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日の出前だった。
安東家とシュヤ家の同盟を無事締結し、肉体よりも精神的な疲労を感じて寝床に倒れ込んでから、まだ8時間は経っていないはずだ。
元々低血圧気味な高星は、無理に起こされて朦朧としている。それでも周囲の様子を探り、屋敷の全員が叩き起こされる様な事態では無い事は把握する。
「エステル、一体何事だ」
「高星に客が来ている」
「客だと? こんな時間に? ……シュヤ家の使いが何か持ってきたか」
今居るここはシュヤ家の本拠であるタガ城内の屋敷である。そこに夜明け前と言う時間に、シュヤ家の人間以外の者が訪れるとは考えにくい。
そしてこんな時間に訪れるという事は、緊急を要する事か、秘密裏の話のどちらかと見るべきだ。
「それが……シュヤの者ではなく、シュヤという者だと言っている」
「シュヤの者ではなく、シュヤという者……? ああ、そういう事か。身支度をして会うから、待ってもらえ。着替えを――」
「着替えはここ、それと隣の部屋に湯漬けと濃いお茶を用意しておいたわ」
「銀。助かる」
「お客様にお茶をお出ししなくちゃ。濃いお茶と、芋の焼き菓子がいいかしら?」
銀華がいたずらっぽく笑う、高星もにやりと口角を上げた。
「そうだな、もてなしてやれ」
着替えた高星は、銀華の用意した湯漬けと茶を腹に収めて客間に向かった。濃い茶を飲んだおかげで少しは頭が冴える。
客間で待っていた客は、もはや確認するまでも無かった。強いて言うならば、一人だという事が多少意外と言えるだろうか。
「ずいぶんな時間に遊びに来るものですな、ナリチカ殿」
「そう言う割に、思った程反応が無くて少々つまらないと感じている」
客はやはりシュヤ家当主ナリチカ・シュヤその人だった。
「笠を深くかぶって顔を見せない様にしていたのだが、あっさりとバレてしまったな」
「こう短い間に何度もしてやられたら、嫌でも貴殿の手口は覚える。名乗りを聞いてすぐにピンと来たわ」
「やれやれ、それでささやかな意趣返しにこの茶と茶菓子か。こんな時間からこんなものを腹に入れたら胸焼けを起こすわ」
「で、何の用だ? なにかまずい事でも?」
「いや、そういう事は何も無いから安心していい。実はアンドウ殿を誘いに来たのだ」
「誘い?」
「これから一緒に馬を駆けないか? できれば伴を連れずに二人きりで」
「野駆けか、最近ずっとやっていないな」
「そう遅くはならん。と言うより、あまり一人で遠出をするとこっちもミツツナ辺りが煩くてな」
「私も同じ様なものだ。だからこそ、偶にはよかろう。すぐに出るのか?」
「こちらはいつでも準備はできている」
「では急いで支度をするとしよう。エステル、伴は不要だ。ちょっと行ってくる」
エステルは何か言いかけて、渋い顔で口をつぐんだ。護衛として高星を一人で出歩かせる様な事はしたくないが、副官として高星の決めた事には異を挟まない。
「苦労を掛けるな」
高星もそれを解っていて、少し申し訳なく思う。
「いや、高星の望む様にしてくれて結構。気を付けて」
「そうか、では行ってくる」
◇
市街地から西に丘を越えた、城の背後には広々とした野原が広がっていた。
伴を連れぬ二騎の影が、夜露に濡れた野原を歩く。
東の空が白み始めると、明るくなるのは早かった。深草色の野原に日が差し、若草色に染まっていく。露の玉が朝日を受けて輝き出す。
それを蹴散らすように、速歩で馬を歩かせる。辺りが明るくなるにつれて競う様に馬速を上げ、駈歩で走り出し、やがて襲歩で全力疾走をする。
広大と言う程でもないが、広々とした野原を駆ける。風が頬を撫で、耳元で鳴る。道無き原野を駆け抜けると、朝露が舞い、光が降る。
血が叫んでいる気がする。自分の中に流れる、騎馬民族の血が、これに勝る快感は無いと叫んでいる。それに応える様に、さらに馬速を上げた。
初め並んで駆けていた二騎に、僅かだが差が付く。高星が、頭一つ抜ける。
その僅かの差が、徐々に開いていく。ナリチカも全力で駆けさせるが、差は縮まるどころか開く一方だ。
やがて一馬身前に出た高星がナリチカの行く手を塞ぎ、縦列になる。ナリチカは左右を抜けようと馬首を振るが、その度に高星が振り返りもせずに行く手を塞ぐ。
ついにナリチカが手綱を引いて馬を止める。前を駆けていた高星も馬首を廻らし、並歩で歩かせて戻ってくる。
「いや、参った。馬術には自信がある方だったのだが、高星殿にはまるで敵わなかった」
ナリチカは本人も馬も息を上げている、一方の高星は涼しい顔だ。
「秘訣の様なものがあるならぜひ教えてもらいたいものだ」
「そう大したものは無い。ナリチカ殿は常に全力で駆けていた、だが私は八割の力で駆けさせ、残り二割の余力を情況を見て出したり引っ込めたりしていた。秘訣と言うならその位だ」
「なるほど、常に全力でいるのは効率が悪いという事か」
「まあ、そんなものだろう」
「アンドウ家の騎兵は皆こうレベルが高いのか? 敵に回さなくて良かったと今心底思った」
「まあ、この程度は皆できるが、騎兵と言うならそちらこそ音に聞こえた『鴉軍』が居るだろう? 昌国君と共に戦場を駆け続けた、漆黒の精鋭騎馬部隊の勇名を知らぬ者は居ない」
