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地図を見ていた。
船室の壁に掛けた変州全域の地図である。無数のメモと糸が張り付けられていて、半分近く隠れてしまっている。
地図に直接書き込む代わりに紙を張り、線を引く代わりに糸を張る。こうする方が細かい変化にも対応できるし、張り替える事で今後の展開をシミュレートする事もできる。
この春、シバ家の隠居であるリョウシュンにしてやられた。
二大勢力であるコルネリウス家とシバ家を中心とする同盟を組まれた上、大義名分まで掲げられたのである。
領内で起きた反乱の鎮圧に掛かりきっているうちに、水面下で進められた。全てはリョウシュンの策謀と見て間違いないと思っている。
すぐにでも手を打つべきだとは思ったが、待った。焦って動けばかえって足をすくわれかねない。してやられた時ほど耐えて機会を待つべきだ。
待っている間に情勢は少なからず動いた。
まず蒼州の半分を支配下に収めた当代きっての猛将、ジギスムント・イエーガーが皇帝を名乗った。
以前皇帝を僭称して誰からも相手にされなかったユグノー公爵とは訳が違った。実力でこの十年戦乱の続く蒼州の半分を平定した男である。
はっきりと、この国に絶縁状を叩きつける行為だった。政府が自分達の住む土地の秩序と平和を守る事が出来ないのなら、新しく国を建て自分達の手で平和を確立するという宣言と言って良い。
当然、黙って認められたりはしないだろう。特に亡命政権の南朝よりも、帝都を抑える北朝の方はその威信にかけて潰そうとするだろう。まだ動きは見られないが、出方は注意しておくべきだった。
南朝は戦力増強のためにはもう、なりふり構わなくなっていた。ユグノー公爵を共同皇帝として認め、味方に引き込んだのである。
これでユグノー公爵の帝位も正当性を持った訳だが、南朝に二人、北朝に一人、さらに蒼州に一人で四人も皇帝が立った事になる。これでは帝位の重みも何も無い。
「棟梁、いいですか?」
「ジャンか? かまわんぞ」
ジャンが船橋の高星の部屋に入ると、高星は寝台にクッションを積み上げ、寄りかかる姿勢で横になっていた。45度より低い角度の背もたれに寄りかかった姿勢は、はっきり言って少しだらしない。
窓は日光は入らず風は通る様に鎧戸が閉められ、代わりの灯りとしてランプが吊り下げられている。
極め付きにそんな部屋でくつろぐ高星に、銀華が団扇で静かに風を送っていた。
「……エステルさんの言ってた事は本当だったんですね」
「エステルが何か言ったか?」
「棟梁は日差しが苦手だって」
「ああ、夏の日差しをずっと浴びていると、頭がくらくらしてくる」
「ひ弱すぎでしょう」
「そうは言ってもどうしようもない。それで、何か用か?」
「いえ、どうしてるかなと思いまして。お休み中でしたら出ていきますが」
「別にかまわんよ。休んでいたという訳でも無い。ちょっと四人に増えた皇帝の事を考えていた」
「ああ……あれは驚きました」
「全く前代未聞な事が続くものだ。皇帝達は今度は4人も居たら区別がつかないと言うので称号を名乗り始めたらしい」
「称号を名乗り始めた?」
「いままで皇帝は一人だったから、皇帝と言えば事足りた。その上初代皇帝が『自分の評価は自分の死後に行う事。生前に像を造ったり讃える事は禁ずる』として以来、歴代皇帝は死後に贈られる贈名はあっても、生前の称号は無かった」
「贈名っていうのは、先々代の皇帝を霊帝と言う様なあれですか?」
「そうだ。ちなみに殺された先代は先頃南朝が哀帝と贈った。北朝は帝位自体を認めない方針の様だ」
「ところが皇帝が増えすぎたんで、伝統に反して生きてるうちから称号をつけ出したと」
「そうだ。まず初めに南朝の皇帝がカルロス一世を名乗り、ユグノー公爵がロベール一世を名乗った。
それに北朝が対抗してチャールズ一世を名乗るというありさまだ。呆れたものだな」
