2・迷いと覚悟と
コズカタ城の周囲には、まず大邸宅が建ち並んでいる。コルネリウス家の家臣団の中でも上位に位置する者達の屋敷である。
そこから周辺に中下級の家臣の家、さらにその外側に、金持ちの屋敷や大商会の建物が建ち並ぶ一等地、庶民の居住区と同心円状の街並みが形成されている。ヴァレリウスの私邸は当然、城に近い位置に建っていた。
コルネリウス家程の大貴族となると、領地を持つ分家や、家臣になった下級貴族なども珍しくは無い。
その中でもヴァレリウスの家は、コルネリウス家領全体の6分の1にも及ぶ最大の領地を持つ身である。もっとも、独立した貴族と違い、領地に対する権限はそれほど強くは無く、半分は本家の代官の様なものである。
その領地はコルネリウス家の領地全体の南方に位置し、シュヤ家と接しているのでヴァレリウスが南方の守りを任されたのは、順当と言ってよい。
だがヴァレリウス自身は、どうしても北の安東家が気になって仕方が無かった。かと言って今さらどうもできないので、せめて今年中にできる事をしてから領地に向かおうと考えていた。
北部程ではないにしても、南部も冬は大軍を動かすのに適さない程度には雪は降るし、例えシュヤ家が今すぐ攻めてきたとしても、整備された街道を急行できるのだから、持ちこたえている間に到着する事は、十分に可能なはずである。
「ご主人様、先程からため息ばかりつかれておりますが、少しお休みになっては?」
ふと我に返って書類に向かっていた顔を上げると、30程の朴訥そうな男が心配そうな顔をしていた。
「スギムラ、私はそんなにため息をついていたか?」
「はい、ため息で呼吸をしているのかと思う程でした」
「そうか、体の方は大丈夫だ。心配をかけたな。すこし休憩してお茶でも飲もう、淹れてくれ」
「承知しました」
お茶が入れられる間に机の上の書類を片付ける。結局ほとんど頭に入らなかった。お茶を飲むと香りと温かさで少しは心が安らぐが、根本的に悩みは晴れない。
「スギムラよ、私はどうしても不安がぬぐえない。有利な条件を背景に敵の疲れを待ち、十分休息を取った軍で疲れた敵を討つ、それはどこにも間違いは無いはずなのに、それではいけない様な気がしてならない」
「何故、そう思われるのですか?」
不安を吹き飛ばしてくれる様な明快な答えは期待していなかった。スギムラは決して優れたところのある人物ではない。ただ誠実で口が堅い事を気に入って傍に置いていた。
有能な者はむしろ本人の意思を確かめて、本家に推薦する様にしていた。ただ今は、独り言に相槌を打ってくれる事が有りがたかった。
「何故と言われても解らない。だが戦いはいかに自分の土俵で戦うかに尽きる。我々は自らの領内と言う自分の土俵で戦って相手を消耗させるつもりでいるが、実はそれこそ敵の望んでいる土俵では無いかと言う気がするのだ」
「敵から見れば、敵地に乗り込んで戦う事を望み、そこに勝算を見出している。という事ですか?」
「そうとしか思えん。だがなぜそれが勝算に繋がるのかが私には解らない。
だから解らないなりに手を打とうと考え、こちらから攻め込む事と、戦場となる北部の領民の格差問題を是正する事を訴えたが、結局どちらも通らなかったな」
「それが、ご主人様の心を重くしているのですか? 公爵様にご自分の意見が入れられなかった事が」
「そうでは無い。元々自分でも確証が持てないのだ、意見が入れられなかったとしても仕方が無い。
むしろ、私が5年早く格差問題に気づき、進言していればこの様な悩みを抱える事も無かった。危機が迫ってから慌てて対策を練る方が遅いのだ。
だが遅くとも、何もせずに居るよりは良いはずだ。できる事は多くは無いが、それでも今年一杯は猶予がある。今は、その間にできる事をしようと言うだけだ」
「ご主人様は、決して間違ってなど居ないと思います。戦の事は私には解りませんが、5年前のご主人様がするべき事もせずに、ただ安逸を貪っていた訳では無い事は覚えております。ならば、あの時のご主人様は決して間違ってなど居ないと思います」
「間違いかどうかは別として、確かに私はいつだって力を尽くしてきたつもりでいる。
だがそれで全てが上手く行くのなら、誰も悩みはしないだろう。あの頃の私は確か……そう、昌国君が戦乱の蒼州を駆けるのを横目に、変州に戦火が及ばない様に、及んだとしてもボヤの内に消し止められる様にする事に全力を挙げていたはずだ。
あの頃に、5年後の未来を予測する力があれば何かが違ったのだろうか……いや、それができたとしたら、それはもう神と言うべきかもしれないな」
「未来が見えたら神様ですか?」
「未来を予想して手を打つ事は、少なくない者がやっている。だが実際は、予想を超えた事が起きて翻弄される事の方が多い。
