3・水の若し
流れが速くなっていた。
ツシの街を出てさらに上流へと遡る。街の西にそびえていた山が右後方へと流れて行くにつれて、河は渓流と呼ぶべき流れへと変わっていった。
流石に昨日までの緩やかな流れとは違って操船に気を使うらしく、高星は終始無言で流れを見つめながら舵を操っていた。
昼頃になると淵に舟を泊めて上陸し、銀華がツシの街で買い求めていた昼食を取る事にした。ここからは山歩きだと言う。
高星が一人で茂みの中へ分け入り、しばらくして戻って来た。見れば片手に小枝を一掴み持っている。その小枝を薪にして瞬く間に小さな焚火を熾して見せた。
「棟梁は何でもできるんですね。一体誰に教わったんですか?」
「誰に、と言う事は無い。自分が欲していれば、必要な技術のヒントは天地が教えてくれる。後は試行錯誤を繰り返す事だ」
「そういうもんですか」
「そういうものなのだ。だが良き師を持つ事は良い事だ。全てを自分で調べていてはきりがない、良き師の下で効率的に学び、その後で自らの道を探るのが良い。
そういう意味では、解らない事が有ったらまず自分で考えて調べろと言うのは、必ずしも正しいとは言えないだろうな」
「なら、棟梁が俺の良き師になってくれますかね?」
「お前が良き生徒であるならな。言っておくが、私は厳しいぞ?」
「それはもう……すでに身に染みてます……」
「あの程度でそんな弱音を吐く様なら、もうお前に教える事は何も無い」
「い、いえ! まだまだ全然余裕ですよ!」
わざとらしく強がってみせるジャンに、高星はそうでなくてはと言わんばかりにニヤリと口角を上げた。少し離れて、そんな二人の様子を銀華が優しげな表情で眺めている。
「では早速焚火の造り方でも教えてやろうか」
「お願いします。ところでその前に質問なんですが……」
「なんだ? 言ってみろ」
「棟梁、さっき火を熾すときに小刀を使ってましたよね? あれ何処から出したんですか?」
「ああ、あれか。それはな、ここからだ」
高星が刀を持ち上げた。
「刀?」
「我らの刀には、内側――内部ではなく、腰に差したときの体の側に、小柄という小刀が仕込まれている。
一応武器にもなるが、どちらかと言えば便利な道具と言った方が良いだろうな。これが火を熾すときにも重宝する」
高星が小枝を一本掴み、取り出した小柄を当てる。
「木は皮が付いたままだと燃えにくい。だからこうやって皮を剥いでやると燃えやすくなる。
丸太を割った薪ならばこんな手間は要らないが、この時に出た木屑が焚きつけとして使えるから無駄にならない」
「焚きつけ?」
「いくら小枝でも、薪にいきなり火を点けようとしてもなかなか燃えない。だからまず燃えやすい焚きつけに火を点けて、そこから薪に燃え移らせるのだ。
木屑は用意しやすい焚きつけだ。落ち葉はカラカラでないと水気が多くて良くない。ススキの穂は最高だ、油を含んでいてよく燃える。
変わったところでは、栗のイガなんかは火が消えにくく、いつまでも燃えているから失敗しても種火は残る。もっとも、一度水に濡れたイガはまず自然には乾ききらないから使えないのだが」
「紙や布はどうです?」
「あまり良くない。静かに燃やすと形がそのまま残るくらい燃えにくい上に、すすが大量に出て周りが真っ黒になる。あらかじめ油を染み込ませた物でもない限り使わない方が良いだろう」
「へぇ……そうだったのか」
「お前、放火はした事が無いのか?」
「幸運にも、と言うべきでしょうか。やった事はありません」
「むしろ経験があった方がよかったかもな。火計のやり方を教える手間が省ける」
「皮肉ですか?」
「事実を述べたまでだ。それで火を熾した後だが、薪が濡れているとせっかく熾した火が燃え移らないうちに消えてしまう事も多い。乾いた薪が無いときは、こうやって表面を削って毛羽立たせるといい。
濡れていると言っても、水中に沈んでいたのでもなければ中は乾いているからな。逆に中に水気が多い生木……生きている木はその程度では燃えない。
