第七十八話 沈む町 ― 後半 ―
沈む町の中心へ向かって進むにつれ、三人の足元の地面はゆっくりと“沈みはじめていた”。
まるで町そのものが溺れていくように。
クロは少女姿のまま零の袖をつかみ、不安げにささやく。
「零……この町……生きてるよ……息をしてるみたい……苦しんでるみたい……」
零は筆をわずかに持ち直し、低く答えた。
「苦しんでいるのは“町そのもの”ではない。――この町を呪った人間の魂だ。」
紺太の喉がひゅ、と小さく鳴る。
「呪った……人間……?そんな……誰が……?」
零は沈んだ路地の先、灯りのついた家を指差した。
「あそこに囚われている“誰か”だ。そこへ行けばすべて分かる。」
三人が近づくにつれ、家の周囲の空間が歪んでいく。
階段は沈み、玄関は半ば泥のような闇に飲まれ、
窓の内側では“溺れる影”が揺れている。
クロは肩を震わせた。
「……入れって言ってる……呼んでるみたい……町が……」
零はその気配を分析し、小さくつぶやく。
「これは“怨念の呼び声”だ。逃げられないように町ごと罠にしている。」
紺太は震える声で言う。
「母は……母は中にいますよね……?助けられますよね、零さん……!」
零は迷わず扉に手をかけた。
「必ず助ける。……だが覚悟しろ。原因は、お前のすぐ近くにいる。」
ガチャ──
扉が開いた。
湿った空気が押し寄せ、内部は蒼白い水の底のような空間になっていた。
家具が沈み、天井も床も、すべてが“水中のように揺れている”。
そして。
部屋の中央で──
ひざまずいて泣いている女がいた。
紺太が叫ぶ。
「母さん!!」
沈みゆく床のうえ、女性はか細い声でつぶやいた。
「こ……んた……?帰ってきたの……?」
紺太は泣きながら駆け寄る。
だが零は叫んだ。
「紺太!!近づくな!!」
紺太の足が止まり、驚愕の表情のまま振り返る。
「ど、どうして……母が……!」
零は沈む影を踏みしめながら進み、女性の背後を指さす。
「“本物”なら、影を落とすはずだ。」
クロも気づき、息を呑んだ。
「ほんとだ……!床に、影が……ない……!」
女性はゆっくりと顔を上げた。
その目は涙ではなく、黒い泥を垂れ流していた。
「……返して……紺太……返して……私の……大事な……紺太を……」
紺太の顔が青ざめる。
「えっ……返す……?俺、奪ってなんか──」
零は低く言った。
「違う。“お前の母親ではない”。――町を沈めた原因の“幻影”だ。」
その瞬間。
部屋中の水面が激しく波立った。
女の姿が揺れ、背中から“巨大な黒い腕”が二本、ずるりと生えた。
クロが悲鳴を上げる。
「きゃあっ!!?」
零は前に出て、筆を走らせた。
「“封呪結界”!!」
黒い線が空間に広がり、女の腕を縛りつけるように絡みつく。
だが──
その黒い腕は結界を“破って”伸びてきた。
零が目を見開く。
「……結界を破るだと。町そのものの力を借りているのか。」
紺太は涙をこぼしながらつぶやく。
「で、でも……町が呪われたのは……誰が原因なんですか……!」
零は沈む空間の中心に向け、指先を向けた。
「――“そいつだ”。」
影がうねり、女の背後に“もうひとつの姿”が浮かび上がった。
ぼろぼろのレインコートを着た少女。
顔は泥と雨に溶けて曖昧だが、その笑いだけが異様に鮮明だった。
クロは声を失う。
「この子……さっきの“雨宿りの少女”じゃない…………誰……?」
零の目が鋭く光る。
「町を沈めた“本当の雨怪”だ。」
少女はくすりと笑った。
「うふふ……やっと気づいたの……零……あなたに会うために……町ごと沈めたの……」
紺太は震えながら言う。
「ど、どうして……俺の母さんを……!」
少女の笑みは深く歪んでいく。
「だって……“母親に殺された子供の恨み”ほど……強い呪いはないんだよ……?」
紺太は目を見開いた。
