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珍しく、静かな時を過ごしている。
安東家上屋敷の居住区で、雪が積もった中庭を眺めながら酒を飲んだ。ときどき同じ建物内の政庁の方に横目を向けるが、雪が音を吸うためか、遠い声も聞こえてこない。
杯を干すと、銀華が静かに新しい酒を注いでくれる。嫁に悪いかと思うが、自分が本当に心休まるのは銀華一人なのだから、仕方が無い。
「戦後処理が片付いたと思ったら、思いがけず一休みする余裕ができたものだな」
「そうね、よかったじゃない。ずっと働き通しだったんだから、戦の後くらいは休むべきよ」
「……ひょっとして、気を使われたのかな。特に提督やエステル辺りに」
「かもね。いいじゃない、ありがたく受け取れば」
「まあ、一日くらい休みが有ってもいいか」
「もっとしっかりした休みを取らないと、体が持たないわよ」
「小言はいい。もう一杯」
高星が差し出す杯に、銀華がなみなみと酒を注ぐ。
「今日は飲ませてくれるのか? いつもは程々にしろとうるさいのに」
「今日だけは大目に見るわ、無事に帰ってきたお祝いとお礼」
「礼を言われる様な事はしていないと思うが」
とぼけではなく、本心で言った。
「あなたが帰ってきたときの、あの子の喜びようを見たでしょう?」
あの子というのが、自分の嫁の事を指している事は解った。確かに、抱き着いてきかねない様な喜びようで、そのときは大げさだと思った。
「言葉や行動に出すかは違っても、待たされる側は皆同じ気持ちでいるんだから、ちゃんと帰ってこないと駄目よ」
「それは無理とは言わんが難しい相談だな。戦場に行くときは、いつだって二度と帰らない覚悟をするものだ」
「あら、あなたは棟梁でしょう。あなたの民はあなたが無事に帰ってくる事を願っているとは思わない?」
「……ずるいぞ」
「戦場で策を巡らすのは、ずるくないの?」
高星が杯の酒を一気飲みし、盛大に息を吐く。
「お前には勝てたためしがないし、勝てる気がしない。不思議なものだ」
「それはそうよ。初心な青年に負けるほど、甘い人生を生きてませんから」
自分だって甘い人生など過ごしていないと思ったが、高星の思う甘い人生と、銀華の言う甘い人生は、別物なのだろう。
「甘い、か……」
高星の呟きに、銀華が顔を覗きこんで小首をかしげる。
「いや、あの娘は甘い結婚生活を夢見ているのだろうかと思ってな。そうだとしたら、遠からず地獄を見る事になるだろう。
嫁ぎ先と実家の対立がいずれ激化して、しかも自分の実家を偽っている以上、それを明かす訳にもいかないのだからな」
「そうね。多分、いずれそういう事になる覚悟を、今はしていないでしょうね」
「今は?」
「いざとなれば、腹をくくるわ。そうするしかないもの。その位の強さは、案外あっさり身に付けるものよ」
「本当か?」
「私を信じなさい。でも……いつかそうなる事が解っているなら、優しくしてあげなきゃだめよ?」
答えなかった。我ながら出来の悪い逃げだと思ったが、他に良い方法も思い浮かばなかった。
この場だけ、言葉だけで約束するのはたやすいが、そんな姑息な誤魔化しは好かないし、何より銀華に対してそんな嘘はつきたくなかった。
だが突然押し付けられたような嫁をどう扱えばいいのか解らなかったし、正直なところあまり関わり合いになりたくない気がしていた。もちろんそれを口に出す訳にはいかない。
だが無言に逃げるという事は、言外にそれを言っている様なものだ。だから逃げとしても、出来が悪い。
「まあいいわ。まだ時間はあるんだし、貴方が無事に帰ってきた事に免じて、今日はこのくらいにしておきましょう」
「それは助かる」
「いつかは決着を付ける必要のある問題ですからね」
「解っているさ、そんな事。解ってはいるんだ……」
杯の酒に雪が一片落ちて、消えた。また降り出したようだ。雪が入ってくるので室内に移動する。寒気を浴びて冷えた体に、火鉢の放つ温もりが心地よい。
「今回は、銀に助けられたな。あらためて、礼を言う」
「あなたの役に立てたのならお礼なんていらないのだけれど、いただいておくわ」
