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「出張?」
「と言っても大したものでは無い。エステルと一緒に一泊二日で領内見回りみたいなものだ。詳細はエステルから聞いてくれ」
そう告げられて、突然出張が決まった。思えばトサの街から本格的に出るのは初めての事だ。
高星の言う通り一泊二日ではちょっとした遠出に過ぎないだろうが、街の外の様子を見るのは少し楽しみでもある。
翌日、旅支度とも言えない簡単な支度を整え、銀華お手製のお弁当をもらい、朝早くにエステルと二人で出かけた。
街の正門を出て、街道を真っ直ぐに東に向かう。午前のさわやかな日差しが、街道沿いを流れる小川を煌めかせている。悪くない光景だ。
「なんかいいですね、こういうの」
「そうだな。ここしばらく激務が続いていたから、たまにこういうのんびりとした仕事も悪くない」
「目的地まではどれくらいですか?」
「このまま街道を東に30㎞。途中で昼食を取って、日が高いうちに着ける」
「そこそこありますね。ひょっとして俺、足手まといじゃないですか?」
「なぜそう思う?」
「エステルさん一人なら、馬を駆けられるからもっと早いでしょう?」
「確かに馬を飛ばせば、昼食後に出発して午後のお茶の時間に間に合うだろう。
だが高星がわざわざ二人で歩いて行く様に言ったのだ、半分は休暇みたいなものなのだろう。
だからのんびり構えていて構わない。聞くところによると、君もなかなか頑張っているそうだな?」
「そんな、大した事はありません。棟梁の勧めで色々やっては居ますが、他の皆に比べればサボっているようなものです」
「ふむ。最初に会った頃に比べると真面目になったか? さらに言えば謙虚にもなったようだが?」
「そりゃ、周りが凄いのに俺だけ何もできないんじゃ、せめて真面目にやらなくちゃ居心地が悪すぎますから。
それにイスカや紅夜叉なんかと比べて自分が大した事ないのは、謙虚じゃなくてはっきりと事実ですから、張り合う気にもなれません」
「身の程を知った、という事か」
「そういう事になりますかね」
いつだったか高星に言われた、自分は物を何も知らないと言う事を、最近は思い知らされる事が増えた気がする。
ただそれが悪いとは思わない。毎日が新鮮で充実しているとも思えるからだ。しかしそれとは別に、今やっている事が本当に将来の役に立つのか、ただ刹那的に楽しんで生きているだけではないのかという不安はある。
その不安が自分を駆り立てる。のんびりしているのが不安でたまらなくなる。せめて何でもいいから高星のために仕事をしたいと言う焦りがある。
だから、つい今回の仕事の話を持ち出した。
「今回の仕事について教えて欲しいのですが……」
「熱心な事だな。私達の仕事は、この先の中小国村の牧で飼われている馬の生育状況を視察して、報告する事だ。実労は数時間で済む簡単な仕事だ」
「中小国……村? 中小国って確か、騎兵の隊長さんの」
「彼の故郷だよ。珍しくも無いだろう、地名がそのまま姓になった例だ。あの村の人口は二千人程だが、五十家程は中小国氏がいる」
「二千人の村に続くにしては、立派な街道ですね?」
「牧の大きさに関しては、領内でも五指に入るからな。トサの街にも近く、何かと便利なのだ。だから行き来に不便が無いよう、街道が整備されている」
「なるほど。人よりも馬の方に重点が置かれた村なのか」
「その認識で間違いは無いかな。馬は当家の特産物であり、重要な商品であり、強力な戦力でもあるからな。
戦場でも人よりも馬に気を配れ、と書かれた兵書もあるらしい」
「そうなんですか?」
「いや、小耳にはさんだ事がある程度だから、間違っているかもしれん。私は兵学はあまり詳しくないのでな」
「あれ、そうなんですか? 意外ですね。エステルさんなら戦場でも棟梁の片腕として活躍できそうなものですけど」
「それは買いかぶりすぎだ、私にだって苦手なものくらいある。
私は人の上に立って指示を出した経験は無いし、ましてや人間同士が戦う戦場で指揮を執った経験も無い。
