5・暗雲
遅く寝たにしては早く起きた。
ただ必ずしも快適な目覚めと言う訳ではなく、初春の山の冷気で起こされたという感じだった。
まだ日が差し始めたばかりで、銀華はすでに起きていたが、案の定、高星は起きる気配も無い。
すでに起きていた者達が泉で顔を洗っていたのでそれに倣う。岩からしみ出す湧水が流れ込む泉は、指先の感覚が無くなる程冷たかったが、頭の中にかかった靄を払うには最高だった。
顔の水気を払おうと犬の様に顔を振っていると、手拭いが差し出されたのでありがたく使わせてもらった。見れば若水道人だった。
「おはよう。気分はどうかな?」
「悪くない感じですかね。これなら山暮らしというのもいいかもしれません」
「皆最初はそう思うものだ。だが三日で帰りたくなる。一節もいると慣れてきて、六節もいるとすっかり板につくものだが」
手拭いを返すと若水道人が、今度は欠けた茶碗で水を差しだした。
「そこの湧水だ、飲むといい。寝ている間は絶食なだけでなく、水の一口も飲んでいない。体が欲しているはずだ」
言われるままに水を飲む。歯に沁みる様な冷たい水は、味は無いはずなのにとてもおいしいのが不思議だった。
「安東殿はまだ起きていないのか?」
「棟梁、朝に弱いもので」
「そうだったのか。意外だな、寝る間も惜しいと考える人間だと思っていたが」
「道士様、意外と棟梁の事を知らないんですね」
「年に一度、こうして会うだけだからな。それに俗世の事に深く首を突っ込む様ならば、隠者なんてしてはいない」
「あら、道士様よく人里に遊びに行っていたじゃありませんか。それでいっつもお師匠様に叱られて」
銀華が手に桶を持って立っていた。湧水を汲みに来た様だ。
「でもそのおかげで私の次の落ち着き先が見つかって、そこで高星と出会ったのだから感謝しないといけないわね」
「そんな事もあったな。あの頃は単に山で暮らすよりも、人の間で暮らす方が君にとって良いだろうと思っての事だったが。こういうのはやはり運命と言うしかないのだろうな」
「さあ、どうでしょう。私には難しいことは解りません。ただ、一度堕ちに堕ちた私が再びこうして生きる事を喜べる様になった事は事実で、その切っ掛けとなった事全てに感謝しています」
「……そうか。君がそう思えるなら、私の存在も、無意味ではなかったのかな」
若水道人が静かに目を閉じる。その思い、その胸の内は、誰にも解らない事だった。
「ところで安東殿はいつ起きるのだ?」
「さあ……いつも強引に体を起こしている様な状態ですから、放っておくとまだまだ寝ていると思います。高星にお話ですか?」
「まあな。……仕方がない、叩き起こしてくれ」
「あ、すいません、私朝ごはんの支度があるので」
「朝ごはんって……向こうで大鍋で作ったものを売っているあれか?」
「はい、ちょっとお手伝いを」
向こうで大鍋に雑炊らしき物を作って売っている出店が見える。ジャンも流石に呆れた。
「銀華さん、別に手伝う必要は何も無いですよね……?」
「作ってもらったご飯を買って食べるだけってのは、どうも落ち着かなくて」
そのまま銀華は小走りで戻っていき、全く無関係な朝食の支度を手伝い始めた。いや、水汲みの時点ですでに手伝いだった様だ。
「相変わらずだなぁ……」
「そうなのか?」
「そうですよ。銀華さん使用人が居るのに料理も掃除も洗濯も全部自分で、それも一緒に暮らしている全員分やろうとします。
今は流石に半分くらいはやってもらっている様ですけど。道士様、銀華さんと長く一緒に居たそうですけど知らなかったんですか?」
「言ったはずだ、拾ったばかりの頃の彼女は、放っておくと一日中微動だにせずに虚空を見つめている様な状態だったと。それに共に過ごしたのは一年そこらだ、今となっては安東殿の方がよほど長い」
「……寂しいですか?」
「馬鹿を言え。それよりも君の御主人を叩き起こすぞ。引きずってでも連れてこい」
「はーい」
高星と銀華もそうだが、銀華と若水道人の関係も決して男と女のそれでは無い様だ。
だが単に友人とも言えず、ましてやただお互いに知っていると言う様な希薄な関係では決してない。
深い精神的な繋がりはあるが、その一方であっさりとした関係。人との繋がりをまだ良く知らないジャンには、計り知れない何かだった。
ともあれジャンは、これが世界にすら戦争を吹っ掛けるつもりでいる勢力の棟梁かと疑いたくなる程に眠りこけている高星の両脇に腕を入れ、幕舎の外まで引きずり出した。
外には若水道人が手桶を持って待ち構えていた。
眠っている人間を起こすにはどんな道術を使うのかと思っていたら、手桶に汲んだ泉の冷水を、躊躇無く高星の顔に浴びせかけた。