少なくとも私は、来年の今頃どうなっているかを予測する事も出来ない。私にできるのは、ほんの少し先の事を考えて、手当たり次第思いつく限りの備えをしておく位だ。
だからとても遠い未来の事なんて手におえない。だが……」
「だが?」
「アンドウ家の若い当主、タカアキと言ったか。彼にはひょっとしたら未来が見えているのかもしれない。まるで先の事を知っているかの様に行動する人間は、歴史の中には確かにいる。
彼はそういう人間なのだろうか? それとも単に自分の予想で動いているだけなのだろうか? ……どちらにしても、今の私には知りようも無いか」
飲みかけのカップを一度置き、大きく息を吐く。
「シュヤ家の方ならば、戦おうとする理由も解るのだがな。昌国君が霊帝に尽くし、霊帝が崩じた後は生前以上に尽くした結果が、有形無形の嫌がらせの末の討伐では、反旗を翻して当然と言うものだ。
それも外戚のアウストロが、自分達に並ぶ勢力と化す事を恐れての、無理な討伐戦の強行ではなぁ」
「戦おうとする理由が解るのなら、戦わずに事を収められませんか?」
「難しいだろう。あの時もあの様な戦は止める様に上申書を都に送ったが、内乱の中でうやむやになってしまった様だし。皇統が割れた今ではその様な事に興味を割く余裕も無い事だろう。
コルネリウス家の権威をもって独断でシュヤ家の赦免をすると言う手もあるが、一度武器を手にさせてしまった今では、そう易々と言葉だけで矛を収めさせるのは難しいだろうな。
アンドウ家と結んだ時点で、いや、ヤリュート家と縁戚を結んで時点で、もう後戻りはできないと心に決めた事だろう。今からその決意を覆すのは難しい。
試みる価値はあるだろうが……ルキウス様が一度剣を向けてきた相手を、許す気になるかは怪しいな」
「一度侵略する側とされる側の関係ができてしまうと、対立を解消するのは難しいのですね」
「そうだな……。そうか、だからか」
「ご主人様?」
「一度侵略する側とされる側の関係ができてしまうと、対立を解消するのは難しい。400年昔に我らの先祖が行った事を、彼らはまだ覚えているのだろう。
だからどれほど不利な情況でも戦う事を選ぶ。我らはとうに忘れた昔の事を、彼らは痛みとして覚えているのだろう。ましてや忘れた我らは、対立を解消する努力を何もしなかった。
彼らにしてみれば、自分達のした事をあっさり忘れる我らが許せないのだろうな……」
決して確証が有る訳ではない、勝手な推測にすぎない。しかし自分達を敵として見る者達が何故そう思うのかは、きっと大きくは間違ってはいないだろう。元はと言えば自分達が蒔いた火種、そういう事なのだろう。
ヴァレリウスが空になったカップを置き、スギムラがそれを片付ける。また書類に向かおうかと思ったが、スギムラの後姿を見てふと手を止めた。スギムラは代々仕える家臣ではない。昔からのこの土地の住人であり、それを自分が従者にした者だ。
席を立ち、窓から街並みを眺めた。屋敷は高台に立地している上に、ここは3階なので遥かに街を囲む市壁の向こうの農地までも見える。
スギムラが戻ってきたとき、ヴァレリウスはつぶやく様に言った。
「スギムラよ、今更だが、これからいう事は決して誰にも言わず、忘れてくれ」
「今更でございますな」
解りきっているのに、念を押さなければならない。何も言わずとも、心から信頼するという事ができない。自分の弱さだなと、自嘲した。
「我々は、なんなのだろうか?」
「と、言われますと?」
「その昔、私の先祖とこの地の民が戦った時代は、我々は明確に敵同士だった。
私の先祖が勝ち、この地の支配者としてやって来てからは、支配者と被支配者だった。
だが今は何なのだろう。確かに表向きは、支配者と被支配者の関係は変わってはいない。だが長い時の中で、この地の少なからぬ人間と血を交えてきた。
私個人の人生を振り返っても、この土地で生まれ、この土地の水を飲み、この土地が生んだ食物で育ち、この土地の冬の寒さに震え、雪と戦い、春の訪れを喜んで生きてきた。
それは、貴族であろうと庶民であろうと、本質的に同じではないのか。ならば、我々は敵同士ではなく、支配者と被支配者と言っても、根本的な違いは無いのではないか」
そこまで言って一度言葉を切った。ここから先は、それこそコルネリウス家の存在意義を否定する、他人の前では絶対に言えない事だ。
「我々はこの土地の者と……それこそ長らく監視対象であった朝敵・アンドウ家の人間とですら、同じ変州に生きる者として、手を取り合って生きていくべきなのではないのだろうか。
我々はもう、都からやって来た皇族と言うには、この地に長く住み過ぎた。だからこそルキウス様は事あるごとに我らが皇室の藩屏である事を言い立てて、自らの存在意義を確認しているのかもしれん。
だがむしろ、皇族に連なる事を捨てて、ただこの土地に生きる同じ人間として接する。それこそが本当に変州の、いや、我らの故郷の安寧に寄与するのではないだろうか?」
