第七十八話 沈む町 ― 中半 ―
沈む町へ向かう車が山道を進むにつれ、視界はどんどん白く濁っていった。
最初はただの霧だった。
だが──
次第に“音”が消えていく。
エンジン音、タイヤの回転、風切り音。
ひとつ、またひとつと世界から剥がれてゆき、
やがて車内はまるで“音の墓場”のようになった。
紺太は運転席で震えた。
「れ、零さん……!本当に、この先に……道が……?」
零は助手席で淡々と前方を見据える。
「ある。お前には沈んで見えるだけだ。」
クロは少女の姿で後部座席に座り、窓に手をついて外を眺めた。
その瞳には、強い不安が宿っている。
「……ねぇ零。あれ見て……」
クロが指差す先──
道路の両脇に立つ“木々”が揺れていた。
風は吹いていないのに。
よく見ると、木ではない。
──人影だった。
ぼんやりとした白い影が並び、沈むように揺れながらこちらを向いている。
紺太が悲鳴を押し殺す。
「ひ、人……?いえ……人じゃない……!」
クロが零の袖を掴む。
「零……あれ……町の人?」
零は何も答えず、ただ指先で“結界”の術を描く。
「通り過ぎるだけなら害はない。視界に入れないように意識を落とせ。」
クロはごくりと喉を鳴らし、目を閉じて紺太の肩に手を置く。
「大丈夫。私がいる……落ち着いて。」
紺太は震えながら必死に深呼吸した。
零が低く告げる。
「前を見ろ。そこに──沈んだ道が現れる。」
紺太が恐る恐る目を開けると、霧の奥に“灰色の道”が一本だけ続いていた。
だがその左右は、まるで泥濘ではなく──
空間ごと沈んでいる。
黒い湖とも違う。
ただの“底”すら存在しない。
そこへ落ちれば、すべてが消える。
紺太はハンドルを握る手を強く震わせた。
「こんな道、進めるはずが……!」
零は言った。
「進め。沈む前に通過する。」
「し、沈む前って……どういう──」
質問が終わる前に、“道の端がボロリと剝がれ落ちた”。
広がる闇に吸い込まれ、音も無く消える。
紺太は絶叫する。
「ひぃっ!!?」
クロが叫ぶ。
「紺太さん!!道の中心だけ見て!!」
零は鋭く命じた。
「沈む速度は一定だ。お前の速度で追いつかれることはない。進め。」
クロは優しく紺太の手を握る。
「大丈夫。零がいる。沈む方が逃げるくらいだよ……!」
紺太は震えながらアクセルを踏んだ。
しかし──
次の瞬間。
“ぽたり”
フロントガラスに、黒い雫が落ちた。
クロが眉をひそめる。
「これ……雨じゃない……!」
零は目を細めた。
「“沈んだ町の涙”だ。町そのものが感情を持ち始めている。」
紺太は絶望した声を上げる。
「ま、町が……感情……?」
零は淡々と続ける。
「沈降は自然現象ではない。“誰かが町ごと呪った”。その呪いが、町をひとつの生き物化させた。」
クロの肩が震える。
「町全体が……怪異になったってこと……?」
「そういうことだ。」
突然。
──ガコンッ!!
車の天井に巨大な手のような“霧の塊”が落ちた。
クロが悲鳴を上げる。
「きゃっ!!?」
紺太は咄嗟にブレーキを踏む。
零は即座に手を上げた。
「止まるな。」
バシュッ!!
零の指先から出た黒い符が、天井の霧の手を払い落とす。
霧の手は霧散し、
ズズズ……と沈む大地へ落ちて消えた。
クロは涙目になりながら零にしがみつく。
「零……ここ……怖いよ……」
零は静かにクロの頭をなでた。
「分かってる。だがまだ入り口だ。」
紺太は震える声で訊く。
「い、入口……?まだ町についてもいないんですか……?」
零の声は淡々としていた。
「町の境目が沈んで“中心部はさらに深い”ということだ。」
クロが唇を噛む。
「じゃあ……町の中心はどうなってるの……?」
零は答えた。
「完全に沈む直前だろうな。住民も、紺太の母親も──“あの中”に囚われている。」
クロは拳を握った。
「取り戻そう……絶対に!」
零はうなずき、沈む道のさらに奥を見つめる。
霧の向こうに──
うっすらと町の影が見えた。
家並み、電柱、標識。
しかしそのすべては、水に沈む直前の建物のように“傾いて”いる。
そして一軒だけ──
灯りの点いた家があった。
紺太の顔が青ざめる。
「あれは……!母の家だ……!!」
クロが叫ぶ。
「零!!誰か……いる!!」
零は目を細めた。
確かに灯りの中に“影”が見える。
しかしその影は──
人の形をしているようで、していない。
ゆらり、ゆらりと揺れるその姿は、溺れる者の影に似ていた。
零は車のドアを開け、外へ降りる。
クロも少女姿のまま零の後を追う。
紺太は恐怖で足が震えたが、母を思い出し懸命に車から降りる。
沈む音の無い世界。
町の入り口に、三人の影が沈んで立った。
零は筆を構える。
「町を沈めた“原因”を探る。紺太……お前の母親はまだ生きている。取り戻す。」
紺太は涙をこぼしながら頷いた。
クロは零の隣で拳を握る。
「よし……行こう、零!」
零はひとつ頷き、沈む町の中心へ向けて歩き出した。
霧の奥で──
“誰かが微笑んだ”ような気配がした。
町そのものが、彼らを歓迎するように揺れていた。




