地からはおびただしい量の金が産出する。歴代の国家は皆例外無く、この島とそこから出る金を国家の専有物として手放さなかった。
しかし現在のアドス島は、決して金山だけの島ではない。
雪をもたらす冬の北西の風を、北側の山地が遮ってくれる上、一度山を昇って吹き降ろす空気は昇る前よりも暖かくなる現象のおかげで、この島の気候は冬は暖かく夏は涼しい。
加えてこの島は、先にニの字と表現したが、平野部も含めればエの字の形をしているので、東西に大きな湾がある。この湾が豊富な魚介を恵むのである。
さらに南側の山地では、日当たりの良さと温暖な気候を利用した、柑橘類を中心とした果物の栽培もおこなわれており、豊かで新鮮な食材には事欠かないと言う、誰もが一度はあこがれる島である。
そのため例え金山が無くとも、『黄金の島』の異名に嘘は無いと言う者も居る。
しかし安東家の快速船がこの島に入港したのは、なにも甘美なこの島を満喫するためではない。
現在帝国中を、即ち世界中を結ぶ航路は、東西南北と内海の五大航路がいわば大動脈である。この五大航路を中心に、無数の中小航路が張り巡らされている。
アドス島は五大航路の一つ、北方航路の始点と終点、帝都の外港と安東家領のトサの湊から、ほぼ等距離に存在する天然の良港なのである。
当然、港湾都市としてのアドス島の重要度は非常に高く、そのために莫大な富が集まる島でもあった。
「だからこの島の港への入出港料をどうにかする事が、安東家の交易事業、ひいては棟梁のする戦の戦費の獲得に重要になる訳か」
「そういう事だ。それに商人と交渉や取引をするにしても、この島でするのが都合がいい。どちらか一方だけが遠出しなければならない訳ではないし、そもそも商用で訪れる事の多い街だからな」
豪勢な食事の並んだテーブルを挟んで、エステルがジャンにアドス島についての説明をする。
アドス島に上陸して最初にしたのが、腹ごしらえだった。船の上では碌に食事ができなかった者が多かったので、皆旺盛な食欲を発揮している。
船乗り達は提督の下で別に行動しているので、この場に居るのはエステル以下数人だが、注文した料理は十人前はある。
単に空腹だからと言うよりも、豪勢で美味い食事ともなれば、普段以上に腹に収められるからだろう。
その上、味と量の割には驚くほど安い。アドス島の食材の豊かさを、まざまざと見せつけられたような格好である。
「この後は、さっそく交渉事ですか? まあ、俺は見てるだけか、良くて書記でしょうけど」
「直接の交渉は、提督殿の仕事だな。私はどちらかと言えば事前協議が仕事だ。どちらにしても、お前は末席に置いておく事になるだろう」
「少しでも、何かを得られるように努力します」
「まあ、そう気を張る事も無い。どうせこれから日程の調整をして、交渉はその後なのだから、場合によってはだいぶ間が開く。のんびり待ってもいいだろう」
「事前に予定とか、調整していないんですか?」
「櫂船が運航する夏場ならともかく、快速船で晴れ間を縫う様な今の時期に、日程を決めておける訳がないだろう」
「あ、そうか」
アドス島への船を出す事が決まってから、十日近く待たされた事を思い出す。その上、出航もこれ以上天候が悪化しないうちに多少の無理は承知で、という出航だったのだ。事前に日程を決められる訳がない。
冬の間は航海も交易もしないのは、海が荒れて危険と言うだけではなく、日程が定まらない不安定さも原因なのだろう。
「宿の手配はすぐに済むとして、その後は皆で街を歩いて情報を集める事に専念しよう。何が交渉の役に立つか解らないからな」
「商品の値の動きとか調べればいいんですかね? 俺よりも操ちゃんの方がそういうのは得意だったな」
「各人が各人で解る事を調べればいいさ。ジャン以外はこの島に来た経験が有る者ばかりだから、ジャンだけ私に同行して、後は各自で情報収集をする様に」