我ながら過激な発言だった。スギムラは心配要らないが、もし誰かが偶然今の話を聞き、本家に密告したら最悪死罪になってもおかしくは無いだろう。
だが間違ってはいないはずだ。コルネリウス家の血を引く自分と、アラハバキの血を引くスギムラが、こうして主従ではあるが、共に生きれるのならば、他の者とも共に生きれるはずだ。
自分はいつからこの様な考えを持つようになったのだろうか。記憶の糸を手繰ってもそれは判然としない。
強いて言うなら、この土地で生きた35年の人生がこの思いを抱かせたと言うべきだろう。本家の者と違って、私領を見回って庶民と言葉を交わす機会も少なくなかった事も原因かもしれない。
本家では領内の見回りなどは家臣に任せ、その家臣も主君の代理として高圧的な態度を取るばかりであろう事は、想像に難くない。良い悪いではなく、身分が高くなり、抱える仕事と責任が重くなるとはそういうものだ。
「私の様な無学な者には難しい事は解りません。しかし、コルネリウス家であるという事は、それほど大事な事ですか?」
「大事と言えば大事だが、何故そう思う?」
「少なくとも、私のご主人様はヴァレリウス様以外にありえません。それはご主人様がコルネリウス家の人間だからでなく、何と言いますか……ご主人様がご主人様だからです」
「私が私だから?」
「申し訳ございません。この様な良く解らない言い方しかできなくて。
ですが、ご主人様がご主人様であるように、コルネリウス家であろうとなかろうと、領主にふさわしいと皆が思えば、それは領主様で良いと思います」
「素朴な考えだな。良い領主でさえあれば、それが誰であろうと領主で問題ないと、民はそういうものか」
「それではいけませんでしょうか?」
「いや、それでいいのだろうな。だが現実には、それだけでは済まない色々なしがらみと言うものがまとわりついてくる」
「なんとなく、解ります」
「それに本質的に同じと言ったが、やはり国が違えば人は違う。州をまたげば文化も生活も違い、そこに住む人の性質にも違いがある。違う人間は、やはりどこか相容れないだろうな。甘い考えだったかもしれん」
「そうでしょうか。私はご主人様に付いて回った限りの土地しか知りませんが、どこにも遠くから来た人と言う者は居て、彼らと話したり、物を売り買いしたりはできます。
確かにそういう人達は見知らぬ土地になじめず、故郷を懐かしがったりしていますが、それでもそこに住みつく人も居ます。ならば、相容れない事は無いと思います」
「そうか……、相容れない事は無いか。いや、この話はこのくらいにしておこう。でないと誰に聞かれるか解らぬからな」
「聞かれると、よろしく無い事になりますか?」
「その可能性は高いな」
「では、私は今の今まで居眠りをして、夢を見ていたという事で」
「それはいい。私もつい居眠りをして寝言を言った、そういう事にしておこう」
そう、この思いは所詮夢なのだ。夢は夢で、心地良ければそれでよく、現実が夢に引きずられてはならない。夢は寝ている時だけ見れば良い。現実の自分にあるものは、ただコルネリウス家と、皇室への忠義だけだ。
「そう、私はただ忠義を尽くすだけだ」
「ご主人様、思いがお声に出ております」
「む……いかんな、まだ寝ぼけているらしい」
「その様で。私には難しい話も、ましてや夢の話も解りませんが、ご主人様の言う忠義は私にも解る気がします。
ご主人様が忠義を尽くされようとするのは、私がご主人様に尽くそうと思うのと同じでございましょう。つまり、好きなのです」
「好き、か……。そうだな、私は自分に何よりも尊い血筋と、それに伴う誇りを与えてくれたコルネリウス家と、皇室が好きで、そしてこの土地も好きなのだろうな。
だから、自分にできる限りの事をして、役に立ちたいと思う。忠義とはそういうものかもしれんな」
いつしか未知の敵に対する不安も、自らの考えを入れられない不満も消えていた。スギムラの無学だが、純粋な言葉に接していると、自分も忘れていた何か純粋なものを思い出すような気がする。
そうすると、不思議と胸のつかえがなくなるのだ。今はただ、力を尽くしてみようというだけがあり、その結果がどうなろうとも、それを素直に受け入れようと言う気持ちがある。
「私個人の思いがどうあれ、それ以上に大切なものがある。私にとってそれは皇室の安寧であり、そのためにコルネリウス家が強く、役目を果たす事であり、そのために分家の者として、本家のために命すら投げ出す事だ。
命より重い何かが、確かにある。忠義を尽くす事によって、その何かを貫く事ができる気がする。
ならば迷いは無い。誰であろうと、コルネリウス家の敵として我が前に立つならば、全て打ち破ってみせるのみだ」
この日、複雑な思いを抱えながらも、一人の男が覚悟を決めた。




