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白刃を構えたまま足音を立てない様に入る。個室が四つある程度の大きさの厠だ、息を潜めていても聞こえる可能性は高い。
全神経を聴覚に集中させる。まだ遠くの喧騒が微かに聞こえるだけだ、ここではないのかもしれない。
入り口から近い順に個室の戸を開けていく、戸を開けると隠れる場所は全く無い。もし居るとしたら戸を開けた瞬間に襲ってくるだろう。
三つ目の戸に手を掛ける寸前、直感的に何かを感じて動きを止めた。最大限の警戒をしながら、顔を床に着く寸前まで下ろして、戸の隙間から中を窺う。この体勢の時に襲われたら危うい。
足だ、戸の隙間から人の足が見える。それが誰のものであるかは死体にしてから確認すれば良い。高星は勢いよく立ち上がると、腰の高さに剣を構え、気合と共に渾身の力を込めて戸を突いた。
手応えが無い、戸を開くと小窓から半身を乗り出している男の下半身があった。高星の刃は際どいところで股の下をくぐっていたのだ。
「居たぞ!」
小窓から必死に身を乗り出している男が誰であるか確信した高星は、腹の底から声を上げた、厠の入り口を固めていた従者が突入してくる。
戸板から剣を抜こうとするが、深く刺しすぎて引き抜くのに手間取る。その間に男は、安東家の現当主は転がる様に窓から逃れた。実際、狭い屋根の上を三回転し、庭に転げ落ちた。
階段へ向かって駆けるなどと言う選択肢は高星の中には無かった。捜し求めた相手が屋根から落ちた事を確認すると、窓から身を乗り出し、屋根の上に立つ。さらに屋根を蹴って跳躍した。
◇
突然目の前に誰かが落ちてきた。とっさに足を止めるが、降り積もった雪でややすべり、バランスを崩すが持ちこたえる。
男は落下の衝撃で一瞬うずくまったがすぐに立ち上がり、ジャン達六人に気付くとふらつく足取りで反対方向へと逃げようとする。
だが向こう側から警備兵では無い一団が現れると、必死の面持ちで辺りを見回す。そこにもう一人の男が、こちらは飛び降りてきて、先の男を挟んで反対側に、きれいに着地した。高星だ。
「王手の様ですな、父上」
「高星、貴様本当に……本当に私を殺す気か……?」
初めて見る高星の父親、安東子爵家現当主の顔は、表現に困る程に歪んでいた。怒りや絶望や憎しみ、他にも様々な感情が複雑に絡み合っているのだろう。
「情況が理解できている様で助かります。これ以上、無用な血を流さないためにも、一刻も早くその首をいただきたい」
「それでどうする気だ」
「父上では出来ないし、する気も起こさない事をします」
「馬鹿な事は止めろ」
「……何をするかも聞かずに、馬鹿な事とおっしゃるのですね。あなたは昔からそうだ」
「……」
「否定すらもしていただけないか。まあいい、今更期待などしておりません」
「お前は、母親や弟も殺す気か?」
自分が殺される事を観念したのか、高星の父親は自分以外の者の身の安全を聞いてきた。
「向こうから何もしてこない限り、こちらから手を出す気はありません。あくまで私の望みは安東家当主の座、それさえ譲っていただけるのならば、父上を殺す必要も無いのですが」
「断る、お前に当主は継がせん」
「それは私が力づくで奪いに来たからですか、それとも何もしなくてもですか」
「殺すなら殺せ」
「……話をする気は無い様ですね。ただ一つだけ聞かせてもらいたい、ジョバンニはこの事を予想していたのですか?」
「あの時、相手にしなかったのは失敗だった。あいつはあいつでお前の事となると過激な事を言うからな。まさか本当にこんな暴挙に出るとは」
「確かに暴挙かもしれない、だが愚挙を放置するよりはましと思っての事です」
「私のしてきた事が愚挙だと?」
「違うと仰せか、ならば救い様も無く、あなたは当主失格だ」
「お前にそれを決める権利があるとでも?」
「あるとも。全ての価値は私が決める、そして私が決めた価値観に沿って私は動く、異を唱えるなら戦って決着を付ける。私にとっての世界はそれが全てだ」
「傲慢だ」
「何とでも言え、理解されようなどとは思っていない。むしろ誤解された方がましだ。
……そろそろ時間も無くなってきた、これで終わりにしよう。誰か剣を貸せ」
高星の後ろにいた三人の内の一人が進み出て自分の剣を手渡した、高星はそれを父親の足元に放り投げた。
「抜け。父に対して最後で最低限の礼儀だ、私を殺せたら助けてやる」
高星の父親、いや、安東家当主は震える手つきで剣を取り、抜き、構えた。
「……もうひとつ、礼儀を通しておこうか」
そう言って、高星は剣を鞘に納めた。
「私はこれでいい、それとも対等な条件の方がよろしいか?」
当主は小さく首を振った、もはや形振り構っている余裕も無いらしい。
両者が対峙する、剣を構えた当主、剣を納めた鞘を左手で掴むだけの高星。
ジャンはふと、この光景をどこかで見た気がした。そう、あの朝、屋敷の中庭で……。
そこまで思い出したとき動きがあった。当主が声を上げて高星に斬りかかる。
相手は音がずれたような高い叫びを上げて斬りかかってくる。高星は何度となく繰り返した動きで、刀身を微動だにさせず抜刀した。
鞘離れの瞬間、刀身を回転させ刃が下を向く様にする。大きく後ろに引いた左足を、今度は大きく踏み込む、同時に右肘を伸ばして剣を振り抜き、さらに左掌で刀の背を押す。