微妙にタイミングがずれた返事が、一斉に返ってくる。皿もほとんど空になり、流石に皆満腹の様だ。
「やれやれ、後で苦しくなっても知らないぞ、私は」
◇
アドス島の街は、とにかく密度が高かった。
島である上に、全島の半分以上が山地であるために、慢性的に土地が不足しているのだろう。
どの建物も三階建て以上の高層建築で、しかも上の階に行くに従って大きくなる、頭でっかちな建物もチラホラと見られた。
道行く人々も多く、うっかりよそ見をすればすぐにぶつかってしまいそうである。これでも冬場ゆえに少ない方で、多い時には肩がぶつからずに歩く事が不可能は程になると言う。
人が多ければ店も多い。露店がひしめき合っているのはもちろんの事、建物の一階部分が店、二階以降が借家となっている建物も珍しくない。
この島の人口は三万人程だが、その半分が商人か、その家族などであると言う。まさしく商人の街である。
「エステルさん、あれはなんでしょう?」
幅の広い道路が交差するところに設けられた広場の一角に、人だかりができていた。何か、壁に書かれた物を読むために人が集まっている様である。
人だかりの最後尾からは全容は解らないが、どうにか一部を読む事は出来た。何かの布告らしい。
「ああ、九人委員会の布告か。防火政策に関しての様だな」
女性としては背の高い方であるエステルにも、一部を読む事が出来たようだ。
「九人委員会ってなんですか?」
「この街の最高意思決定機関だ。財力を持つ者は権力も持つ、この街は広範な自治権を認められた自治都市だが、その最高意思決定機関が九人委員会だ。
文字通り九人の委員で構成され、この街の立法や司法までも握っている。あれはその委員会の出した、防火政策の布告の様だな。まあ、どうせ守られはしないだろうが」
「え? どうしてですか?」
「防火政策の布告は、この街では繰り返し何度も出ているのだ。つまり、守られないから何度もしつこく布告を出している訳だ。
この街は見ての通り建物がひしめき合っている上、冬場でも穏やかな気候の代わりに空気が乾燥しているからな。防火に神経質になるのも解るのだが」
エステルが肩をすくめて苦笑いする。慣れるほど繰り返し見た光景なのだろう。
「じゃあ、特に話題になりそうにはないですね」
「そうだな。それほど興味も引いては居ないようだ」
エステルの言う通り、ジャンとエステルが話している僅かな間に、人だかりは半分以上散ってしまっていた。
もう用も無いので、二人もまた適当に足を運ぶ。
「次は、どこに行きましょうか? いや、元々特に目的はありませんけど」
「そうだな。一応、市場で硝石の値でも確認しておこうか?」
エステルはどこに何が有るか把握している様で、迷う事無く通りを歩いて行く。後に続くジャンは、街の風景や露店の売り物に興味を引かれたが、よそ見をしていてはすぐにはぐれそうな人出なので、諦めて後を追う事に専念した。
やがて明らかに取り扱う商品の違う一角に入り込んだ。まず目に付くのは見るからに重々しい石材である。
大きな石材を置いていない店があると思ったら、硫黄やリンと言った錬金術師が買い求めそうな鉱物を売っている店だった。
立派な店構えをしているのは、宝石店である。どうやらこの一角の店が扱っているのは、広い意味で石の様だ。
通りを抜けて先程よりは狭い広場に出る。お目当ての物はどうやらここにある様で、エステルが広場の壁を見ながら歩く。壁には一面に、何かの数字を記した掲示板が掛けられていた。
「あったあった、これだ」
目当ての物を見つけたらしいエステルが、一枚の掲示板の前で足を止める。
「ここらに出ている物は、なんなんですか?」
「前日の取引で付いた値を張り出しているのだよ。商人達はこれを見て、その日の取引の参考にするらしい。さて、硝石の値は……」
ジャンも硝石の文字を探す。掲示板に書かれた硝石の文字の横には、単位当たり2アウレと書かれていた。
