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帝国歴402年第21節14日。いや、もう日付は変わっているから15日か。
一息吐くごとに白い息が夜の闇に吸い込まれていく、自分では見えないが多分、頬は林檎の様に赤いだろう。
寒い。当たり前だ、地面には少し前まで降り続いていた雪がすっかり積り、一面に敷かれた純白の絨毯が闇を照らしていて、灯りの要らないくらい明るい。
安東家当主の座を奪うクーデター計画、それが今のところ全て順調に進んでいた。一昨日のうちに高星とエステルを含む実行班は、疑われる事無く屋敷内に入り込んだ。
昨日は予定通り歩兵一個大隊約五百人と騎兵一個大隊約三百人、それに二百トン級軍船六隻と百トン級軍船四隻の計千六百トン二個艦隊が演習のために出発した。
出発はちょっとしたパレードだったが、今夜留守にする兵力を聞き、それを実際に目にすると、なるほどチャンスは今夜しかないと思えた。
そして今、ジャンと銀華ともう一人の冴えない青年の三人で構成された第八班は、安東家本屋敷を囲む塀の外に潜んでいる。
第八班の任務は、計画が順調に進めばこの辺りで大騒ぎをして陽動と攪乱をするだけで良い、つまり戦闘になって危険に晒される事は無いと言う事だ。それは少し残念でもあるが、高星の気遣いなのだろう。
現に名前も覚えていない冴えない青年も、普段は事務仕事が専門で、腕っぷしはまるで駄目だと言う事だ。
それならなんで付いて来たのかとは思わない。自分もまともに役には立てないだろうけど、ただ待ちたくは無くてここまで来たのだから。
それにしても、いつまで待てばいいのだろうか。こう寒くてはただ待っているのも大分辛い。
一度、銀華が背中から抱きかかえる様にしてくれたのは温かかったが、流石に恥ずかしすぎてすぐに振りほどいてしまった手前、再びこちらから頼んだりはできない。
仕方なく飛んだり跳ねたりして耐えていると、遠くから大勢が騒ぐ声が聞こえた。正門の方だ。
始まった、二人と顔を見合わせるとすぐに声を張り上げた。煽り文句ならたっぷり考えてある、まずは演習に出たはずの軍が攻めてきたとでも言ってやろう。
◇
都の貴族達の邸宅と比べれば慎ましいと言っても、やはり屋敷は広い。高星は廊下を横に三人並んだ真ん中に位置取って進んでいた。エステルは後ろで、やはり横に三人並んだ真ん中に位置取って背中を守っている。
まだこちらの行動は気付かれてはいないはずだ。だが用心は怠らない、両脇の2人はいざというときは盾となって死ぬ覚悟であるし、不意打ちを掛けられそうな戸の影や、襖張りが続く所は徹底的に調べながら進む。
仮にも自分の家なのだ、危険な場所は全て把握している。さらにエステルが『消音』の魔術を使っているので、音を立てても気付かれる事は無い。
決行の時を待つ間、口から心臓が飛び出しそうだった。雪が降ってきたときは黒装束が裏目に出るかとも思ったが、今更どうしようも無いので腹をくくるしかなかった。柄にもなく神に祈った。自室の小さな神棚に手を合わせ、軍神・太白神に勝利を祈り続けた。
やがて屋敷の時計が二時を指し、行動を開始した。交替したばかりの裏門の守衛を縛り上げて蔵に放り込み、代わりに第三班に固めさせた。
これで朝まで気付かれる事は無い。その足であの男の寝室に向かう頃には、奇妙な程に心は落ち着いていた。焦りは無かった。
二階に上がり、このままならあと一分で首が取れる、そう思い始めたとき前方の戸が開いて、抜身の刀を煌めかせた三人が突っ込んできた。
「高星!」
エステルが叫ぶ、それよりも早くすでに刀を抜いていた。後ろからも音と声と気配がする、どうやら挟み撃ちにあったらしい。
しかしそんな事を考えているときではない、斬りかかってきた一人と刀を打ち合う、両脇でも同じ様にして命を懸けたやり取りが始まっている。
三対三、だが狭い廊下でどちらも横に並んでいるため実質一対一だ、正面だけ相手にすればいいのは良いが、大きく動く事ができず、横方向に大きく剣を振る事もできない。必然的にお互いに向き合って、隙の窺い合いになる。
