4・調虎離山
節が変わった。
第8節1日、春雨が田畑に水を恵む時期とされているが、この北国ではまだ植え付けも始まっていない。
安東軍の陣は、朝から意気盛んだった。昨夜ついに、南部国境を守備する歩兵第四大隊から引き抜いた二個中隊約二百五十が到着し、総兵力は千五百を超え敵の三倍となった。
味方が多い事はやはり安心感をもたらすもので、敵の三倍と言う解りやすい有利な条件は士気を大いに高めた。
同時にこの士気の高まりは敵陣からも察せられるはずであり、それは敵の士気を削ぐ効果も期待できた。
二百五十の援軍は、早くもその数以上の働きをしたと言える。
ジャンもまた陣営内の高揚感に当てられ、いつになく精気が満ちた様な朝を迎えた。起床後、一連の運動と朝食を済ませると、今日の指示を仰ぐべく高星の幕舎へと入った。
「おやぁ~、ジャン君じゃないですか、おはようございます」
「ぎゃああ!? ホフマイスター博士!?」
「そんなに悲鳴を上げて驚く事無いじゃないですか~。あまり驚かれると……もっと脅かしてみたくなりますねぇ~」
ヘラヘラニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべる博士。ジャンとしても出会う度に飛び上がる様な無様を晒す事は不本意なのだが、体の奥底が危険信号を発し、どうしても飛び上がってしまうのだ。
「なんで博士がここに? いつ来たんだよ!」
「いつと言われれば、昨日第四大隊と同じくらいのタイミングでですねぇ~。なんでと言われれば、技術面で協力できる事はしようと思いまして」
「実際いい時に来てくれた、丁度用意したいものがいくつかあるのでな。
……と、ほらこの書付を工兵隊の隊長に見せれば便宜を図ってくれるだろう」
「じゃあ頑張って期待に応えますかねぇ~」
そう言って博士は、書付を人差し指と中指で挟んでヒラヒラさせながら出て行った。
「で、お前は何だ?」
「いえ、今日の指示を」
「ああそうか。そうだな……丁度良い、手薬煉を貰って来てくれ」
「手薬煉?」
「物資係に言えば解る。行け」
「はいっ」
良く解らないまま物資集積場に行き、手薬煉を求めると小さな壺を渡された。蓋を開けて中をのぞくと粘性の高い軟膏が入っている。
幕舎に戻ると高星はすでに軍装に身を包んでいた。ジャンが戻ると待ちかねた様に壺を受け取る。
「棟梁、結局それは何なんですか?」
「これはな、松脂と油を煮詰めた接着剤だ。これをこうして革手袋の掌に塗る、そしてこの様に弓を掌に張り付けるのだ」
「なんでそんな事を?」
「馬上での戦いは手綱を取ったり、剣を手にしたりと何かと忙しい。そんなときいちいち弓をしまってはいられないし、かと言って落としてしまえば終わりだ。だからこうやって手を放しても弓が掌に張り付く様にしておくのだ」
「へぇ、そんな工夫があったのか」
「まあ、我らの弓は竹でできていて軽いからできる事だな。他所の短弓ではそもそもあまり邪魔になると言う事は無いのだろう」
話しながらも高星は弓矢や剣、鉢巻きの締りなど各部を確認し、小さくよしとつぶやくと幕舎を出た。
幕舎の前にはすでに馬が引かれており、高星は颯爽と跨る。
「ジャン、親衛隊には待機命令を出してある。お前もエステルの下で次の指示を待て」
「棟梁、御武運を!」
「そんな大層なものでは無いが、ありがたく受け取っておこう」
◇
騎馬隊に告げられた作戦は次の様なものである。
反乱軍は隘路に布陣しているため、左右に死角の多い事を利用し、向って左、東側から接近する。
接近したら右に進路を変えて、反乱軍の鼻先を駆け抜けながら矢を撃ちこむ。そのまま向かって右、西側をこちらの陣地前まで戻る。いわば時計回りに回転する動きである。
これを何回転もしながら繰り返し攻撃を掛ける。反撃を受ける危険は少ないが、こちらも攻撃を仕掛けられるのは、相手の鼻先を駆け抜けるわずかな間である以上、大きな被害は与えられそうには無い。
高星の狙いは、自らある事を確認する事にあった。
騎馬が駆け始める、高星は先頭を駆けていた。騎馬の戦いは、歩兵の様に後方で指揮を執る事はできない。先頭を駆けながらでなければ、騎兵の自在な運用はできない。
崖が目の前に迫ってくる、まだ直進を続けた。相手の備えが無い、最初の一回が最も踏み込む好機だ。50mを切ってもまだ進む。
