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第21節8日午後、安東子爵家の軍勢が帰ってきた。その中にはもちろん、安東高星子爵も含まれている。
すぐにでも屋敷に帰ってくるかと内心期待したが、エステルいわく、高星は戦後処理を放り出して戻ってくる様な人ではないから、しばらく政庁に留まるだろうとの事だった。
「しかし妙に早いな? まだ二十日程しか経っていないから、往復の日数を考えると十日も戦ってないはずだが」
「少なくとも私が帰路に就くまでは、大きな動きがあったという話は聞かなかったわ。何か良くない事が起こったのかしら……」
「大丈夫、将兵に特に暗い様子は見受けられないから、誰かが戦死したりした訳では無いはずだ。高星は無事で居るよ」
「ありがとう。エステルちゃんは優しいわね」
「お礼を言われるような事はしていないさ。それよりも私は高星の手伝いに行ってくる、何があったのかも気になるしな」
「じゃあ、私はお夕飯の買い出しに行きましょうか。せっかく高星が帰ってきたのだからおいしい物を食べさせてあげないと」
「それがいい。では皆、留守番を頼むぞ」
そう言ってエステルは外套を羽織った、もう朝晩は息が白くなる程寒い季節だ。ふと、エステルが思い出した様に振り返る。
「そうそう、操」
「はい? なんですか?」
「私と銀華さんが留守の間に、紅夜叉とイスカとジャンが喧嘩しない様に見張りを頼むぞ」
「お任せください!」
酷い言われ様だと思った。見張りが居ないとすぐにでも喧嘩を始めるとでも言う様な扱いだ、そんなにひっきりなしに喧嘩なんかしない。二・三日に一度、ジャンかイスカのどちらかが紅夜叉と口論になるくらいだ。
その上最年少の操に見張られるとは。彼女が相手では二つの意味で大人しくするしかないのだが。
一つは、年下に諭されるのは流石に情けなさすぎるという理由、もう一つはうっかり操に手を上げると、紅夜叉が殺しにかかってくるという理由で。
一度、紅夜叉との喧嘩の仲裁に入った操を突き飛ばしたときは、本当に殺されるところだった。
高星とエステルが二人掛りで紅夜叉を押さえつけたが、その前に止めようとした三人が返り討ちに遭い、後で高星が真剣を持っていたら五人は死んでいたなとつぶやいていた。
ともあれ別にしたくて喧嘩をしている訳でもないのだから、冗談にしたってそれは無いだろうと思うのだ。
◇
秋の陽は早く沈むものだが、晩秋ともなるとそれは格別早い。薄暗いどころかすっかり暗くなった頃に、高星はエステルと共に帰ってきた。
ジャンが初めてここに来た時の様に、帰ってきた高星が皆に囲まれる。あの時との違いはジャンが囲まれる側から囲む側になったという事だ。
高星は皆に笑顔で応えていたが、その笑顔は明らかに引きつっていた。また何か腹に据えかねるような事があって、裏庭で桶を地面に叩きつけた時の様な気分なのを、我慢しているのかもしれない。
しかし今回は怒りを爆発させる様な事は無く、終始笑顔のまま久々に全員揃った食事を楽しんだ。
夕食が終わればいつもは自然解散となるのだが、その日は皆大広間に残ったままだった。それぞれ周囲と雑談をしてはいるが、皆チラチラと高星の方に視線を向けていた。
誰もが高星の不機嫌を感じ取り、何があったのかを気にしているのだ。当の高星は作り笑顔に疲れたのか、先程までとは打って変わって深刻な表情で俯いていた。
「そんな難しい顔してないで、さっさと話してあげればいいじゃないの」
台所から戻ってきた銀華がフンと鼻を鳴らして、呆れた様に言う。
「どうせ皆何があったのか聞きたがっているんだから、いつまでも一人で深刻にしていないの」
「……気持ちの整理がつかなくてな、切り出しづらかったのだ」
やれやれと言う風にため息をついた銀華は、エステルの方に視線を向けた。一瞬、二人の視線が合い、エステルが解ったという風に頷く。
「では高星、そもそもの目的から聞くが、シュヤ家との戦闘回避は首尾良くいったのか?」
「ああ、それに関しては小競り合いを数回行っただけで済んだ。向こうもそれ程の兵力が居た様子は無かったし、銀華に頼んだ密書は上手く働いてくれた様だ」
「それは良かった」
「……良い事なぞあるものか」
子爵が額に手を当てる、声が少し震えだした。
「……なにがあった?」
「なにがあっただと! あの無能め日和やがった!