「うむ。それで一つ聞きたいのだが、朱耶家とイエーガー公の講和のお膳立てをして、何を見て何を感じた?」
「私が何を見て、何を感じたか?」
「お前なら私と違う、家臣の誰とも違う視点で物事を見ただろうと思ってな。何か、見えた事はあったか?」
「そうねぇ……お互いに戦う事なんて望んでいないのに、いろんな立場や都合が戦わざるを得なくさせる、その理不尽かしら」
「理不尽か。それを言ったらこれから多くの者が、私のせいで理不尽に今の生活を奪われるのだろうな」
「それを非難する気は無いわ、あなたは正しいと思うもの。
でも正しいから誰も傷つけない訳でも無いし、正しい事を望んで間違わない訳でも無いのよね」
「正しさを拠り所にするから駄目なのだ。正論を拠り所にする者は、お前は正しくないと言われれば足を止める。
己を突き動かす意思は、正論や理想ではなく、もっと強烈で揺るぎ無いものから引き出さねばならない」
「例えば?」
「野望、誰に何と言われようとも、己の望むものを手に入れたいと言う意思。広く言えば、これ一つだろう」
「なら、たとえ世界の全てを敵に回そうとも、愛する人を守りたいと思うのもそうかしら」
「……かもな。野望は例え挫けようとも、形を変えたりして生き残る。決してその火が消える事は無い。そういうものだと思っている。
その点が、一度挫けてそれを信じられなくなったら終わりの、正義や理想とは違う……いや、そう結論付けるのは早計か」
「例え自信を持って答えを言えたとしても、それに挑んでくるものは必ずあって、また望んでもいないのに争うのかしら」
「争う事が必ずしも悪いとは言えないだろう。争う事で磨かれ、より高みに至る。この世は大小さまざまな争いが有って、全ては争いから生まれたと言っても過言でも無い」
「でも争いに敗れた者の血は、痛みは、誰にも受け止められる事は無いわ」
「……やめよう、この話は一人の人間が背負うには重すぎる。
少なくとも私は、かつて失われたものを取り返す事で、辛うじて今残っているものを守れれば、それで十分だ。それだけでも遥かに遠くて重い」
「失ったものを取り返す、か……。戻ってこないものも多すぎるわね。
あの場所には今、何が有るのかしら」
銀華がどこか遠くを見るような眼をしていた。銀華の失われた、戻ってこない場所。在りし日の、故郷の姿を想起しているのだろう。
今は知る由も無いが、戦火で失われた村は今頃、名も無き草が生い茂る原野と化している事だろう。
故郷を失い、故郷を離れ、そしてこの地を新たな故郷にした。その意味では銀華も間違いなく、流刑人形であろう。
「例え何一つ残っていなくても、そこにかつての思い出や歴史があるならば、そこに帰りたいと思う物なのだろう。
何も無ければそれはそれで、またここから始めようと言う気になる」
「そうね……でも」
銀華が明るく微笑みかける。
「故郷を失った末にたどり着いた場所も、故郷と同じくらい私は大好きよ。
一時腰を落ち着かせた場所にも、親しい人ができて、一緒に過ごした思い出がある。ましてやここは、私の生涯の地にしても構わない場所よ。高星も、そうでしょう?」
「まあ、私はここで生まれ、ここで育ったからな。紛う事無く私にはここが唯一の故郷だ。
だが私個人の故郷とは別に、一族の故郷、魂の故郷とでもいうものがある」
「故郷が一つでなければならない道理は無いものね」
「そういうのともまた違う気もするが……まあいいだろう」
初冬の陽が沈み、薄暗くなってきた。銀華が灯火を取りに行く。その間高星は、薄暗い室内で一人静かに酒を飲み続ける。
外を見れば一面に降り積もった雪で意外なほど明るく、屋内よりも屋外の方が明るいのではないかと思えた。
「あれから一年経つのだな」
一年前、あの日も初雪で一面の銀世界と化していた。純白の雪の上に鮮血の赤さで彼岸花を描いてゆく舞台劇、主演は他ならぬ自分だ。
いくら雪明りが有るとは言え、深夜の屋外が昼の様に明るいはずは無いのだが、記憶の中のあの日あの時は、昼の様な明るさの中で全てが思い出される。