崖に激突するまであと30mと言う所で進路を変える、だが直角に曲がれる訳では無い。曲がりながらもさらに接近し、ついに15mまで肉薄した。
矢をつがえ、弓を一杯に引き絞り、体を左にねじる。流鏑馬と同じだ。急に視界が開けたその一瞬を逃さず矢を放つ。
矢はバリケードを越え、数人の頭上を越え、奥の方に居た一人に突き刺さった。
死にはしないだろう。殺傷力の低い、突き刺さるだけの矢を使っている。本気で殺すときに使う矢は、刃と返しが付いている物で、血管を切断して失血死させる効果が高い。
三百騎が高星の後に続く、矢を撃ちこめる時間は短いが、的確に撃ち込んでいる様だ。しばらく直進してから、馬首を陣の方に向けた。
二回目以降は敵も迎撃をしてくるので、ずっと距離を取る必要があった。休憩を挟んで不規則に攻める事も考えたが、崖の上に見張りがいるならばあまり意味があるとも思えなかったので、休み無く攻め続けた。
敵とぶつかる以外の動きが大きいこの戦い方は疲労も激しいので、午前のうちに切り上げて、また歩兵の戦いを始めさせた。騎兵に一人として戦闘に支障の出る様な負傷をした者が居なかったのは、十分高星を満足させるものだった。
それ以上に高星は、自分の望むものを得ていた。騎馬で駆ける以上、常に前方から風を受ける中で、船に乗り、風を読む高星の感覚は確実に風を掴んでいた。
谷の奥から、確かに風が吹き出していた。
◇
「高星、どうやらこの戦に勝つ方法を見つけた様だな」
親衛隊が集められていた。高星の幕舎は今、他の者は立ち入りを禁じていた。
「解るか? エステル」
「お前が私達だけを呼んで密談をするなど、他にあるまい」
「そうか、もっと周囲に悟られずに指示を出す方法が要るな」
「まあ今は良い。それで、どうやって敵を下し、私達はどう動けばいい」
「うむ。まずこれを見ろ」
高星は、作戦会議の時に使うよりも縮尺の大きい地図を、卓上に広げた。
「反乱軍はこの谷に陣取り、入り口を固めて一度に大軍で攻められない様にすると言う、兵法の常道を以て我らに対している。
これはどちらかと言えば、敵を打ち破る戦い方ではなく、時間を稼ぐ戦い方だ。敵は外部の援軍を待っていると見て間違いないだろう」
「だから我々は早急に敵を打ち破る必要がある訳だが、その手立てが見付かったのだな?」
「元々策は有った、そしてそれを為すために必要な条件も揃った。お前達がその実行役だ」
「ちょっと待ってくれ」
ここでイスカが待ったを掛けた。
「私達以外の兵は、完全に信用はできない。棟梁様はそう言っていた」
「ああ、言ったな」
「なら、大事な作戦の時に私達が棟梁様の傍を離れるのはどうかと思う。勝負を仕掛ける時こそ、私達が棟梁様を守るべきじゃないか?」
「気持ちはありがたい。だが逆だ。大事な作戦だからこそ、最も信用の置けるお前達にやってもらうのだ。
他の部隊の方は、むしろ私自ら目を光らせて、変な気を起こさない様にさせるべきなのだ。もしそれで私が死んだら、その程度の男でしかなかったと諦めよう」
「そんな! 棟梁様はこんな所で倒れていい人じゃない! もっと自分を大事にしてくれ」
「なに、騎兵は昔っから私を高く買ってくれている、いざと言うときは彼らが守ってくれるさ。もし騎兵にまで背かれる様なら、生きようが死のうがそれで全てが終わりだろう」
「棟梁様……」
イスカは、まだ納得しきれない様子だったが、エステルが無言でイスカの肩に手を置き、首を横に振るのを見て引き下がった。
エステルが覚悟を決めている以上、自分が言える事は無いと思った。
「それで高星、どういう策を使うつもりだ?」
「険阻な地に拠った敵を下す時の策、調虎離山の計を使う」
「調虎離山?」
「虎を調って山から離す。元々ああいう敵に対しては、少数精鋭を選りすぐって追い立てるのが常道だ。
だが地形の関係で敵からこちらの様子が筒抜けの可能性が高い以上、百や二百の部隊を背後に回らせようとするとすぐに気付かれてしまう。
敵に気付かれずに背後に回り奇襲を仕掛ける為にも、二十人というお前達の少なさが必要になる」
「だが、いくら奇襲と言えども二十人で五百の敵を追い立てられるか?」
「紅夜叉が居るから大丈夫じゃないですかね?」
エステルの危惧に、ジャンはつい半ば本気で冗談を口にした。
「おう、やってやるか」
「……本当にできそうな気もするが、そんな不確実な手は使わん。ジャンも乗せるな」
「すみません。それで、確実な……より確実な手としてはどうするんですか?」