先に戦端を開いていた属州総督率いる政府軍が劣勢だと知って、私が何かをするまでも無く日和見を決め込みやがった!
自分が何のために反対を押し切って出兵したのか忘れたのか! 初め協力しておいて土壇場で日和見を決め込むなぞ、誰からも恨まれるだけではないか!
結局全方位から軽蔑と憎悪を買っただけ。こんなふざけた戦をする奴があるか!」
軍事に関して素人でも、常識としてそれがあり得ない事だというのが解る。高星が烈火のごとく怒り狂うのも尤もだ。
「……高星、気休めにしかならんが過ぎた事を悔やむより、無益な犠牲を出さずに済んだ事を良かったと思おう」
「……そうだな、こんな馬鹿馬鹿しい戦で死ぬものは、少なくとも我が家の将兵の中には居なかった。それは喜ぶべきか」
「うむ。それでもう一つの質問なのだが、戻ってくるのがやけに早かったが何があったのか?」
「それなんだが……私にも良く分からんのだ。主戦力である政府軍が突然引き揚げてしまったので、我々としても何が何だか分からないまま引き揚げてきた。
今あらゆるルートで情報を集めさせている所だ」
「政府軍が突如退却……? 高級将校の戦死や疫病の流行は?」
「無い。まだそれ程の大規模な決戦に打って出る前の探り合いの段階だったし、疫病ならば我が軍や敵軍、周辺住民にも兆候が出るはずだ」
「ふむ、確かに退却の理由が分からんな」
「おそらく戦場の外に原因があるのだろうが、それこそ戦地では知り様がない。情報が入るのを待つ以外には何とも言えないな。ただ……」
「ただ?」
「慶事ではなく、凶事である事は確かだろう。それが誰にとってかは解らないが、願わくば我々にとって凶でない事を願いたい」
「どのみち今は待つしかないか。まあ高星はゆっくり休むべきだろうから丁度良いとも言えるか。さ、皆も解散だ。高星をゆっくり寝かせてやろう」
高星を休ませる事には異存は無く、皆口々におやすみの挨拶を言って解散となった。
ジャンもこの時点では特に差し迫った事がある訳でもないし、高星の傍にいながらゆっくりと自分は高星に何を見ているのか、そしてこれから自分はどうするのかを考えるつもりでいた。
だが事態は、いや時代は知らないところで大きく動き出し、ジャンも重大な決断をすぐに迫られる事になるのだった。
その第一報はこのたった二時間後にやって来た。
◇
何かを激しく叩く低い音で、寝入ったばかりのところを叩き起こされた。眼をこすりながら体を起こす。音は今も続いている。
音の方向と種類からして、どうやら正門を叩く音の様だ。同室の3人と互いに顔を見合わせると、誰が言うともなしに戸を開けて、外の様子を見ようと顔を出す。
すでに同じように部屋から顔を覗かせている者、寝間着姿で様子を見に行く者、まだ寝惚けているのか気合の入らない大声で不満を鳴らす者など様々だ。
このまま居てもしょうがないので、一体誰が何の用でこんな時間に来たのかを確かめようと中庭に降りると、丁度寝間着姿の高星が、こっちはいつもの服装のエステルを伴って現れた。
眠りを妨げた張本人に違いない来客が二・三人にぶつかるのもお構いなしに、勢いよく高星に駆け寄る。流石にやや不機嫌そうに何事かと尋ねる高星に、来客は耳打ちをした。
高星の顔色がさっと変わるのがはっきりと見て取れた、先ほどまでの眠気は全く感じられない険しく引き締まった表情で、来客とエステルに短く何かを指示すると、三人は弾かれた様にそれぞれ別方向へと走って行った。
来客は帰った様だ、高星の方はものの数分のうちに着替えた姿で再び現れた、エステルは箱や紙束を大量に抱えて現れた。今度は来客の代わりに銀華が高星のそばに駆け寄り二言三言話していた。
「皆、突然の騒ぎを訝しんでいるだろうが、火急の用が出来た。しばらく帰れないかもしれないが、できれば詮索は控えてほしい。何度も済まないが留守を頼むぞ!」
それだけ言うと高星とエステルは飛び出していった。しばらくざわざわとしていたが、銀華が寝るように促すと、皆しぶしぶ戻っていった。
気にはなるが、高星がわざわざ詮索をしない様に言ったという事は、なにか重大な事なのだろう。