「ぶっは!? ゲホッ、ゲホッ! 痛だだだだ!?」
高星が飛び起き、むせ返り、鼻を押さえて痛がる。水が鼻から気管に入った様だ。
「ようやく起きたか。早く朝飯を食ってしまえ、話はその後だ。それとその刀は納めろ」
若水道人が何を言っているか、初めジャンには解らなかった。刀を納める小さな音がして、初めて高星が刀の鯉口を切り、すぐにでも斬りかかれる体勢で居た事に気付いた。
「一体何なんだ」
言うだけ言うと背を向けて去っていく若水道人の背中を見つめながら、高星が苦々しげにつぶやく。
「さあ……?」
ジャンも言われるがままに高星を起こす手伝いをしただけなので、答える事が出来ない。
「おはよう。今朝は早いわね」
待ち構えていた様に。いや、実際待ち構えていたのだろう。銀華が三人分の雑炊を持ってくる。雑炊は熱過ぎず冷たくなく、食べやすい様にいい温度に冷まされていた。
「買ったのか?」
「もらったの。お手伝いのお礼だって」
「強かだな」
「あら、何の事?」
「ジャン、よく覚えておけ。『ただより高いものは無い』と言うのは本当だ。
恩だとか、貸しだとかいうものは、ときに凄まじく大きなものになって返って来るし、返さなくてはならなくなる。
現にこうして銀は、本人は苦労どころか好きでしている事の恩返しで、ただで三杯の雑炊を手に入れた。一方的に得をしている」
「あら、それじゃまるで私が計算ずくで人助けをする嫌な女みたいじゃない」
銀華がわざとらしく頬をふくらませてみせる。
「そうは言っていないだろう。お前が本当に善意で手伝いをしている事は解っている。だがそれが時に大きな見返りを生む事も解っているのだろう?」
「意地悪な事を言う人は嫌いになっちゃうわよ」
高星はそれ以上は諦めたのか何も言わず、黙って雑炊を啜っていた。
◇
「どうやら飯も済んだ様だな」
若水道人が戻って来たのは、雑炊の器を返しに行った銀華が入れ替わりに茶を貰ってきて、その茶を飲み終わった頃だった。
「それで、話と言うのは何ですか?」
「お前にとって重要な話だ。もっと早くに言うべきだったかもしれん」
若水道人が高星の正面に腰を下ろし、真っ直ぐに高星を見つめる。
「安東高星よ、お前はこんな所で何をしている?」
「は?」
「迂闊すぎるのではないかと言っているのだ。お前は去年の秋の暮れ、武力によって当主の座を簒奪した。そうだな?」
「……はい」
「それは一応の成功を収め、お前は安東家の新たな当主として承認された。だがそれは全ての者が心からお前を支持したと言う事ではない。
これまで安定していたのは、ひとえに素早く中枢を抑えたお前に逆らおうにも勝ち目が無いと思われたから、そして冬に行動を起こす事はできなかったからだ。
だが季節はもう春だ、啓蟄が訪れれば土の中で眠りについていた害虫も地上に現れてくる。ましてや冬の間、雪の下で人知れず謀を巡らす時間は十分にあったはずだ。
その様なときに、何かあってもすぐに知る事はできないこの様な山の中に足を運ぶとは、迂闊すぎるのではないか?
心に良からぬ企みを持つ者がこの事を知れば、これ幸いと思うであろう」
「あっ……!」
「行け、この様な山の中は一国の当主には相応しくない」
「まことに仰せの通り。この安東高星、あまりにも軽率でした。お言葉感謝いたします、そしてお暇させていただきます」
高星は弾かれた様に立ち上がり、若水道人に丁寧に謝辞を述べると急いで荷物をまとめ始めた。
それを受けてジャンも慌てて少ない荷物をまとめにかかる。一方、銀華は悠々たるもので、見ればいつの間にやら荷物をまとめ終えていた。二人が荷物をまとめている間に若水道人に別れを告げる。
「道士様、それではまた……と言っても、もう気軽には会えないでしょうけれども」
「気にする事は無い。過去を軽視してはならないが、最も大事なのは過去でも未来でも無く、今であるべきだ。君は過去よりも今が大事なのだろう?」
「はい、とても」
「ならば私の様な、君にとって過去の人間に気兼ねする事は無い。遠慮無く行くが良い。
まあ、これは師匠の受け売りなのだが」
「道士様ったら、お師匠様の受け売りばかりですね」
次の言葉を若水道人は、少し大きな声で話した。まるで銀華以外の誰かにも聞かせようとしているかの様に。
「誰だって初めは受け売り、物まねばかりだ。弟子というものは師の生き写しでもあるかの様に全てを真似し、完璧に真似が出来たとき初めて自分の道を知るものだ」
「真似が出来たとき、初めて自分の道を知る……」
その言葉は、少なくとも一人の少年の耳には届いた。
「銀、ジャン、行くぞ!」
「あ、はい棟梁! えっと、道士様、それではさようなら」
「では道士様、またいつか」