「今の訂正は評価してやろう。反乱軍は地形を生かして我々に対抗している、それに対して我々はその地形を逆用してやるのだ」
「地形を逆用?」
「ジャン、今の時期この地方ではどんな風が吹く? 前に教えた事だ」
「風? えっと、確か……南風が多く吹くはず」
「そうだ、春になりふもとが温かくなると、未だ雪の残る南部の山の上から、冷たい風が吹き下ろしてくる。
あの谷は、山の斜面に沿って吹き下ろしてくる風の通り道になっていて、一日の多くの時間帯で南風が吹いている。我らから見て向かい風、敵から見て追い風だ」
「つまり、火計か」
「そうだ、谷の南口から火を放てば、火は谷を通る風に煽られて、谷全体が巨大なふいごとなろう」
「我々の任務は、気付かれない様に敵の背後に回り火計を実行、消火出来ない程に火が大きくなるまで守り抜く事だな」
「その後、余裕があれば追い立てられた敵の掃討にも参加すること。できるだけ殺さずに捕らえろ、と一人以外に言っておこう」
紅夜叉が、ふんと鼻を鳴らした。
「今、ホフマイスター博士に必要な器具の用意をさせている。作戦の決行は明朝、払暁に奇襲を掛けろ。よって本日は作戦に備えて装備の点検と休息を十分に行っておく様に」
全員がまたバラバラの返事をする。この戦いの鍵が、親衛隊に委ねられた。
◇
第8節2日午前四時頃、エステル以下親衛隊が行動を開始した。
両軍の向かい合う地点から東に300m程進んだ地点から森の中へ入る。高星が最初の偵察で、この辺りからならば縄一本あれば登れると見た地点だ。
紅夜叉や操、それにジャンと言った比較的こういう事が得意な者は身一つで登り、それ以外の者は下ろされた縄を掴んで登る。それほど慣れていない者でもどうにか登りきる事が出来た。
ここから敵の背後まで、地図上では500m足らずである。道無き森の中を抜けると言う事を考慮しても、順調にいけば三十分で着ける距離である。
道の無い所を突っ切ると言えども、この様な近場に背後に回る事が出来るルートがあると言うのはずいぶん警戒が甘い様に思えるが、これには二つの理由があった。
一つは、反乱軍が陣を敷く場所を選ぶのに、十分な時間があるとは言えなかった事である。
そもそもこの反乱は、反乱軍に離脱者が居ない事から、ある程度事前に計画されたものである事が解るが、それでも反乱後の行動を見る限り万全の準備には程遠いものである。
また高星の対処も迅速であったと言えよう、これは反乱の翌日にはその事を知る事が出来たと言う幸運の結果もあるが、それでも情報を得てからの高星の行動は迅速かつ的確で、反乱軍の出鼻を挫いたと言える。
もう一つは、反乱軍の警戒が軍勢の動きに集中していて、わずか二十人の行動など念頭になかった事があげられる。
反乱軍の将兵は、自分達が劣勢な兵力で多数の敵と当らなければならない事を認識しており、それゆえにどの様にして大軍の利を封じるかに心を砕いている。
だがそれゆえに敵が少数で動くと言う事態を失念してしまったのである。自分達が少数劣勢であると信じるが故に、自分達よりも小さな敵部隊が存在するとはずがないと思い込んでしまっていた。
とは言え、反乱軍の警戒が無くても森の中を突っ切る行軍は困難を極めた。先頭のエステルがナイフで枝を切り払い、道とも言えない道を切り開きながら進み、その後ろに悪路に慣れた紅夜叉や操が続く。
まだ日の出前の森の中で方角を見失わない様に、またはぐれた者が居ないか確認するために何度も立ち止り、わずかな距離を進むのに道を行く四倍も五倍も時間が掛かった。
「ううっ……夜の森ってどこかで何かが狙ってる様な気がするな」
「気のせいだ、近くには獣もいない」
「流石紅夜叉、解るのか」
「闇の中に居るものの半分は幻だ。恐怖が作り出した悪夢に過ぎん」
「お前は幻に悩まされたりしないんだな」
「ん? 俺か? 俺はな、恐怖なんぞ、とうの昔に壊れてしまった」
紅夜叉が皮肉な笑みを浮かべる。小さな明かりに照らされたその顔は、ジャンの想像するものよりもよほど闇の王と表現するにふさわしい禍々しさだった。
「点呼を取る、皆居るか? 順番に番号を言え、一!」
エステルに続いて、順番に点呼を取る。全員が確認されると、小休止となった。
「すでに道程の半分は来たはずだ、もう半分を歩いたら、いよいよ本番だ。皆心する様に」
「まだ半分かよ、もうずいぶん歩いた気がする」