ある程度火の勢いが強ければ、生木でもバリバリ燃えるようになるが、そこはまあ経験で覚えるしかないな」
◇
焚火談義が終わる頃には小さな焚火はすっかり燃え尽きて、白い灰を残すだけとなっていた。高星が川の水を両手ですくい、焚火の後に掛けた。小さな音がしただけで焚火が完全に沈黙した。
「綺麗に燃えつきましたね」
「必要な時間だけ燃える、必要な大きさの焚火が熾せて一人前だ。不必要に大きな焚火を熾して、燃え残った黒い薪を残す様では山で生きる人々に笑われる」
「これから会う人達の事ですか?」
「それもあるが、猟師や林業に携わる人々もだ。山で生きる人々は山からもらう物を無駄遣いしない。およそ不要なゴミと言う物を出さずに生きている。全く大したものだよ」
そう言いながら高星は川に背を向けて山の方へ入っていく、ジャンが後を追い、銀華がその後ろに付いた。
「さて、今はどのあたりに居るだろうか?」
「ここまで来て、どこに居るか解らないんですか?」
「言っただろう、山々を渡り歩いていると。毎年主な拠点としている場所はあるが、そこに居なかったら捜し回るしかないな」
「げぇ……」
申し訳程度の道があるような山は、背丈よりも高い草が生い茂り、歩くだけでその葉の先端がチクチクとして痛痒い。山に慣れていないジャンには少々厳しい環境だ。
「待って!」
どれほど歩いただろうか、そう時間は経っていないはずだがすでにジャンがうんざりとし始めた頃。突然、銀華が鋭い声で制止した。
「銀、どうした?」
「静かに」
銀華が目を閉じて聴覚に集中する。高星とジャンも周囲の音に気を配るが、風が草木を揺らす音しか聞こえない。しかし銀華だけは、何かを捉えていた。
「人の声……男が、三人。声を荒げている。……こっち!」
銀華が走り出す、草の中を分け入っているにもかかわらず、まるで平地を行く様な速さで駆ける。ジャンが必死にそれを追いかけ、高星がその後ろに付く。
だがしばらくするとジャンは銀華を見失ってしまった。しかし高星は迷わず走り続け、ジャンもその後を追う。ようやく銀華に追いついた時、銀華は茂みの中に身を隠し、様子を窺っていた。
「銀、状況は?」
「声からしてやっぱり男が三人。多分、山賊。ここからだと様子がよく見えないけど、これ以上近づくと見つかるかも」
「珍しいな、こんな所に山賊とは。この土地の人間ではあるまい。山賊でも好き好んでこの辺の山は縄張りにはしない。
おそらく、外から山の中を突っ切ってここまで逃れてきたお尋ね者だろう。よくもまあ、生きてここまで来れたものだ。一生分の運を使い切ったんじゃないか?」
「そんな、大げさな……」
ジャンが息を整えながら切れ切れに言う。
「いや、微塵も大げさではない。大抵道に迷って野垂れ死ぬ、この時期ならよく子連れ熊の餌にならなかったものだ」
「火山ガス中毒で、息が出来なくなるのもあるわよ」
「崖から落ちて歩けなくなり飢え死にとか、毒蛇や毒虫にやられるのもあるな」
「……俺はそんな危険地帯を歩かされてたんですか」
「何、山に慣れた人間の言う事をよく守ればそう危険は無い。それより今は山賊だ。三人くらいなら一瞬で切り伏せられるが、襲われている方の様子が解らないとな……」
ジャンも声のする方を覗きこんだ。確かに声ははっきりと聞こえるが、草木が邪魔をして様子がよく見えない。ただ三人の山賊が半円形に取り囲んでいる様だ。すると襲われているのは一人か、多くても二人だろう。
「やむを得まい。もう少し見晴らしのいい場所に移動して斬り込む機を窺う。あの興奮した様子なら、多少音を立てても気付かれる事は無いだろう。急がないと襲われている方が殺されるかもしれん」
高星が素早く周囲を見回して地形を探る。ジャンにはどこも同じ様にしか見えなかったが、高星は当たりを付けたらしく移動を始めた。
移動すればどうしても草の音が立つ。聞こえない距離ではないはずだが、山賊たちは気付く様子は無い。興奮しているせいか、聞こえていても風か獣の仕業だと思っているのだろう。