まあ、仮に私が指揮を執ったらそれは人間同士の戦いと言えるか解らないが……」
エステルが視線を落とす。
「……やっぱり、気にしているんですか?」
エステルは半分人間では無い、忌み嫌われた存在だ。それゆえに辛い思いをする事も多かったのだろうが、誰もそれを聞いた事は無い。誰にも話した事は無いらしい。
「なに、とうに一応の折り合いは付けているよ。でなければやってられない。
ただどうしてもそれを意識してしまう事はあるな。そしてここでなら悩む必要の無いはずの事で悩んでいる。この身に流れる血が変わらない以上、当然の事かも知れないが」
言葉として理解はできても、実感としては解らない事だった。きっとどうする事もできないのだろう。
◇
中小国村に着いたときにまず驚いたのは、この村が海に面している事だった。
大きな牧場で馬を飼育している村と聞いていたので、てっきり内陸の村だとばかり思っていた。しかし実際は半島を半日強で横断した事になる。
今夜の寝床でもある村長の家にお邪魔する。村長の家と言っても、他の家の2倍の大きさも無い程度だ。割り当てられた部屋で旅装を解いて応接間に戻ると、お茶とお菓子が用意されていた。
「わざわざこの様な用意をしていただかなくても良かったのですよ、中小国村長」
この村長も中小国なのか。老人と言う程ではないが、髪が白黒混じり合って老いの入り口といったところだ。
「いえいえ、好きでおもてなししている事ですから。むしろかえってご迷惑ではありませんか?」
「迷惑など。痛み入っておりますよ」
「喜んでもらえた様で何よりです。うちの息子は新しい御当主に迷惑をかけておりませんか?」
息子という言葉が引っかかった。
「迷惑どころか、以前より厚く信頼なされておりますよ。まあ、女性と見れば声を掛ける癖は呆れられている様ですが」
「いや、お恥ずかしい。騎兵を志すときも『騎兵が一番華やかでモテるから』と言う様なありさまでして」
「それはそれは、彼らしいと言いますか。昔から変わってないのですね」
「いや全く。三十路も間近なのだから、いい加減身を固めて欲しいものですわい」
そう言って村長が愉快そうに笑い、それに応じてエステルも静かに笑う。
「エステルさん、ちょっといいですか?」
「どうした?」
「さっきから話しているのって、ひょっとして……」
「ああ、そうか。言ってなかったな。こちら中小国村長は、中小国騎兵隊長のお父君だ」
「愚息がいつも世話になっております」
頭を下げる村長に思わず、いえいえこちらこそなどと言いながら、こちらも頭を下げる。
馬の飼育が主要産業の村の、村長の息子が騎兵隊長と言うのは、納得がいくものがあった。
「資料はすでにまとめてありますが、ご覧になられますか?」
エステルがちょっと考えた様子で視線を横へ動かす、そしてまた前に戻る。
「いや、資料はいつでも見れる。せっかくなので牧の方を見て回ろう」
「左様で。ならば若い者たちに話を通しておきますので、いつでもごゆるりとどうぞ」
「役目とは言え、何から何まで世話になる」
「なんのなんの。では、私は失礼いたします」
そう言って村長は席を立った。お茶もお菓子もおいしいが、それ以上にあの村長と居るのは不思議と落ち着いた気分になる。なるほど休暇と言うのも悪くないかもしれないと思った。
◇
この村はいわば二段構造になっているようだ。一段目の低い土地が居住地で、海沿いには小さいながらも船も見える。漁業もやるのだろう。
そして二段目に当たる、少し高くなった台地が牧場だ。軽い坂道を上って振り向くと、村と海が一望できる。
そして牧場の方はと言うと、特に変哲のない牧場で、広々とした牧草地で馬がのびのびとしていて、それに交じって若い男達が馬の世話をしている。
エステルは牧場の者らしい若い男から説明を受けている。一緒に聞いていても良くは解らないのでぼんやりとあたりを眺めていたら、一人の若者がやってきて牧場の事について解りやすく説明をしてくれた。
「向こうは何をやっているんだ?」
指差した方向の柵の向こうで、土がむき出しの耕した地面に何か粉を撒いていた。
「魚の骨を粉にした物を撒いているのですよ。そうすると牧草が良く育ちます」