「何というか、格好ばっかり張り合ってる感じですね」
「必ずしも無意味な形式だけとは言い切れないが、私もため息が出るよ。しかしこれからは、そういう中央の動向も頭に入れて動かねばなるまい」
「頭に入れて、どう動けばいいんでしょうか?」
「それを考えられるのは、うちでは私しか居ないだろう」
「うっ……まあ、そうかもしれませんが」
「役に立てない所で無理に役に立とうとしなくてもいい。出来ぬ事を無理してやるより、今できる事を確実にやれ」
「……解りました」
出来ない事を無理してやろうとするよりも、些細でもできる事を確実にこなすべきだ。それはそうだろうが、そこには何か悔しさの様なものが残る。
「棟梁、じゃあせめて今俺にできる事を教えてください。全部やりますから」
「今日はやる気があるな。なら甲板に出て、見張りでもしてもらおうか」
「見張り?」
「つまらない仕事と思うか?」
「い、いえ、決してそういう訳では」
「戦闘になる事はまず無いだろうが、尾けて来るくらいはするかもしれん。相手の出方を探るためにも、見張りは厳重にしておきたい」
「……コルネリウス家ですか」
「このあたり一帯の海岸線は、全てコルネリウス家の領地だ。商船ならともかく、はっきりと艦隊を組んでいる我らでは入港を拒否されるのは間違いない。それどころか――」
「向こうも艦隊を出してくるかもしれない?」
「そうだ。まあ奴らの艦隊など我らの1.5倍いても返り討ちにしてくれるがな。2倍いても悠々逃げ切れる。
それほど多数の軍船は備えていないはずだしな。あの家はやはり陸兵に重きがある」
「でも戦わずに後を尾けて来るくらいの事はしてくるかもしれないと」
「そうだ。だからよく見張って、いち早く見つけて報告しろ。徹底的に振り回してやる。まあ、出てくるかどうか保証は無いのだが」
「解りました。しっかり見張ります」
「うむ。甲板で潮風に当たるのは船に慣れるのに一番良いしな」
◇
勇んで甲板での見張り任務に就いたものの、結局ただの一隻も軍船の船影は見つからなかった。せいぜいもっと岸に近い所で漁船が漁をしているくらいだ。
そもそも帆柱の上に檣楼があって見張りが立っているのに、それより低い甲板の上で見張りをする意味は無かった。高星がそれを知らぬ訳がないので、単に船に慣れておけという心づもりだったのだろう。
やがて夕日がはるか水平線の彼方へ沈み、代わって星々が空を埋め尽くす様になった。
これから夏に入る頃なので夜でも多少厚着をすれば寒くはなく、甲板で満天の星空を眺めるのも悪くはなかった。
「やれやれ、ようやく涼しくなったな」
日中、ずっと船室にこもっていた高星がようやく出てきた。
「棟梁、お遅うございます」
「なんだそれは、冗談にしても出来が悪いぞ」
「そうですか?」
「お早うございました、とでも言ったほうがまだユーモアがあると思うが」
「大差無い様な気もしますが」
「まあそれはいい。星を見ていたのか」
「初めはそうでしたが、月が細くて暗いのでだんだん海と空の違いが解らなくなってきて。今では海を見ているのか空を見ているのか、自分がどこに居るのかさえ解らなくなりそうです」
「確かにこういう夜は海も空も解らなくなるな。しかも陸と違って船ごと自分も揺れているから、自分の存在さえ虚空に浮いた幻の様な気になる。
だがこういう時こそしっかりと自分の存在を確かめなくてはならん。心を強く持ち、自分に自信を持って立たなくてはいかん。でないと揺れに翻弄されて、暗い海に投げ出されるかもしれない」
高星の言葉にジャンは思わず船縁を強く握りしめた。暗がりながらそれに気づいて高星が笑う。
「そう固くなる事はない。むしろ変に力が入っている方が危ないのだ。時たま大きく揺れても力を入れずにさばけばいい。『柔よく剛を制し、弱よく強を制す』柔軟な対応こそが大事なのだ」
「柔軟ですか、体の柔軟なら自信がありますが」