「確かに鴉軍は父上が残してくれた信頼できる精鋭だ。だがアラハバキの騎兵は、長弓を用いて驚くほど正確な騎射をすると聞く。そんな真似は鴉軍にも不可能だ、一体何が違うのやら」
「そうだな、まず騎射は今の様に襲歩では行わない。一瞬とは言え足が全て宙に浮く襲歩は、足を取られたときに立て直しが利かず転倒するからな。早くとも駈歩を使い、足を払われても転倒しない様に駆けさせる。この辺は弓を使わない騎兵でも同じだろう。
だが大きな違いは歩法だな、我らは馬を調練して側対歩という歩法をさせている。通常の歩法とは違い、馬の前足と後ろ足が左右同時に出る歩法だ。
これで格段に揺れが少なくなる。つまり騎射の狙いが定まりやすくなるという訳だ」
「おいおい、そんな事をペラペラしゃべっていいのか?」
「知られたところで真似できる様なものでもないからな。敵ならばこのくらいの事は探り出すだろうし、味方に隠す意味も無い」
「そうか、やはりお前に出会えてよかったと思う」
「なんだ、藪から棒に」
「少し、場所を変えよう。付いて来てくれ。その間に、俺の思いを語ろうと思う」
そう言ってナリチカは、また馬を歩かせ始めた。すでに息も整っている。高星もそれに続いて馬を歩かせ、歩かせながら少し考えて、ナリチカの隣に付いた。
「それで、何を語ろうというのだ」
「昨日、お前が語った覇道についての答えと、俺自身の夢、と言ったところかな」
「私自身、自分の思い描くものが欠陥だらけな事は承知している。だが考えた末にそれを作り上げたし、今もまだ考え続けている」
「それだけで十分俺にはできなかった事だ。俺は国への忠義に生きた父上に報いようとしないこの国に反発し、それなら俺が天下を奪ってやると考えていただけだ」
「臆面も無く天下を奪うと口にできる時点で、お前も大概だと思うがな」
「いや、俺はただ自分の力を試してみたかった、自分の力でどこまで行けるか知りたかっただけだ。
天下を奪うというのも、今の世にふさわしく、解りやすい目標だったからと言うだけで、それほど執着している訳でもない」
「天下を奪うと口にしたばかりなのに、別に天下に興味は無いと言うか」
「その程度なのさ、俺の考えていた事なんてものは。
だからお前の語った、中心は有っても頂点は無い国、下から支えられた国というのは、俺には衝撃的だった」
「もう一つ加えるなら、あくまで人が治める国、だ。支配者は、被支配者と隔絶された何かではない」
「そんな国を、お前は創ろうと言うのだな」
「それが、我らアラハバキの民が『人』として生きる事ができる国でもある」
「今の世では人として生きられないか?」
「生きさせてもらえない。それがどんなに残酷な事か、それは我が身で思い知った者でなければ解らないだろう」
「そうか。その国には、俺の生きる場所もあるか?」
「当然だ。この世に、居てはならない者など居ないし、居てはならない場所も無い。私の描く国ならばなおさらだ」
ナリチカはそうかと短くつぶやいて、黙った。高星は黙ってナリチカの次の言葉を待った。
会話の無いまま二人はいつしか山道を登っていた。そう高い山ではなく、道も普段人通りは無い様だが、整備はされている。
山頂まで登ると広場になっていて、奥に石造りの土台の様な物がある。
「ここは?」
「この山は太白山と言ってな、軍神・太白が戦の際に、この山に腰かけて指揮を執ったという伝説がある。
この石は祭壇の土台で、大きな戦の前には祭壇が築かれて太白神に戦勝を祈願する場所だ」
「この山を腰かけにしたのなら太白神の身長は1000mを超えるな。それで、ここに何があるのだ?」
「別に何も無い。ただ、この場所で言いたいと思った」
ナリチカが馬ごと振り返る、高星もそれに倣った。草原が揺れていた。風が吹く度に揺れて白い裏を見せる草が、漣の様に思えた。
「高星殿、俺は特に具体的な夢が有る訳でもなく、ただ大きなものに挑みたいという思いで天下を狙おうと考えていた。
だが、この手の届く土地に誰も見た事のない国を創るのは、決して天下を獲る事よりも小さな夢ではないと思う。
だから、俺も同じ夢を見ていいか。ナリチカ・シュヤ改め、朱耶克用として、安東高星が掲げた旗を、共に擁いてもよいか」
高星は答えなかった。答えられなかった。言葉の代わりに嗚咽が漏れそうで、口を開こうにも開けなかった。
これまで高星に付いて来て、同じ夢を見ようとした者達は皆、高星から手を差し伸べた者達だった。
今初めて、高星の掲げた旗を共に擁こうという者が現れた。予感はあったが、こちらから求めた者ではない、向こうからこちらに飛び込んできた者だ。
こんな思いを感じたのは銀華と出会った時以来かもしれないと思った。あの時、自分は一人では無い事を知った。今、共に立つ友が現れた。
限界だった。目頭の熱さをもう抑えられそうになかった。馬を駆けて坂道を下り、顔を見せないようにした。克用が後ろに付いてくる。
「太白だ」
「なに?」
「我らの旗は、太白星だ。共に同じ星を仰ぎ、掲げよう」
それが高星の精一杯の言葉だった。後はもう、涙を汗で誤魔化すために駆け続けた。
日暮れに太陽に最初に反旗を翻す一番星にして、夜明けに太陽に最後まで抗う星。そんな太白星を旗に掲げる。
ふさわしい。そう克用は思った。




