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生きた心地がしなかった。
全てが静止するという事を知らずに大きく揺れ続け、その度に壁や床や天井が嫌な軋む音を響かせている。
前頭がひどく重く、起き上がる事すらできずに寝床に仰向けに伏している。寝床の傍には桶が置いてあるが、中身は空だ。
ここ数日、尋常ではない船酔いで何も食べてはいなかった。辛うじて薄めた果汁を飲むだけで、固形物などは吐く以前に飲み込む事が出来ない。
ましてや今日の揺れは、今までのどの揺れよりも激しかった。なにせ左右にそれぞれ20度は傾いているのだ。
初めは沈むのかと覚悟を決めたが、その様子は無い。熟練した船乗りの技術の賜物だろう。
「大丈夫か? いや、大丈夫ではないだろうが」
提督が船室の寝床で横たわるジャンの様子を見に来る。流石にこの酷い揺れの中でも平然としている。
声が頭に響いて苦痛だが、気遣いに対して何とか答えようとする。声を出そうとしたが、喉から空気の漏れる音しか出せず、目の上に乗せた手を握ったり開いたりして応えた。
「その様子なら死にはしないな。今日だけなんとか耐えろ、明日には着く。そうすれば陸の上だ」
そう言って提督は音を立てないよう、静かに戸を閉めて船室を去って行った。同じ様な有様の者は少なくないはずなので、彼らの様子を見に行ったのだろう。
◇
ヤコエ回廊の戦いから4節。年が明け、新年の第2節に入ってすぐの事である。ジャンは高星から今までにない任務を受けた。
「交渉使節の一員、ですか?」
「まあ、肩書はそういう事になるな。実際は使節なんて大層な物ではないが、重要な事には変わりない」
ジャンに下された任務は、安東家の交易事業の一環として、商取引の契約条件を交渉する使節の一員として、長期の出張に赴く事だった。
「重要と言うのはつまり、この交渉をまとめて取引を行い利益を上げると、それがそのまま戦費になるという事ですか?」
「まあ、おおむねそういう事だ。正使として提督を、副使としてエステルを派遣する。お前は二人の手足となって働く使い走りの一人として同行しろ」
「ただの使い走りじゃなくて、こういう仕事も見て覚えて来いと?」
「解っているじゃないか。なら話が早い、我が家の経済力の一端を見て、そしてお前なりの教訓を見つけて来い」
こうしてジャンは使節の一員としてトサの港から出航した。と、言いたいところだが実際はそうでは無い。
季節は真冬の最中であり、海は素人目にも解るほどに時化が続いている。冬の航海は比較的天候が穏やかな日を縫って行わなければならない。命令を受けてから実に十日間も天候待ちをする事になった。
ようやく出航した時も、必ずしも天候が良いとは言えなかった。今回の船は百トンにも満たない小型の快速船であり、安定性には欠けるため、もう少し穏やかの方が良かったと言う。
しかし総責任者である提督が、第3節から4節に掛けては最も海が荒れる時期であり、ここで出航しなくては次の機会は三十日以上も先になるであろう。故に多少強引でも、今この機に出向すると決めた。
海については安東家の中でも随一の提督の判断なので、誰も異を唱える事はしなかった。しかしやはり強引な出航であり、ジャンをはじめ船に慣れていない者達は、瞬く間に船酔いで寝込んでしまった。副使のエステルも例外ではない。
初めの内こそはまだ粥の様な流動食は食べられたが、一向に収まらない揺れに船酔いは悪化の一途をたどり、三日目には飲み物しか受け付けなくなった。
そして出航から四日目に当たる今日、すでに変州の領海は過ぎ、玄州沖に差し掛かったところで天候が崩れ、ただでさえ重症だったジャンの船酔いは、決定的に悪化したのである。