「え……?」
少女は続ける。
「私はね──紺太のお母さんに、“殺された子供の記憶”でできているの。」
クロの顔が真っ青になる。
「……え…………。」
紺太は完全に崩れ落ちる。
「そ、そんな……母さんが……そんなこと……」
零は静かに言う。
「現実では殺していない。だが“罪悪感”を抱いていた。幼い頃、守れなかった友達かもしれない。あるいは流産か……死産か……理由は分からないが――“母親の痛みが呪いを生んだ”。」
少女は狂気の声で笑い出す。
「そうよ……!お母さんはね……雨の中で震える私を……見ていたの……助けて……って泣く私を……見捨てたの……!!」
部屋中の空間が激しく揺れた。
家が沈む。
床も、壁も、天井も“雨の底”へ落ちていく。
クロが叫ぶ。
「零!!結界がもたない!!」
零は地を蹴り、少女の前に飛び込んだ。
「“斬呪鎖”!!」
漆黒の鎖が少女へ伸びる。
だが少女は一瞬で霧散し、別の場所に現れた。
「うふふ……捕まらないよ……だって私は“雨”だもん……!」
零は筆を握り直し、呟く。
「……そうか。ならば。」
クロが息を呑む。
「零……何するつもり……?」
零は冷酷なまでに静かに言った。
「雨そのものを──晴らす。」
筆先に黒い光が宿る。
空間が震え、雨が逆流し、沈む町全体が“ある方向”へと引きずられる。
少女が驚愕する。
「な……に……!?こんなの、知らない……!」
零は低く宣言した。
「“天晴式・呪浄”。雨怪も沈む呪いも──すべて雲散させる。」
クロが小さく呟いた。
「……零の……大技……!」
紺太は涙を流しながら見守る。
少女は叫んだ。
「やめて!!まだ伝えてないの!!本当はね……わたしは……ただ“助けてほしかった”だけなの!!」
零は一瞬だけ手を止めた。
少女の涙が雨粒のようにこぼれていく。
「……誰にも見えなくて……誰にも触れてもらえなくて……雨が降るたび思い出して……痛くて……ずっと……ずっと……!」
クロの胸が締めつけられた。
「零……この子……本気で苦しんでる……消したらかわいそうだよ……!」
零は静かに筆を下ろした。
「……雨怪は消さない。“原因”だけを断つ。」
少女の背後にいた巨大な黒い腕が、突然苦しみ暴れだした。
零はそこへ筆を突きつける。
「それが、お前の“怨念の核”だ。紺太の母親の後悔が生んだ怪物。お前はその犠牲者──無関係だ。」
少女の涙が止まる。
零は短く言った。
「核だけ切り離す。」
「“断呪・零閃”!!」
黒い閃光が走り、巨大な腕が一瞬で霧散した。
家が揺れ、沈む音が消える。
少女の姿だけが残り、世界は静かになった。
少女は泣いていた。
「……ありがとう……これで……痛くない……」
零はそっと少女の頭に触れた。
「お前の魂は雨の外へ出られる。晴れの世界へ行け。」
少女は微笑んだ。
「うん……行く……紺太くん……お母さんを……許してあげて……ぜんぶ……痛かっただけなの……」
紺太は涙をこらえながら頷く。
「うん……ありがとう……」
少女の身体は柔らかい光となり、
雨粒とともに空へ昇っていった。
家の沈む感覚が消え、外の景色も次第に“普通の町”へ戻っていく。
クロは胸を撫でおろし、少女姿のまま零に抱きついた。
「零……よかった……!」
紺太は空を見上げ、涙ながらにつぶやく。
「本当に……本当にありがとうございました……!」
零は静かにうなずいた。
「母親の罪悪感が原因だった。……お前の母親には、ゆっくり向き合え。」
紺太は深く頭を下げた。
「はい……必ず……!」
クロは零の袖を引き、笑った。
「あー……帰ったら絶対暖かいお風呂入る……!」
零は珍しく小さく微笑んだ。
「そうだな。疲れた。」
三人は沈む町を後にした。
雲の切れ間から光が差し込み──
雨の町は晴れはじめていた。