低い音がして何かが宙を舞った。だがそれは僅かな時間の事で、すぐに音を立てて地面に落ちた。安東家当主の、いや元安東家当主の、首の無い体が仰向けに倒れた。
「……私が抜刀術が得意だと知っていれば、対等な条件での戦いを選んだろうに。私の事を何一つ知ろうとしなかった、それが貴方の敗因だ……」
気付けば安東家の家臣達も遠巻きにこの様子を見ていた。衆人環視の中、安東子爵家当主は死に、純白の雪の上に真紅の彼岸花が咲いていた。
しばらくの間、華の中心に立つ安東高星は、瞼を落としたまま、ただ佇んでいた。
◇
時刻はすでに午前六時を過ぎている、夜の長い季節と言えど流石に東の空が白み始めてきた。
今、ジャンは安東家本屋敷の三階から東の空を眺めている。いや、本当は眺めてはいない。眺めているのは高星で、ジャンは傍に控えているだけだ。
まだ終わった訳では無い、むしろここからが本当の賭けだと高星は言う。できる事は何も無かった、しかし高星はジャンに傍に控えている様にと言った。
安東家前当主を討ち取った今、家臣の、特に軍の支持を確保するのが最後の課題だった。これに失敗すれば全ては無に帰る。
屋敷内に居た者達はすでに正面広場に集められている。とりあえずは彼らから支持を取り付ければ、このクーデターは成功したと言えるだろう。しかし高星は待っていた、それが何かは今更言うまでもない。
「高星」
「エステルか、首尾は?」
高星は窓の外を見たまま振り向かない。
「今のところ順調、と言って良いだろうな」
「そうか」
「済まなかったな、肝心なところに居れなくて」
「私が上を抑える様に指示したのだ、お前に責任は無い。むしろその後の処理がこうして上手くいっているのはお前のおかげだ」
「そう言ってもらえると助かる」
これで全員だ、あの後、高星は一人一人にねぎらいの言葉や礼を言って回った。結局何もできなかった自分にさえ、よくがんばったなと言ってくれた。
いつか、本当にその言葉を受け取る事が出来るだろうかと思う。
「……あっ」
それが誰の声か、一瞬解らなかった。その短い呟きだけは、いつもの『高星』のものではなく、どこにでも居る二十歳を少し超えた青年の声だった。
「どうかしたか?」
「いや、星が出ているな……太白星だ」
見ると白み始めた東の空に、まるで太陽に負けじとするかの様に、ひときわ輝く星が光っていた。
「確か、軍神の星だよな?」
「そうだ、太陽に最初に反旗を翻し、最後まで抵抗する、我らの神の星でもある。
……それも昔の話だ」
太陽に抗う星、それは高星の事を言っている様な気がしてならなかった。
「……来たか!?」
突然、高星が窓から身を乗り出した。高星の視線の先を追うと、朝日を背にした騎馬が一騎、街道を駆けてくる。
逆光でそれが誰だかは解らないが、見えなくてもそれが高星の待ち人である事は、疑いようがなかった。
「エステル、すぐに迎えを出せ。打ち合わせの用意は?」
「必要ない、すでに話は付けている」
「仕事が早いな、では後は予定通りに」
「はっ!」
エステルが出て行った後も、しばしの間高星は空を、いや星を見ていた。
◇
その後の展開は、おそらく全て高星の筋書き通りに運んだ。
駆けつけた提督を加えた家臣達の前に現れた高星は、自分が父を殺した事、今から自分が安東家当主である事を宣言し、長ったらしい言い訳などをする事無く、最善ではないにしても、こうする方がしないよりも良いと信じたうえでの行動であると言い切り、自分に従うよう求めた。
それに対してすかさず提督が、高星を支持する旨をを大声で宣言した。安東家の家臣団の首席と言える提督が真っ先に支持を表明した事により、その場の他の者達も次々と忠誠を宣言をした。
その後、提督は一旦軍勢の元へ戻り、残された者達や高星に忠誠を誓った家臣達は、エステルの指示の下、その日一杯、屋敷の掃除に励んだ。
幸いと言うべきか、襲撃側の方に死者は無く、襲撃された側の方も、標的だった安東家前当主とは別に死者は八人で済んだ、と言うべきなのだろうか。つまり紅夜叉一人で半分殺した計算になる。
幸か不幸か死体の始末をした経験はあったので、そちらに回った。ただ流石に紅夜叉の餌食になった死体は、あまり見たくも無いありさまだった。
そんな中、一つの事件が起きた。高星の母親が首を吊って自殺したのだ。それを知った高星は、あの人は最後まで妻であり、母にはなってくれなかったなぁと漏らしただけだった。
夕方、といっても屋敷の時計では午後三時を過ぎた頃だが、提督が演習に出ていた軍を率いて戻ってきた。
万が一もあり得るので緊張したが、要らぬ心配だった。兵士達は街に入る前に停止して、その場で高星に忠誠を誓う事を宣言した。
その声は本屋敷からも良く聞こえたし、きっと街中に届いた事だろう。
これでトサの街と、安東家家臣の上層部は掌握した。その事が伝われば他の地域や軍団もなびいて来るだろうと、高星はようやく一息ついた様子だった。
長い長い一日が終わり、終わってみれば高星は安東家当主となり、ジャンもその家来の一人になった。
ジャンは大した事はしていないが、それでもやりきった感と言うか、達成感の様なものを感じていた。
だが、これは始まりなのだろう。これでようやく全てが始まる、始められる場所に立てたのだろう。高星にとっても、ジャンにとっても、そして誰にとっても。
始まるまでがあまりに長かったような気がする、でも始まってからはもっと長いのだろうか? それは、始めてみないと解らない。
だから、始めるのだ。ここから。




