第1節 泥の洗礼
「 数字が 泣いてるぞ 」
不意に 頭上から掠れた声が降ってきた
土砂降りの雨音に 掻き消されそうな 乾いた しかし妙に耳に残る男の声だった
冷たい泥水の中に蹲り 痛みに耐えていた私は 跳ね上がるようにして顔を上げた
泥と鉄錆の臭いが鼻腔を突く
視界の端で 先ほどまで 私たちが命を奪い合っていた北方の略奪民族たちの死体が 家畜のように無造作に転がっている
戦いは終わったはずだった
─── だが
( ─── 息が できない )
何重もの麻布が 肺を圧迫し浅い呼吸しか許さない
柔らかな肉を潰すための鎖帷子が いつも以上に鉛のように重くのしかかる
鉄の檻が 膨らみを許さぬと 肉を圧殺していた
下腹部の奥は 冷えた鉄の両手鎌で じわじわと引き裂かれるような 未経験の激痛がせり上がってくる
腰が砕けそうになり 泥に膝をつく
それだけではない
私の股の間から 温かい しかし確実に私を蝕む暗赤色が滲み出し 太ももを静かに伝い落ちる
( …!戦場でも無傷だったはずだ )
私の身体は内側から壊れたように 生温かい一筋の液体を滑らせている
一族の誰も 戦友の誰も…誰もこんな肉体の異変を教えてはくれなかった
戦士として生きる私には 己の肉体に何が起きているのか 一滴の知識もなかった
分かっているのは これが麻のズボンを染め抜けば その瞬間に私の人生が終わるということだけだ
だから私は 冷たい泥水を股の間に擦りつけ皮膚を伝うそれを 必死に隠そうと蹲っていた
そこへ 背後から影が差した
振り返ろうとした私の首筋が 熱に侵され肌が粟立つ
頸の皮膚の下で 生まれた時から私を縛り続けてきた12桁の刻印 【 0501-7760-1202 】 が 赤黒く変色し まるで悲鳴をあげ 狂ったように明滅しているのだろう
私の肉体の 意志に反するものが 国家にとって 決して許されないものなのだと告げようとしている
私の前に立っていたのは 継ぎ接ぎのボロ布を纏った 見慣れない男だった
戦場から武具を盗みにきたのか あるいは死体処理の奴隷だろう
( …!)
男の背後で泥を踏む音がした
( くそっ!こんな時にっ… )
振り下ろされた斧が泥を叩く
( 間に合わない!…!?)
そこに男はいなかった
「 ぁ゙がっ 」
( 何が起きた…?……!)
男の頸が見えた
刻印が ない
男には あの 12桁の青白い光 が存在しなかった
─── 無番
私は まだ血の付着した片刃の刀の柄を握り直そうとした
「 …近寄るな……お前 何者だ 」
だが 出たのは 酷く掠れた 獣のような低い声だけだった
私を 兄上の予備 に仕立て上げるため 夏の始めに 父上からサクスと共に烙印を与えられた
私の喉に残る 醜い爛れは 本来の声を奪い 少年らしい あの声には もう二度と戻れない
その潰された声で威嚇しても 男は恐れる様子もなく ただ冷たい目で見下ろしている
その視線は 私の顔ではなく 私の首の後ろ
─── 狂ったように赤黒く明滅する 12桁の刻印 を凝視していた
【次回更新】2026年9月
第2節 無番の男
第3節 知らない
第4節 問題ない