「平均的な相場と言うところか。ただやはり、穀物が少々値上がりしている様だな……」
「穀物? この掲示板には、穀物の値は書いていない様ですけど」
「硝石は、おおよそ同量の玄米と等価交換されるのが相場だ。トサを出る前の情報だが、今玄米は、硝石より2デナリ半は高い。他の穀物も似たようなものだった。
硝石の値が据え置かれているという事は、物価全体が上がったのではなく、穀物だけが値上がりを始めているという事だ」
「なるほど。でも、役に立ちそうな情報ではないですね」
「予想されていた事の確認が取れた、と言う程度だからな。元よりこういう調べ物は専門外だし、仕方が無いだろう。この辺りで切り上げて、素直に街の見物でもしようか」
成果が上がらなかった事は後ろめたい様な気持ちがあるが、街の見物は大いに興味が有ったので、喜びを出したいが出せない様な、妙な表情になった。
そんなジャンを見てエステルが笑ったので、心中は察したのだろう。気を使ってか、率先して露店を冷やかして回った。
「あー、これ綺麗。ねぇ、買ってくださらない?」
「あ、ずるい! 私も私も!」
「わっはっは、いいともいいとも。好きなのを選べ」
露骨に媚を売る様な、甘ったるい女の声がして思わずそちらを向く。そこそこ美人と言える女性を二人左右に侍らせた、卵に髪と髭が生えたような頭の男が、土産物を買ってやっている様だった。
男はかなりいい身なりをしているので、相当な金持ちなのだろう。どこぞの大商人が愛人を連れて街歩き、と言うところかもしれない。
女連れの男にはすぐに興味は無くなったが、今の露店で売っている物は少し気になった。遠目には宝石のようにも見えたが、高価な宝石を露店で売るのも不用心過ぎる。
「いらっしゃい。冷やかしでも歓迎するよ」
店主が愛想のよい笑みを浮かべて言う。もちろん商売用の作り笑顔だろう。肝心の露店で売っている物は、宝石の様で宝石では無い物だった。
「おや、これはジルコンか。なるほどちょっとした土産にはいいな」
気付けばエステルも一緒に露店の品をのぞいていた。
売っていたのはジルコンと言う石で、美品は風信子石などと呼ばれる宝石であるが、露店に並んでいるのは色や形が悪かったり、中にゴミが入っている、言ってみれば宝石のなりそこないである。
「なつかしいな」
「ジャンはジルコンを扱った事があるのか?」
「いや、あまりいい思い出は無いんですけどね」
それで察したようで、エステルはそれ以上は何も聞かなかった。ジルコンの美品、風信子石はダイヤモンドに似た輝きを放つので、古代から偽ダイヤモンドとして扱われてきたと言う。
もっともそれだけに、現代では見分け方の特徴も知れ渡ってしまい、まともな宝石商や鑑定士が見れば一発でバレるようなシロモノである。ジャンは昔、無知な田舎の小金持ちを狙って、風信子石の偽ダイヤで詐欺をしていた事が有った。
この詐欺の上手い所は、風信子石も立派な宝石として価値を持つので、詐欺がばれても間違えたと言う言い訳で示談に持っていきやすい所にあった。ましてや売り子が子供ならばなおさらである。
ちなみに偽ダイヤモンドとして使われるのは、当然無色透明な石であるが、風信子石として価値を持つのは、赤か紫の色が付いた物が価値が高い。
「記念に一つ買っていこうかな。これをくれ」
「まいど! 20セルスだ」
手近なところにあった一つを、旅の記念だと思って買った。自分がこの石を売る側だった頃は、旅の記念など考えもしなかっただろう。
どうせなら土産としてもう一つ二つ買おうかとも思ったが、ジャンの知る女性は、宝石にはあまり興味がなさそうなので止めにした。
銀華ならば、なんであろうと土産物を買えばとても喜ぶだろうが。彼女に土産を買って帰るべきは、自分では無く、高星だろうと思った。
その日はもうそれで、後は特筆する様な事も無く一日が終わった。強いて言うならば、宿のベッドはとても寝心地の良いものだった。