◇
酷い嵐には違いなかった。だが冬の北方航路では珍しくは無い。
小型の快速船は20度も傾いていたが、提督の指揮以下、熟練の船乗り達の操船により、速力だけはむしろ上がっているくらいだった。
熟練の船乗り達の中でも、特に年配の者達は笑いながら冗談を言い合い余裕すらあった。彼らと共に船が40度も傾くような大嵐を乗り切った事もある。
だがやはりこの時化は厳しく、予断を許さなかった。若手の船乗りまでもが参ってしまったので、人手は不足気味である。
沈みはしないが、揺れを抑えるところまでは手が回らなかった。干し肉をかじって腹を満たしながら、提督自ら甲板で波をかぶって働く。
短い航海なので危険は少ないが、乗組員の体調も注意しなければならなかった。栄養不足もそうだが、船酔いで人は死ねるのである。
食べ物を吐くのは軽いもので、胃液を吐き、血を吐いて死んでいく者も居る。
揺れと酔いに苦しめられ続けた挙句、陸地も見えない様な沖の航海で、逃げ出す事も出来ないと絶望し、気が狂った末に入水自殺する者すら居る。
哀れと言う他無いが、苦しみを忘れた末に楽になれるのだから、正気のまま死んでいく者よりは幸せかもしれないとすら思う。
何十日も沖に出る様な航海では、そういう者は必ず出ると思った方がいいくらいである。数日の航海でも、船に慣れない素人では油断できない。
ただ幸いにも、致命的な様子を見せる者は、少なくとも提督が見回った限りでは居なかった。速力もあるので、明日には目的地に着けるだろう。
空を仰ぎ、早く流れる雲を見た。皮肉な事に、明日は晴れそうである。
◇
腹立たしいほどに晴れていた。
昨日までの時化が嘘の様な青空で、雲一つ無い空の色は濃く、圧し掛かってくる様な低い空だ。ただ、流石に少し風はある。
ジャンも船酔いが大分良くなり、今朝は粥を食べる事が出来た。あれほど食べ物を受け付けなかったのに、少し良くなると途端に腹が減るあたり、人間の体と言うものは現金なものだと思った。
初日以来、五日ぶりに甲板に出る。そこかしこに塩がうっすらと白く吹いており、触るとざらざらしたり、べたついたりした。水夫達がそれをせっせと洗い流しているので、邪魔にならない様に退散しようと踵を返す。
「ジャン! ジャンじゃないか! 久しぶりだな」
振り向いてすぐに呼び止められて、また振り向きなおる。見ると陶明がデッキブラシを片手に駆け寄ってくる。
「陶明!? お前、なんでここに居るんだ?」
「なんでって、最初からこの船に新入り船乗りとして乗ってたさ」
言われて思い出す。船に乗る前に見た乗員の名簿に、確かに陶明の名前が有った。出航前は仕事が多く、顔を合わせる機会が無かったが、船に乗ってからは話をする機会もあるだろうと思っていた。
だが結局、船酔いで枕も上がらない状態が続いてそれどころではなく、いつの間にやらすっかり忘れていた。
「そうだ、そうだ、すっかり忘れてた。なんせそれどころじゃなかったからな」
「ひどいな、とは言えないか。俺も同じ様なもんだ。特に昨日は立ってられなかった」
「全く、酷い目に遭ったもんだよ。ところでお前は、成りたがってた船乗りに成れたんだな」
「第一歩ってとこかな。早く自分の船を持って、戦で活躍したいぜ。お前は先の戦で手柄を立てたんだって?」
「まあ、一応な。でもあれは俺が止めを刺しはしたが、数人掛かりでの戦果だ」
「お前の手柄になったのは間違いないだろう。いいよなー、俺も兵站線を切る作戦に参加してたんだが、おいしい所は他の隊に持っていかれて、俺は見ているだけだったよ」
「まあ、お前の腕ならいつか手柄は立てられるさ。俺よりよっぽど腕は立つんだから。偶々俺の方が早かった、運が良かったのさ」