「うむ、健やかにあれ」
若水道人と別れを告げて、山を下る高星と、その後を追うジャンと銀華は去っていく。若水道人はその場から一歩も動かずに、その背中を見送った。
「……流れ星が、その命を燃やして駆けてゆくなぁ。だからこそ人が惹かれるのか」
◇
急いで山を下るかと思いきや、意外にゆっくりした歩みだった。
なぜそうするのかをジャンはしばらく歩いてその身で知った。長時間下り坂を降りるのは思った以上に体力を消耗するのだ。しかも山道は道も悪く、登り以上に小石や木の根に足を取られる事を警戒する必要があった。
ジャンは下りは登りよりも楽だろうと言う考えが、全く甘いものであった事を思い知ったが、まだ十分に山道の恐ろしさを認識しているとは言えない。
下り道では躓いて転倒しただけでは済まず、その勢いで坂を転げ落ち、最悪崖から転落して重傷を負う事もあり得るのだ。
しかしこの時は高星と銀華がその危険を重々承知している上で進んでいるので、その危険を知る事は無かった。
やがて三人は若水道人と出会った地点の付近まで戻って来た。
「今思い出しても道士様の道術は凄かったなぁ。なあ棟梁、ああいう道士様を戦の役にはたてられないんですかね?」
「不可能では無いだろうな。実際攻撃系の道術も有るそうだし、修行者の中には武術を専門にする者も居ると聞く。
しかし渡りの衆を戦の役に立てるなら、もっと別の使い方だと私は思う」
「もっと別の使い方?」
「それを実現できれば大きな力になると思うのだが……どうやって彼らを味方にするかが大きな問題だ」
「そうか、山を渡り歩く様な暮らしをしている位だから、金や領地には興味が無いだろうしなぁ……。でもやっぱりあんな力を放っておくのは勿体無いよなぁ。
……そういえば銀華さん、よく山賊が居る事に気づきましたね? 大分距離がありましたけど」
「うーん、なんて言えばいいのかしら。山の『気』と言うか、そんな何かを感じたのよ」
「『気』? やっぱり修行したから、そういうのを感じるんですか?」
「うーん……いつも解る訳じゃなくて、山に来た時だけ何となく勘が鋭くなると言うか、感覚が研ぎ澄まされると言うか……」
「ああ、それは道術の類じゃない」
「あら、高星は何か解るの?」
「ベテランの船乗りは『風の匂い』を嗅ぐだけで、向こう数日の天気や風向きを正確に知ることが出来る。
だがそれは本当に『風の匂い』で判別している訳じゃない。雲の形や動き、波の立ち方、気温、湿度……その他いろんなものから情報を得て、経験から瞬時に、直感的に天候を予測するんだ。
銀華のそれも山暮らしの経験が、直感的に異常を知らせたのだろう。そういう事はどの道の人間にもある」
「へぇ、棟梁にもそう言うのはあるんですか?」
「あるぞ。軍を指揮する者ならば些細な異常も見逃さない観察力は必要不可欠だ。そういうのが高まった末に、人間離れした感覚を持つ人間と言うのが偶に居る」
「俺にもいつかそんなかっこいい事が出来ますかね?」
「その前に死ななきゃな」
そうこうしているうちに伝馬船を泊めた淵まで戻って来た。朝早くに発ったおかげで陽はまだ高くなりきっていない。この分ならば昼にはツシの街まで戻れると言う。
「風も相変わらずの南風か。追い風で川下り、岩に激突しない様にしないとな」
船の後尾で高星が帆の調節をする。満足が行く程度に風を捉えると、舟は矢のような速さで川を下って行った。
◇
春先の増水した渓流を下るのは実にスリリングな体験だった。高星の操船は巧みに障害物をかわし、水面ぎりぎりに沈んでいる岩もまるで見えているかのように回避して、一息に流れが緩やかになる所まで下りきってしまった。
高星の目算通り、日が中天に差し掛かる頃にはツシの街並みが見えてきた。
「おーすげぇ、もう着いちゃった。帰りは川下りだから早くていいですね」
高星は答えなかった。ジャンが振り向くと、高星は険しい顔で街の方を睨んでいる。
「……棟梁? どうしました?」
「軍気……兵舎の辺りが騒がしい」
「えっ」
「銀、舟の係留頼んだ!」
高星は河岸に入ると舟を銀華に任せて飛び降り、人込みをかき分けて一目散に駆けだした。ジャンも慌ててそれを追う。
街の中心部に位置する、丘の上に立つ兵舎に駆け込もうとして入り口で止められた。しばらく押し問答になったが、高星の顔を知る中隊長が呼び出されてようやく中へ案内された。
指令室まで行くと、派手に扉の音を立てて乗り込んだ。
「これは殿、なぜこの様な所に」
「今はそれどころではないだろう。何があった、情況を説明しろ」
「反乱です。東部国境を守る歩兵第三大隊が反乱を起こしたとの情報が、今日未明に届きました」