「はっはっは、怪我をしにくくていいなそれは」
しばらく星空を眺めながら他愛無い事を話し続けた。雑談の種も尽きかけてきた頃、ジャンは今度の旅の目的について切り出した。
「棟梁、この旅の目的はシュヤ家の当主の結婚祝いをしに行く事ですよね」
「そうだ」
「でも本当の目的は、シュヤ家との同盟を結んで南北挟撃の態勢を作る事、ですよね?」
「そうだ。まあその位は皆言わなくても解っている様だな」
「話をまとめる勝算はどのくらいですか?」
「落第」
「は?」
「前提として、聞くことが間違っている。勝算うんぬんの前に、シュヤ家が同盟を組むに値するかどうかだ。足手まといな味方は敵よりも性質が悪いからな」
「う……なるほど、こっちから願い下げという事もあり得るのか。では改めて、シュヤ家は組むに値する相手でしょうか?」
「正直、以前ほど期待はしていない」
「なぜ?」
「結婚相手に選んだのが、ヤリュート侯爵家の一人娘だという点が腑に落ちない。
ヤリュート家は位こそ侯爵だが、六百年程前に全盛を迎えた国の王家の末裔という事で侯爵位を得ているだけで、今はうちと比べても半分くらいの力しか持たない弱小勢力だ。
しかも国境の山の利権をめぐってシバ家と長年揉めている。そんな家と縁戚を結んだらわざわざ強大なシバ家を敵に回す様なものだ」
「山の利権ってなんですか?」
「伝聞だが、銅が出る鉱山らしい。シバ家はその鉱山が欲しくて金で買うと言ったり、領地の交換を提案したり、脅しをかけたりしたそうだが、ヤリュート家の方は領内を流れる唯一の川の水源である山が、鉱毒を出す様になってはたまらないと拒否し続けているそうだ。
おかげで今では兵を出しての小競り合いが絶えないらしい」
「そんな家の娘と結婚したら、シバ家との揉め事も一緒についてくると」
「そういう事だ。形式上は格上の相手とは言え、わざわざ厄介事を抱え込む様な結婚をするとは、シュヤ家の当主……確かナリチカと言ったな、名将・昌国君の子とは言え、案外大した人物ではないかも知れん。そもそもまだ19のはずだしな、若くて勢いがあるだけという事かもしれない」
「あんまり期待はできませんか?」
「せめて軍才があればまだ組む価値はあるかな。まだ大きな戦いは経験した事が無い様だが、かの軍と少しにらみ合った感じでは悪くはなさそうだった。
まあ、シバ―コルネリウス同盟がある以上、共通の敵を持つという事だけでもまだ組む価値はあるかな」
「そういえば棟梁は去年、シュヤ家相手の戦に行ったんでしたね」
昨年の秋、まだ高星が安東家の当主となる前の事。シュヤ家討伐の命令が政府の意を受けた属州総督から出され、安東家も参戦した。
ただその戦は多くの貴族の支持を得られず、高星も参戦に反対したが止められなかったので、食糧監督役として同行して実戦を回避するつもりでいた。
結局、帝都で内乱が起こり哀帝と皇后が殺害された事により、うやむやのうちに解散する事になったが、あの一件で高星は当主の座を武力で奪う事を決意したと言って良い。
「まだ一年も経っていないが、もう懐かしいな。あの時戦いを回避するために密書を銀に送って持たせた相手と、実際に会って言葉を交わしてみる訳か」
「どんな気持ちですか?」
「どんな気持ちも何も、私の戦略に沿って会談し、利益を得られる様に動くだけだ。
私情は無い。だが失望させて欲しくは無いと思っている。これは計算か私情か区別に困るところだな」
「シュヤ家の若い当主、ナリチカ・シュヤ……棟梁の役に立つ様な人物であればいいですね」
「そうだな。役立たずでも役立てるのが上手い人の使い方というものだが、できれば有能な男であって欲しいものだ」
夜の微風に吹かれて、どこまでも暗い海を船は進んでいった。
いつしか進む先に、さそりの火と呼ばれる真っ赤な星が座していた。それは行く手の明るさを示す様でもあり、また不吉を示す様でもあった。