「流石、殿の親衛隊は言う事が違うねぇ」
「いや、そんなつもりじゃ……」
そんな事を話していると、不意に影が差した。誰かがすぐそばに立って日を遮った様だ。
それが誰かを確認する前に、陶明が振り向き、ついで横跳びに吹っ飛んだ。
「貴様! 新入りの癖にサボりとはいい度胸をしているな!」
提督だった。普段は割と温厚な表情をしているが、今は巌の様に強固で巨大な存在として立ちはだかっている。陶明が吹っ飛んだのは、提督に殴り飛ばされたようだ。
「貴様は確か、陶明とかいう新入りか?」
「はい!」
陶明が顔を腫らし、ふらつきながらも直立して応える。
「さっさと仕事に戻れ、陸に上がったら懲罰だ。覚悟はできているな?」
「はい!」
「よし、行け!」
陶明が一礼してデッキブラシを拾い、仕事に戻る。つい話し込んでしまった自分にも責任はあるかと思い、気まずげに口を開いたら、喉から出た音が言葉になる前に、提督の方が言葉を発した。
「お主の責任ではない。それにああいう意気盛んな若い者は、懲罰くらいは糧にする。お主の頼みで罰を減らしたら、かえって気に病むだろう」
「はあ……」
確かに、訓練部隊の頃の実技でも、陶明は叱られてはやる気を出していたので、提督の言う通りなのだろう。
「……ここでは少し騒がしい。前の方に行くか、あちらはもう掃除も終わっている」
そう言って提督は甲板を前の方へ歩き出し、ジャンもその後を追う。提督の背中は、高星とはまた違う大きさがあった。
◇
前部甲板には他に誰も居なかった。まだ甲板の掃除が途中なので、掃除中の水夫達は掃除を終えたこちらには来ず、それ以外の者も掃除の邪魔になるので、甲板にはあまり出てこない。
船の舳先で波が砕け、白い飛沫が散って、時折小雨の様に降ってくる。穏やかと言ってもやはり冬の海はそれなりに荒く、この小さい船では波をかぶらないほどの高さも無い様だ。
「ジャン、だったな。こうしてゆっくり話をするのは、初めて会った時以来か」
「そう言えばそうですね。もう一年以上前になります」
「実を言うと、儂もそれなりにお主を気に掛けていたのだが、なにせ仕事が多いでな。殿がいつも傍にいるし、年寄がわざわざ首を突っ込む事も無いと思っていた」
「棟梁はいつも提督を信頼して、頼りにしていますし、その働きに助けられていると言っています」
「友との約束じゃからな」
「友?」
「先々代の安東家当主。殿の祖父にして、儂の無二の友人じゃよ。あいつに頼まれたのでな、殿の事をよろしく頼むと」
「そうだったんですか」
「もっとも、あまり期待には応えられておらんがのう。殿を助けたのは結局銀華殿だったし、親子の確執もどうする事も出来なかった」
「そんな。提督が居なければ、どれも無かった事です」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になる。まあ、殿の話はこのくらいにしておくとしよう。今はお主の事を聞いてみたい」
「俺、ですか? またなんで?」
「なんでと言われれば、初めて会った時から気にはしていた。儂の若い頃に少し似ているからかな」
「俺が、提督の若い頃に、ですか?」
意外と言えば意外だったが、提督の若い頃と言えば、何十年も昔の事になるのだから、そういう事もあるのかもしれないとも思った。
「儂もな、ちょうどお主が殿と出会ったくらいの年頃に、あいつと会った。儂らの場合は同い年じゃったが、あの偶然の出会いが全ての始まりだったと言うのは、同じだろう」
「俺と同じくらいの歳という事は、その頃の棟梁の爺さんも、まだ当主じゃなくて次期当主だったって事ですか?」