一年が経った。何度も繰り返しそれを思った。一年前の決断は正しかったのか、この一年間の自分の歩みは早いのか遅いのか、目的に近づいているのか逸れているのか、未だ判然としないのがもどかしい。
ただこれだけは言える。あの日以来の一年間で、様々なものが大きく変わったという事だ。それは間違いない。そして、あのまま何もしなかった場合とは、確実に違う未来へと行きつくだろう。
変わったものの中でも、特に若い者達は変わった。自分が言うのもおかしな話だが、まだ十代の少年少女達は目覚ましく変わった。
イスカはずっともがいている。ある面では迷いが無いが、別のある面では迷い続けている。その葛藤の中で答えにたどり着くべく、ひたすらに研鑽を積んでいる。高星の新体制が始まってからは、新たにその中での自分の意味を探し始めている。
操は元から身軽で器用で目聡い子だったが、軍の中でそれを斥候として活かす事を知った。
一見変わりが無い様に思える紅夜叉も、高星や軍全体を考えた行動を見せるようになった。最初の頃は食事にも同席しなかった事は、もはや遠い思い出となりつつある。
最も目覚ましい変化を見せているのはやはりジャンだろう。真綿が水を吸う様に教えた事を吸収している。
ただ未だ教えた事を実地に活かす術は知らない様だが、そろそろ手元から離して自分の判断をさせる経験を積ませてもいいだろう。
その他にもまだ未知の部分が多いが、これはと思える若い者を時折見かける。自分が三十になった時、二十歳を超えた彼らが若い将校として自分の力に成ってくれるであろう事を思うと、意外と未来は明るい気がする。
だが裏を返せばそれは、彼らが舞台に立つまでの数年は、自分が彼らの将来を守らねばならないという事でもある。
大した事ではない。今更の話だった。元より自分は、無数の臣民の未来を、それこそまだ生まれぬ、未来に生きる者の生きる時代を背負って戦わねばならぬのだ。
重いが、決して潰れる事は無い。なぜなら自分は、他人の未来を背負うなどと言う、立派な理由で戦っているのではない。それは、たまたま背負ったに過ぎない。
最初から自分が戦う理由は、自分の野心と、幾ばくかの復讐心なのだ。その原動力が尽きぬ以上、自分が潰れる事は無いだろう。
「お待たせ。ついでにこのまま夕食にしましょう」
ようやく戻ってきた銀華は、盆に何品かの料理を乗せて戻ってきた。
「他にもできた物から持ってくるように言っておいたから、遠慮せずにめしあがれ。特別にお酒の追加も用意してあげましたからね」
「やれやれ、これは明日からしばらくは一滴も飲ませてもらえなさそうだな」
「当然、今日飲んだ分は明日以降で埋め合わせます」
「今日はもう遠慮するから、明日からの分を少しは残してくれないか?」
「人の好意は受け取るものよ」
お互い本気では言っていない。顔を見合わせて、笑い出した。
「これだけ至れり尽くせりなら、いっそ皆も呼んでささやかな祝勝会にでもすればよかった」
「それだとまたあなたは皆を労う事に気を使って、休まないでしょ。それとは別に休んでくれるのならいいけれど」
「祝勝会をした上に休むなんて、できる訳ないだろう」
「ほら、そういう性格だもの。責任感が強いのはいいけれど、限度と言うものを知らないわ」
「限度を知っていれば、強大な敵をあえて求める様な無茶はできないからな。こればっかりはどうしようもない」
銀華が大げさにため息をついてみせる。
「あなたって本当に変わらないわね。一人にすると見てられない、初めて会った時とおんなじ」
「……いや、変わったさ」
「そう?」
「ああ。ほら、音が変わった」
「音?」
音と言われて銀華が耳を澄ますと、粒状の物が屋根を打つパラパラという音が小さく聞こえた。
「濡れ雪だったのが、粒雪に変わった。冷えてきた様だ」
銀華は何も言わず、ただ呆れ笑いを浮かべていた。
「冬になれば、雪は目まぐるしく変わる。同じ雪の様でも、気付かぬうちに全く違う雪が降っている。同じ様に見えても、結構目まぐるしく変わっているものだ」
年の瀬はまだ遠い。この雪も数日で消える。だがそれでも、雪の降りしきる冬の夜は、目まぐるしく表情を変えながら、同じ様に更けていった。