相手が突きを繰り出してきた、だがこれは左へ弾きながら半身になって難無くかわす。突きは深く踏み込む必要があるため見切りやすい、ましてやこの状況で致命傷を与えようと思ったら、まず突きで来ると読んだのが当たった。
そのまま刀を振り下ろして反撃する、しかし大きく振れないため威力が出ない。相手が大きく刀を振り上げたのに巻き込まれて弾かれてしまった、相手の刀の切っ先が天井をこする。
今のは峰から当たったから良いが、やはり普通に上段から振ろうとすれば、天井に刺さりかねない。
突きを凌がれた相手は、今度は刀を立てて押し込んできた、こちらも腋を締め、刀を立て、肘を伸ばして体重を掛けて押し込む。金属がぶつかり合う音がして、重い抵抗が伝わってくる。文字通り鎬を削る押し合いだ、少しでも下がれば押し切られる。
そのまましばらく押し合った、金属が擦れる嫌な音が響く。このままではらちが明かない。お互い隙を見せるとしたら疲労がたまった時だろう、それではどちらが勝つかは賭けになる、仮に勝ったとしてもまだこの先があるのだ。
渾身の力で相手の刀を弾く。相手が少し崩れるが、こちらも距離を取るので精一杯だった。
どうする? 相手もなかなかの手練れだ、このままでは突破できない。正面の相手に対して構えながらもすばやく周囲の様子を探る、どこかに突破口は無いか。
場所は2階の廊下、近くに利用できそうな物は無し、エステルや操と違って小技の類の心得も無い。両脇の二人も自分と似たり寄ったりの状況……。
活路を見つけた。迷っている時間は無い、自分のために自分以外の人間に危ない橋を渡ってもらうしかない。右隣の者を肘で小突き、足を二度踏み鳴らした。目で解ったと返してきた。
前に出た、刀を小振りに振って斬りかかる。難無く防がれるとすぐに大きく下がる。相手が間合いを詰めようと追ってきた。
不意に目の前の相手が転倒した、高星の右の者に足を掛けられたのだ。足を掛けた側も体勢が悪くなり、隙を見せる事になる。だが構ってはいられなかった。
刀を逆さにして、廊下にうつぶせに倒れた相手の心臓を背中から貫く。絶叫も上がらなかった。
すかさず刀を引き抜いて前を見る、右の者は窮地ではあったがまだ生きていた。踏み込んで突く、相手の右肩を刺し貫いた。相手は苦痛の叫びを上げて、思わず左手で傷口を押さえようとしたが、その前に切り伏せられていた。
二人がやられたのを見て、残る左手側の相手も逃げ出した。しかし背中を向けて数歩のところで背中にナイフが突き刺さり、そのまま倒れた。振り向けばすでに後ろの三人を始末したエステルが、ナイフを投げた後の腕をこちらに伸ばしていた。
「おみごと」
「高星、大事無いか?」
「無傷だ、きわどかったがな」
虎口を脱した事で考える余裕ができると、この襲撃者の事が気になった。すでに計画が知られていたのか? それにしてはこの六人だけというのは不自然だ。死体を検めてみようと背中から貫いてやったうつぶせ死体を起こす。
「こいつ……家の者じゃないな?」
先程まではそんな余裕も無かったが、こうして見ると若い。多分、高星と同じ位の歳だろう、それに見覚えのある気がする。
先を急ぎたいが、計画が漏れているのならこのまま進むのは危険かもしれない。死体を全て調べてみるしかないだろうと思い、一人ずつ検める。エステルに背中を刺された者の顔を見たときに思い当たるものがあった。
「こいつは……」
「知っているのか?」
「ああ、ジョバンニの取り巻きの一人だ。とするとこいつら全員そうか」
彼らだけで屋敷内に泊まり込むのは不可能のはずだ、となればジョバンニの奴がこの事態を予想して残して行ったと考えられる。つまり高星が決心するより前に、今のこの事態が起こる可能性を予見していたという事になる。
「……あいつを生かしたのは致命傷になるかもしれんな」
追放したつもりが虎を野に放ったかもしれない。歯噛みして悔しがりたいが、そんな事をしている時間は無い。
いくぞ、と言おうとして口を開いた時、半鐘を打ち鳴らすけたたましい音が鳴り響いた。緊急事態を知らせる警鐘だ。
「どうやら始まった様だな」
「どうする、高星」
「まだ予定の範囲内だ、しばらくは他の皆が引きつけてくれる。急ぐぞ、走れ!」
