外伝16 赤い部屋 ― 前半 ―
夜の東京は、ネオンと喧騒に包まれているはずなのに、そのマンションの廊下だけは、どこか“ひやり”としていた。
黒猫呪術代行事務所から少し離れた街区にある、築二十年のワンルームマンション。
大学の新入生がよく住むような、ごく普通の建物──のはずだった。
しかし、その部屋に住むことになった
依頼人・藤森まどかは、ここ数日ずっと胸のざわつきを抑えられずにいた。
大学入学のために地方から出てきて、初めての一人暮らし。
最初は不安よりも期待のほうが大きかった。
夜道を歩いても街灯は明るく、コンビニはすぐ近くにある。
部屋もワンルームながら快適で、勉強机も新調して、生活は順調だった。
……本来なら。
だが。
ある日の夜。
レポートを書いていたまどかは、ふと壁に小さな影があることに気がついた。
「……ん?」
それは針で刺したほどの大きさの“穴”。
今まで気づかなかったのが不思議なくらい、壁紙の白の中にぽつりと黒が浮いていた。
(どうして……こんなところに穴?)
建築の古さか何かだと思い、最初は大した気にもしなかった。
けれど。
なぜかその穴は、“向こう側”が異様に気になった。
気づけば、まどかは穴に目を近づけていた。
じっと、覗き込む。
その瞬間──
「……赤?」
穴の向こうは、“真っ赤”だった。
隣の部屋の壁紙が赤いのだろうか。
そう考えることは自然だった。
しかし、まどかは胸に小さな違和感を覚える。
赤が、単なる壁紙の赤にしては……どこか、生々しい。
それでも特に深く考えず、その日は勉強に戻った。
────翌日。
講義から帰ってきたまどかは、なんとなく、また穴を覗いてみた。
(……今日も赤い。)
真っ赤。
べったりと塗られた油絵のように濃い。
(隣の部屋……やっぱり赤いのかな。)
少し気味悪く思いながらも、そのまま一日が過ぎた。
────さらに翌日。
まどかは、また穴を覗いた。
(……今日も赤い。)
三日連続、同じ赤。
(こんなに鮮やかな赤い壁紙、普通貼る?)
胸に小さな不安が芽生え、それは日を追うごとに膨らんでいった。
気がつけば──
まどかの日課は「穴を覗くこと」になっていた。
なぜか、覗かずにはいられない。
覗くたびに赤。
どこまでも赤。
変化は一度もない。
まどかは食欲が落ち、授業中も落ち着かず、夜も何度も目が覚めるようになった。
(……隣には、どんな人が住んでるんだろう?)
不安はやがて“恐れ”に変わった。
そして、ある夜。
穴の向こうを覗いたまどかは、息を呑んだ。
赤の奥で──
「……ゆらっ……」
赤が“揺れた”。
静止画のような赤が、そこだけ波のように小さく揺れている。
まどかの背筋が凍りつく。
(え……なに……?壁紙って揺れたりしないよね……?)
震える指を離し、その場にへたり込んだ。
胸が苦しく、涙がにじんだ。
(怖い……誰かに聞きたい……)
そう思い、まどかは次の日、勇気を振り絞ってマンションの大家に尋ねた。
「すみません……隣の部屋って、どんな方が住んでるんですか……?」
大家はあっさりと答えた。
「隣の部屋? ああ……そこの住人は“病気で目が赤い”んだよ。」
──目が赤い。
まどかの心臓が跳ねた。
目が赤い人。
だから、覗くと赤い。
そんなはずない。
そんなはずは……
(……じゃああれ……ぜんぶ、その“目”……?)
まどかは恐怖で震え、その足で黒猫呪術代行事務所へ駆け込んだ。
乱れた髪、蒼白の顔。
「……たすけて……隣の部屋……穴の向こうに……“誰か”がいるんです……!」
零はゆっくり顔を上げ、言った。
「落ち着け。詳しく話せ。」
クロは少女の姿に変わり、まどかの手をそっと握りながら言う。
「大丈夫だよ。怖かったね……ゆっくりでいいから、全部聞かせて。」
まどかは震える声で、“赤い部屋”のことを語り始めた──。