「そうじゃ。それだけに比較的自由に動く事が出来たでな、一緒に船を出して、本格的な艦隊創設を目指してあれこれ試行錯誤する事も出来た。
あの頃は楽しかったのう。試作した船が転覆して、死にかけた事もあったが」
提督がくつくつと笑う。
「ま、細かい違いはいろいろあるが、儂もお主と似たような境遇だったという訳だな。
それでどうだ? 一年と少し、殿の下で生きてみた感想は?」
「まあ、色々ですかね。悩んだり、落ち込んだり、驚いたり。必死に食らいついていくのに精一杯でいたら、いつの間にか一年が経っていたという感じです」
「嬉しかった事や、喜んだ事、生きがいを感じた事はどうだ?」
「……あんまり無いですね。苦しかったり、嫌な思いをしていた訳では無いですけど。多分、棟梁があんまり嬉しいと思ったり、喜んだりしていないから、傍に居る俺もって事だと思います」
「そうか、確かに殿はあまり明るい顔はされないな。殿の選んだ道を思えば、無理も無い事だとも言えるが……」
「あ、でも朱耶家の当主、克用様と居る時は生き生きとした顔をしていたと思います。あの時はなんて言うか、俺なんかが入り込めない様な感じだったので、見ていてそう思ったと言うだけですけど」
「朱耶殿か。儂はお会いした事は無いが、話には聞いている。殿のほとんど唯一、友と呼べるような方である様だな。
惜しむらくは、お互いが常に一緒に居られる様な立場に無い事か」
提督が少し肩を落とした様に見えた。
「しかし話を聞く限り、お主は生きる事に前向きな様でよかった」
少し気を取り直した様に、提督の顔が明るくなる。
「前向き……なんですかね?」
「少なくとも、恨みや復讐心を頼りに生きてはいないだろう。それが悪いとは思わぬが、復讐心を頼みの綱に生きている者は、どこか脆い」
「恨もうにも恨む相手が居ませんから。強いて言うなら運命だけど、それを恨んだところでどうしようもない」
「達観しとるな」
「棟梁に言わせれば、諦めてる、だそうですが」
「もたらすものが同じなら、どちらでも良いだろう。それに、生きる事を諦めてはいない」
「……一度は諦めました。でも今は、それはまだ諦めたくないと思っています」
少し、本気の言葉だった。
「それで良い。儂はどんなに辛くとも、苦しくても、そこから逃げる様な死に方だけはしたくないと思って今日まで生きてきた。
いや、そう思うようになったのは老いてからか。若い頃は、ただ負けたくなくて、負けるのが悔しくて生きてきた。死ぬのは、何か解らないが、何かに負ける様な気がしていた。
今は負けてもいいと思っている。死ぬ事を意識するようになってからは、どうせ死ぬならば、雄々しく戦って、負けて力尽きて死にたいと思うようになった。
未練無く、と言うやつかもしれんな。お主はどうだ? どう死にたい、もしくはどういう死に方だけは嫌だと思う?」
「俺は……」
空を、あるいは海を、あるいはその両方を見る。水平線の向こうは、空か海か解らなく、ただ青い。
「俺はまだ何も解りませんから、それが絶望でもいいから、とにかく何かしらの結末、何かしらの答えまでは見たい、それを見るまでは生きたいと思います。
本を、途中で読むのを止めてしまわず、とにかく最後まで読んでみない事には、何も言えない。だから今は、とにかく最後まで。そういう感じですかね」
「なるほどな」
提督が言ったのは、その一言だけだった。ジャンの言葉に対して、自分が何か言うものではないと思った。
ジャンはまだ、遥か水平線を眺めている。提督も、ぼんやりと海の彼方を見つめた。舳先の方向に、いつしか島影が浮かんでいた。
「おう、見えてきたか」
提督の言葉に、ジャンが額に手を当てて前方を見る。
「あれが目的地ですか?」
「そうだ。あれが『黄金の島』、アドス島だ」