「へえ、海に面している事を活かしているのか」
「塩の調達が手軽な事も大きいですね」
「塩?」
「生き物は塩が無いと生きていけませんが、馬は走り回って汗をかくので、他の動物よりも多く塩が必要です。
山奥の牧では馬に与える塩の調達も、時に深刻な問題になるそうです。その面でもこの村は恵まれていると言えますね」
「なるほどな」
まさに馬を育てるのにはうってつけの環境という訳だ。トサの街も同じような条件が揃っていて、実際此処よりも大きな牧場があるが、牧場に専念できるという点ではこの村の方が上だろう。だからこそ高星も重視している訳だ。
「せっかくなので乗ってみませんか?」
「乗ってって……馬に?」
「はい、馬に」
「俺、乗った事ないんだけど」
「背に乗るだけで、私が手綱を牽いて歩きますから大丈夫ですよ」
それならまあ何とかなるだろう。いつか戦場に出る時も馬に乗れた方が絶対に良いだろうし、慣れておくのもいいかもしれない。
「じゃあ、お願いします」
「ではこちらへ」
牧場のあちこちに馬は居るのだから、そのうちのどれかに乗るのかと思ったら、厩舎へ案内された。
厩舎の隣の小屋から馬具を持ち出される。そこで初めて牧場の馬はみんな裸馬だと言う事に気付く、足を掛ける事も掴まる場所も無い。
慣れた手つきで馬具がつけられた馬が牽かれてくる。そのまま並んで歩き、厩舎の外に出た。
「まずは撫でてあげてください。馬は賢い生き物ですから、乗り手が腰が引けているとイタズラをしたりします。この子は比較的おとなしいですが」
そう言いながら手本を見せる。彼がやっていた様に撫でてみると、少なくとも嫌がってはいない様だ。
「馬に乗るときは、まずお尻の方を向いて鐙に片足を掛けます。そのまま足を踏み込んで体を持ち上げ、体を半回転させて背に乗ります。私が支えますから思い切りよく乗ってください」
「解った。足を掛けて……ふん!」
ひらり、とはいかず体を押し上げてもらってようやくと言う感じだが、とにかく乗れた。それほど極端に高い訳では無いが、広々とした牧場ではこの高さでもはるか向こうまで見渡せる。
「ではこのまま辺りを散歩します。変に力を入れず、背筋だけ伸ばしてくれればいいですよ」
「はい」
馬の背に揺られて牧場の散歩が始まった。こうして牽かれていく馬の背に乗っていると、どこぞの貴族様にでもなった様な気がして悪くない。
「お、エステルさんだ。おーい!」
エステルに向かって手を振る、向こうも手を振りかえす。それを受けて馬もそちらの方へと牽かれていく。
「やあ、ジャン。ずいぶん満喫しているようだな」
そういえば一応仕事で来ているのだった。だがエステルにそれをとがめる様子は無い。
「馬に乗る経験もできたようだし、なかなか有意義な過ごし方が出来たようだな」
「いやあ……あはははは……」
誤魔化すように乾いた笑いが漏れ、目が泳いでそっぽを向く。泳がせた視線の先に、一頭のひときわ目立つ姿の馬が在った。
「あの馬、ずいぶん大きいですね」
その馬は今乗っている馬よりも20センチは背が高く、明るい灰色に白いまだら模様が特徴的な姿をしていた。
「連銭葦毛か、珍重される毛色だな」
エステルもその馬を見る。
「ああ、あれですか……」
牧場の人達の声が沈む、はっきりと顔を曇らせている人も居る。
「何かあったのか?」
「元々、都のとある貴族に買われる予定だったのですよ。しかし先の内乱で買い手の貴族が都落ちしてしまい、取引も中止されてしまったのですよ」
「別の買い手を探せばいいじゃないか」
当然の疑問を口にするが、力なく首を横に振って答える。
「足は速いのですが、大きすぎて軍馬や農耕馬として使えないのですよ。農具を着けられないし、背が高すぎて馬上から敵を攻撃しづらいのです。
それどころか体格が大きいと足への負担も大きいので、整備されていない野山を駆けるだけでも、何の拍子で怪我をするか……。
今のご時世では、純粋に牧場を趣味で駆ける為だけの、見栄えのいい馬の買い手はそう付くとは思えませんし。特に種馬として優れている訳でもありません」