この時すでに、もう引き返せないところまで来ていたのだが、この時はまだ高星は大変だなと他人事の様に思っていただけで、自分がその渦中にいると知るのは次の日になってからだった。
◇
何事かは解らないが重大な事態であるらしい事は解ったし、高星もしばらく帰れないかもしれないと言っていたので、てっきり最低でも二・三日は空けるものだと思っていた。
だがその予想は外れ、翌朝には高星とエステルが疲れ、やつれた表情で戻ってきた。
これには誰もが意外な表情を浮かべていたが、一人銀華だけは手早く朝食を2人分追加したのは、見事な手際と言う他無い物だった。
高星はいつにもまして食欲がない様子で、少量の白米にお湯を掛け、塩を加えて味を付けただけの物を流し込むと、食事が済み次第屋敷の皆を集める様にと静かに言ったきり黙りこんでしまった。
程なくして屋敷の全員が残らず大広間に集まった、今までに無い重苦しい雰囲気が漂っている気がする。
高星が怒り狂っていた出兵前の話し合いでも、深刻ではあったが今の様に息苦しさを感じた事は無かったはずだと思う。
「皆、集まったな。昨夜は詮索を控える様にと言ったが、じきに誰もが知る事になるだろうから、早いうちに告げておこうと思う。
そしてこれから伝える事を踏まえて、それぞれ自分の身の振り方を考えて欲しいと思う」
誰もが固唾を飲んでいる。いや、唾を飲み込む音を立てる事さえ憚っている様に全くの無音だった。ほんの短い時間のはずだが、これが永遠に続く様な錯覚に囚われる。
「去る20節3日……帝都で内乱が勃発した。ペルティナクス大公率いる軍勢およそ一万と、アウストロ一門の軍勢およそ八千五百が市街戦を繰り広げた。その結果6日になって皇帝皇后が死亡、アウストロ一門は都落ちしたらしい」
「帝都……」
「内乱……!?」
場が一斉にざわめき立つ。重大事件だろうとは皆が予想していた事だが、流石に予想を超えた事態だったようだ。
「詳細は未だ不明だ、だがじきに帝都駐在の当家の者から続報が届くだろう。だが現時点、この情報で解った事が一つある」
「属州総督軍が突然シュヤ家攻めを中止した理由だな? この情報が届いたから、今後起こりうる事態に対して備えるために、慌てて軍を引いた訳だ」
「エステルの言う通りだ、流石に皇帝直轄領の総督級にはいち早く情報が届いたようだな。おそらく総督は箝口令を出しただろうが、帝都で万に届く数の二つの軍勢が衝突すれば隠せるものでは無い。
こんな辺境まで情報が届いたくらいだから、すでに全国の貴族・領主・総督などには第一報が届いているだろう。市井の立ち話の話題がそれで持ちきりになるのも、そう遠い事ではあるまい」
確かに高星の言う通りだろう、すぐにでも帝国の全ての人間がこの事実を知り、この機に自分の野望を叶えようと考える者も当然出てくる事だろう。
だが高星は『それぞれ自分の身の振り方を考えて欲しい』と言った。この事件は大事件には違いないが、自分には何か関係があるだろうか?
「なあ子爵、大事件が起きた事は解ったけど、それが俺達に何か関係があるのか? いや、そりゃ子爵は無関係ではいられないだろうけども」
そう疑問を口にするジャンを、高星は黙って見つめた。少したじろいだが、高星の表情からは何も窺い知る事はできなかった。
「そうだな……ジャンだったらもうこの屋敷には居られなくなるから、落ち着き先を探さないといけなくなるかもしれないぞ」
「えっ?」
「まだ可能性の話だ。だが覚悟だけはしておけ、この先何があったとしてもおかしくは無いからな」
帝都で内乱が起こった事と、この屋敷に居られなくなる事がどう繋がるのか、皆目見当もつかなかった。
ただ漠然とした不安は確かに存在していた、それを何か具体的に言葉で表現すると、不安が現実味を帯びてくる様な気がして考えたくなかった。
おそらく静まり返った大広間で誰もが同じような思いに囚われていたのではないかと思う。
「今後、続報が入り次第皆にも伝える様にしよう。具体的なこれからの話は、その内容を踏まえてする様にすべきだろう。
それまでは……そうだな、自分の立場と言うか、立ち位置と言うものをよく確認して、道を見失わない様にすることだ。以上、解散」