密かに事を為す事はならなかった、だがそれならば強襲して事を為すまで。未だ事態は誰に有利ともつかぬまま、急速に変化を続けていた。
◇
夜勤の者を除けばとうに皆寝静まっている時間帯。だが今は半鐘の音がけたたましく鳴り響き、夢から叩き起こされた者達は何が起きているかも解らず狼狽えている。
そんな連中を突き飛ばす様にして、高星は当主の寝室の前までたどり着いた。そして躊躇なく戸を蹴破る。
戸の陰からの攻撃を警戒して、両脇の壁に刀を突きたて、エステルが先頭切って突入する。だがその必要もなかった。部屋はすでにもぬけの殻になっていた。
「逃げられたか」
エステルが顔を曇らせるが、高星はその脇を通り抜け布団を調べる。
「この温かさならほぼ入れ違いで出たはず、まだ近くに居るはずだ」
高星が立ち上がり、一瞬の思考の後、指示を下す。
「この騒ぎで一階に降りるとは考えにくい。エステル、お前達は上の階を捜せ。私は二階を洗う」
「上にいなかったら?」
「一階で乱戦だ、後の判断は任せる。行け!」
高星の鋭い声に弾かれる様に班が二つに分かれる。高星自身も二人を率いて駆けだしながら思考を巡らす。この状況でどう行動するかを読み切らなければ、しらみつぶしに捜すしかない。
真っ先に執務室を考えた、だがすぐに否定した。あの男は突然窮地に立たされたとき、毅然と指揮を執れる様な器ではない。
案の定、一応確認した執務室は人が入った形跡がまるで無かった。時間的余裕から考えて、どこかの部屋に入るにも、転がり込むと表現するのが適当な情況だろう。
ならば気を付けて調べればすぐにそれと判るはずだ。しかし時間が経ち、向こうに余裕ができればそれも判らなくなる。
次の候補として浮かんだのは警備役の控室だ。常に二・三人の警備役が詰めているし、今の様な事態の時のための武器も保管してある。身の安全だけを考えている人間なら、一番に駆け込みそうな場所だ。
控室に踏み込もうとするときは、流石に激しい戦いを覚悟した。だがこちらが踏む込むより先に控室の戸が勢いよく開き、武装した警備隊が現れた。
伴の者が斬りかかろうとするのをとっさに手で制止する、相手の顔に襲い掛かろうとする緊張感や敵意は見られなかった。
「あ、これは若様」
「お前達、父上を見なかったか?」
「いえ、寝所を飛び出された様ですが、不甲斐無い事にどこにおられるのか把握しておりません」
「そうか、お前達は外の賊を迎え撃て。父上は私がお守りする」
「はっ!」
警備兵は足早に廊下を駆けて行った。姿が見えなくなったところで伴の1人が感嘆する。
「おみごとです、若」
「だがいつまでも誤魔化しきれはしないだろう」
「しかし、ここでもないならどこに行ったのでしょうか」
「護衛をしてくれる者の所に駆け込まなかったのだ、おそらく誰も居ない様な所に隠れているのだろう。それらしい場所を捜すぞ」
「はっ」
それからは端の小部屋や、物置代わりになっている空き部屋などを重点的に捜し回った。だがいずれも人の姿は無かった。
すでに騒ぎが大きくなってから時間が経っているはずだ、いつ首謀者が露見したとしてもおかしくない。少しずつ焦りが迫ってきた。
「どこだ、どこにいる!?」
「上か下に逃れたのかもしれません」
「あり得る事だ、だがエステル達が見つけたなら合図があるはずだ」
「ならば一階に?」
「裏門をすでに抑えられている事に気づかずに、そこから脱出を図ったのかもしれん。だが途中ですでに抑えられている事に気づき、そのまま一階に居るか?」
庭ではすでにあちこちで剣戟の音がしている、屋内に踏み込むのも時間の問題だろうが、時間を掛ければ勝てるとは限らない。
軍は留守にしていると言っても市内には警備隊も居るのだ、異変に気付いて大部隊を繰り出されれば全ては終わる。だがどこか見落としがあればそれこそ命取りになる。
まだ二階を捜すか? 一階に斬り込むか? 判断と言うより賭けに近い二択だ、どちらを取るべきか。
奥歯を噛みしめていると、不意に何かがきしむ小さな音がした。見れば便所の戸が少し開いている。それが風を受けて揺れ、きしんでいる。
思わず目を見合わせた。伴の二人も目を見開き、まさかという顔をしている。抜身の刀を右手に持ちながら、ゆっくりときしむ戸を開きなかへ足を踏み入れた。