高星が当たりを付けた場所はまさに急所だった。外からは見えにくく、中からは遮るものが無く見えやすい。
その上近くに窪地があるが、草に隠れて見た目ではまず解らず、万一の時に身を潜めるのにうってつけである。
高星は予想通りの好位置に会心の笑みを浮かべるが、すぐに表情を険しくし、刀に手を掛けながら様子を窺った。追いついてきたジャンもそれに倣う。
「おや、あれは……」
高星が隠れているにしては大きな声を上げる。襲われているのは、知っている人物だった。助ける必要が無い事も知っていた。
◇
その男は草で染めた自然色の、上下一体のゆったりした襟のある衣服を着て、帯を締めていた。歳は若く見える、二十代前半と言うところか。
髭は綺麗に剃られていたが、長い髪を後ろで、赤い布で結わえている以外は前髪を邪魔にならない程度に切っただけの様だ。
格好だけでも普通の人間ではなさそうだが、なによりも三人の山賊に囲まれて、剣を突き付けられているにもかかわらず、丸腰で平然としているのはただ者ではない。
「お前達、その様子を見るに大分苦労したのだろう。しかし今の世は住みやすいとは言えないにしても、何も好き好んで人を害する生き方をする事も無かろうに」
「うるせえ! お説教で腹が膨れるか! 良いから食い物と金目の物をよこせ! 無いなら着てる物全部置いていきやがれ!」
山賊達は大分気が立っている様子だが、男は諄々と道理を説き続ける。だがついに一人が剣を振り上げて男に斬りかかった。
だが男は顔色一つ変えずに、山賊の左腕を右手で掴み、体を左に半回転させる。山賊は斬りかかった勢いのまま地面に腹から着地した。
男が残りの二人を横目で見る。二人とも武器を構え、襲い掛かる機を窺っている。いなしてやった山賊も立ち上がり、懲りずに剣を向ける。
「やれやれ……やむを得ないな」
男が右手の親指と薬指で輪を作り、顔の前で立てる。山賊と男が同時に動いた。襲い掛かる山賊に対して、男は右手を振り下ろした。
瞬間、微かに光と、放電の様な音が走った。それだけで三人の山賊は、雷にでも打たれたかの様に気を失い、その場に倒れた。
「……そこの見物人、見世物ではないぞ」
「お変わりない様で、若水道人様」
◇
山賊に襲われていた男、若水道人と名乗る道士が高星が会いに来た人物であり、銀華の知り合いであった。先ほど山賊を一瞬で気絶させたのが、どうやら道術らしい。
「安東殿、銀華、久しいな。それに初めて見る顔もある」
「去年の秋から私の従者に加わった者で、ジャンといいます」
「ほう、去年の秋から。なんでもその頃に当主になったそうだな?」
「……はい」
「別に安東家の当主が誰であろうと私は構わぬが、思い切った事をしたものよ。
……この一事は、間違いなくお前の運命を決めたぞ」
「運命は自分で決めるものだと心に決めております」
「相変わらずだな、お前は」
若水道人と高星があいさつ代わりの会話をしている背後で、動く者があった。そろそろと様子を窺うように地面を這い、弾かれた様に駆けだした。
「あっ、逃げる!」
ジャンが気付いて声を上げた。山賊の一人が足をもつれさせながら走って逃げようとする。どうやら他の二人と比べて距離が離れていたため、軽くて済んだ様だ。
高星が刀に手を掛け、踏み込む体勢を取る。しかし若水道人はそれを手で止め、再びあの右手の形を作る。そして今度は、逃げる山賊の背に向けて指し示した。
先程と同じ音がした。だが今度は先程よりももう少しはっきりとした光が、真っ直ぐ山賊の背に向けて走り、直撃した。
憐れな山賊は二度目の気絶をし、顔面から地面に衝突した。よく見れば最初に投げ飛ばされた男だった。
「ここで立ち話もなんだな、場所を変えようか。この者達は縛り上げて……街道沿いにでも捨てておけばいいか?」
「もう少し里に近い街道沿いならば、今日中に発見されて捕まるでしょう」
「そうか、では私はこいつらを捨ててくる。いつもの場所にいるから先に行っているといい」
「では、後でゆっくりと」