「そうすると、どうなるんだ?」
聞きたくない様な気がした。だがここまで聞いて今さら聞かなかった事には出来なかった。
「我らが馬を飼うのはあくまで産業としてです。使い道の無い、利益を生まない馬を飼っていると、その分赤字が増えていくだけです。今ならまだ肉としては売れるでしょう、あまり歳を取ると肉としての価値も無くなり、ただ殺処分する他無くなります」
予想はしていた。役に立たない道具は保持しているだけでも金がかかる以上、すぐにでも捨てられる運命なのだ。
何も言えなかった。自分は処分という運命から偶然逃れてここに居るが、あの馬には逃げる場所なんてどこにも無いのだ。
「あの馬、あとどのくらい猶予がある?」
沈黙を破ったのはエステルだった。
「予定されていた取引から半年過ぎれば処分と言う事になっていますから、あと30日ありません」
「そうか……解った、あの馬は私が買おう」
「えっ、それは構いませんが……本当によろしいので?」
「構わない。飼育場所の手配を済ませ次第、引き取りに来よう」
エステルが連銭葦毛の馬に歩み寄り、優しくなでる。
「今からお前は私のものだ、名前を付けてやらねばな。こいつは雄か? 雌か?」
「雌です」
「そうか、では……よし、お前の名前はヨハンナだ。私はエステリーゼ・ハーカー、エステルだ。よろしくな、ヨハンナ」
答える様にその馬、ヨハンナが高く嘶いた。
「そうか、気に入ったか」
エステルはヨハンナを、愛おしそうにいつまでもいつまでも撫でてやっていた。
◇
「――と言う様な事がありまして」
中小国村での仕事を済ませ、一泊して戻り報告を終えたさらに翌日、ジャンは高星に村での出来事を伝えた。
「なるほどな。エステルが突然、実用に耐えない馬を買ったと聞いたときは何事かと思ったが、そういうことか」
「棟梁には、エステルさんが何故突然そんな事をしたのか解るのですか?」
「その馬は、他の者とは違う物を持って生まれ、他の者とは同じ様には生きられず、唯一の生き方も突然の不幸に因って絶たれ、ただ死を待つばかりだった所を幸運にも救われた。
どこかで聞いた様な話じゃないか」
「エステルさんがあの馬に自分を重ねていると? でもエステルさんはただ待つしかできない訳じゃなかったのでしょう?」
「その自ら進む事の出来る力が、自分をその境遇に追いやったものに起因しているのだ。皮肉にも程があるだろう」
確かに、エステルはその特異な出自が無ければ、励んで力を得る事も無かっただろう。だがそもそも、その出自が無ければそれを必要とする事も無かった。
自らを苦難の道に追いやったものに身を助けられる、そこにどんな葛藤がある事だろうか。
「自分自身を忌み嫌う原因となる力に因って生き延びる。無力なまま偶然の恩寵で生き延びる。どちらが幸せかは解らんし、どちらも幸せとは言えないかもしれない。
だが彼女らは、たとえそれが更なる苦悩と絶望しか生まないかもしれなくても、死よりも生を選んだ。
万に一つの星明かりが差す事を信じて、生きる事を選んだ。そういう事だ」
「死ぬよりも、生きる方が辛い事があるのですか?」
「間違いなく、ある。そういう者にとって死は絶望では無く、救いだ。私もそうだ」
「棟梁も?」
「私にとっては死こそ最後にして、至上の安息だ。だからこそどんな生き地獄であろうとも、突き進む覚悟はできている。最後には必ず救いがあると、確信しているからな。
あとは何時、最後の救いを求めるかだ。私にとってその時は、死がやって来た時だ、こちらから足を向ける気はない。猶予がある限り、戦い続ける。
そんな人生でも幸せと言えると思っている。だがそんな生よりは死の方が良い、いや、死の方が幸せだと思う者も居るだろう」
高星は、窓の外の遠い山並みを見ていた。しばらくそのまま動かず、やがて眼を閉じて首を少し反らしてから、ジャンの方に向き直った。
「ジャン、帰って来て早々で悪いが、またしばらく外泊してもらうぞ。今度は私の伴だ、近いうちに数日空ける事になるだろう」
「棟梁のお供なら、喜んで!」
「元気のいい事だ、銀に山に入る用意をしておく様に伝えておいてくれ」