「時間はそれ程経っていないはずだが、確かにこれは疲れるな……」
ジャンよりよほど実践慣れしているはずのイスカですら、軽い疲労を感じている様だった。この場で平然としているのは、紅夜叉と操の二人に、エステルくらいのものだった。
「五分の休憩の後、行動を再開する。なにか不審や異常があれば報告する様に」
「五分だけですか?」
「五分で十分だ。人間の疲労と言うものは、五分休めばとれる。それ以上は、一晩眠るくらいの長い休息を取らない事には大差無いのだ」
「理屈としてはそうかもしれませんが、感覚的にはもっと休みたいです」
「休んでいるときに奇襲を受けないとも限らん。戦場では休む時も、常にある程度の気を張っていられる様にしろ」
「……努力します」
「そうしろ。ではもう行くぞ」
「ええ! もう五分!?」
恨めしい気持ちが湧いて来るが、ここがこの戦いの踏ん張りどころと思って立ち上がる。また道無き道の進軍が始まった。
◇
日の出前に、首尾よく谷の南口の上に出る事が出来た。案の定、入り口を数人が見張っている以外に人影は無く、箱や袋、それにむき出しの物資が積まれている。
正面の崖の上に見張りを立てている以上、十分に物資を移動させる余裕はあると思っているのだろう。
「好都合だ、まずは見張りを片付けよう。……全部で六人だな」
崖の上は草が生い茂り、身を隠しながら様子を窺うのに好都合だった。死角もほぼ無く、人数を見誤る可能性は極めて低い。
「こっちは二十人ですから、一斉に襲い掛かりますか?」
「いや、俺一人行けば十分だ」
「ジャンも紅夜叉も落ち着け、まだ作戦の前段階と言ってもいい程度のものだ、ここで気付かれる訳にはいかない。密かに、かつ確実に無力化するのだ」
「じゃあ、どうしましょう?」
「……私が行こう。幸いそう広くないから相手もまとまっている事だし、音も立てずにかたをつける」
エステルが一瞬ためらった様な気がした。それが何かを考えるよりも早く、エステルは音も立てずに飛び降りた。
エステルが着地すると同時に見えない何かがエステルを中心に広がり、それに当てられた六人の兵士がうめき声も上げずに倒れた。
それは異様な光景だった。風が巻き起こった様でもあるが、実際には空気は静かなまま動かず、とにかく視認できない何かがそこに広がったと、感覚的に捉えられたとしか言いようが無かった。
若水道人が『気』を放ったときにも似ていたが、あのときの様に微かな音と光すら無く、全てが無音のままであった。
「いいぞ」
周囲を確認し、エステルが合図をする。音を立てない様に崖を降りた。操などは飛び降りたにもかかわらず、まるで猫の様に音を立てずに着地した。
「魔術ってのはこんな事もできるのか……。こいつらはどうしましょう?」
「数時間は気を失っているはずだ。風上の、どこかの陰に放っておけ」
気を失った六人を、二人掛かりで足と頭を持って移動させる。その作業の後ろで、飛び降りる際に変身したイスカがエステルに耳打ちをした。
「エステルさん。あれは……普通の魔術じゃないですね?」
「やはり気付いたか」
「普通じゃないものには敏感ですから。普通じゃない魔術となれば、なおさら。あれは……あれが?」
「そうだ、吸血鬼の力……折り合いを付けたつもりではいるが、こうして自分がただの人間では無いと言う事を思い知るのは、やはりどこかに嫌悪があるな」
イスカも、エステルの気持ちが痛い程解る身の上である。しかしイスカの過去と決意は、大切な人達との別れに重心が有るため、エステル程自分の力と存在を疎ましく思った事は無かった。
そのためどう言葉を掛けたものかと躊躇した。躊躇しているうちに、エステルの方が先に口を開いた。
「だが高星がこの場に居れば、迷わずに私に力を使うように指示しただろうし、そうでなければならない。なら私も、自分の心の痛みなど意に介している暇は無い。
私は高星の夢に自分の存在を賭けたのだ、ならばそれに全力を尽くすだけだ」
「エステルさん……」
「イスカ、お前も高星の夢に賭けた。いや、高星の夢に自分の夢を重ねたのだろう? なら解るはずだ」
「解ります。でも私は、心の痛みを押し殺さない。棟梁様や、エステルさんが心の痛みを押し殺しているからこそ、私はそれを表に出して、その痛みをどうにかしたいと思います」
「そうか」
エステルとイスカが、二人だけの話をしている間に気絶した六人を片付け終わっていた。いよいよここからが本番である。




