第七十六話 雨宿りの幽霊 ― 前半 ―
その日は、季節外れの豪雨だった。
黒猫呪術代行事務所の窓ガラスは叩きつける雨に揺れ、雷鳴が一度響くたび、灯りの影が大きく揺れて見えた。
零は机に向かい、古びた経文を淡々と浄化していた。
クロは黒猫の姿で窓側に座り、しっぽを膨らませながら外を眺めている。
「ねえ零……今日の雨、なんか変だよ。音が……普通じゃない。」
零は筆を置かずに答える。
「知っている。“呼ばれて”いる感覚がある。」
クロの耳がぴくりと揺れた。
「また……怪異……?」
零は静かに頷く。
その時──
事務所の扉が、“コン……コン……”と叩かれた。
雨の音に紛れながらも、不自然にゆっくりと、同じリズム。
クロは一瞬で毛を逆立てた。
「零……来てる……!」
零は手を止め、扉に視線を向ける。
「入れ。」
扉がきしりと開いた。
そこに立っていたのは──
びしょ濡れの長い黒髪、うなだれた姿勢の、白いワンピースを着た“少女”だった。
顔は髪に隠れて見えない。
ただ、雨粒を落としながら静かに立っていた。
クロが小さく震える。
「れ……零……この子、人間じゃ……」
零は少女を一瞥する。
「分かっている。」
少女は小さく唇を動かした。
その声は、雨よりも静かで透き通っていた。
「……雨宿りを……させて……ください……」
零は眉ひとつ動かさず言う。
「ここはただの部屋ではない。“ただの怪異”なら入れない。入れたということは──俺に用があるということだ。」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、大きく空いた“黒い穴”のような目。
笑っているのか歪んでいるのか分からない、
不自然な口元。
クロは息を呑み、零の背に隠れる。
少女はかすれた声で言った。
「──助けてほしいの。」
零は静かに目を細めた。
「怪異がおとなしく助けを求めに来るのは珍しい。“理由”を言え。」
少女の声は、雨よりも切実だった。
「私……雨に囚われてしまったの……もう……晴れの日に戻れない……このままでは……“消える”……」
クロが零を見る。
「零……“雨に囚われる”って……何?」
零は少女から目を離さず言う。
「雨怪──強い負の感情で死んだ者が、雨に縛られ続ける呪いだ。」
クロの瞳が揺れる。
「それって……死ねないってこと……?」
「死ねないし、生きてもいない。雨が降るたび、形を得て彷徨う。晴れれば消え、そして何度も雨に呼ばれる。」
少女は震えながら言う。
「……もう……終わらせたいの。雨の匂いを嗅ぐだけで胸が裂ける……風が止むと……心が泣き出す……私は……誰に殺されたかも思い出せない……でも……確かに“殺された”の……」
クロが零を見る。
「零……助けてあげようよ……」
零は無言で少女に近づき、一歩ずつ距離を詰めながら言う。
「殺されたことを覚えていないなら、“原因”を探す必要がある。お前はどうやってここに来た。」
少女は答える。
「雨の道を歩いてきた……あなたの気配が……“私に触れようとしていた”から……」
クロが不思議そうに首をかしげる。
「零の気配……?」
少女は続ける。
「あなたは“雨を断つ者”……雨に囚われた魂が……最後に頼るしかない人……」
零はわずかに眉を動かした。
「俺はそんなものではない。」
少女は首を振る。
「いいえ……“雨怪”はみんな知ってる……黒乃零に触れれば……雨の呪縛は必ず切れるって──“そう聞いたの”……」
クロが驚いて振り返る。
「えっ!?零ってそんな力あったの!?」
零は即座に否定した。
「俺が切るのではない。“雨の呪い側が俺を恐れて晴れるだけだ”。」
クロは「えぇ……」と顔をしかめた。
少女は一歩、零に近づく。
「お願い……私を……この雨から……解き放って……消える前に……」
零は静かに目を閉じた。
「まず、“死んだ理由”を探る。晴れない雨は存在しない。原因があれば、必ず晴れる。」
クロが少女を見る。
「きっと……絶対助けるよ!」
少女の目に水が溜まる。
それが涙なのか、雨粒なのかは分からない。
次の瞬間──
零は少女の肩に手を触れた。
その瞬間。
“部屋ごと雨の世界”に飲み込まれた。
クロが叫ぶ。
「きゃっ──!?」
床も壁も、窓も天井も消える。
そこは、無限に雨粒が漂う灰色の空間だった。
少女の声だけが響く。
「ここが……私の“最後の場所”……どうか……どうか……見つけて──私が“ここに閉じ込められた理由”を……」
零の瞳が鋭く光る。
「これが、お前の死の記憶か。」
クロは零の肩に掴まりながら言う。
「れ……零……なんか……胸が苦しいよ……!」
零はクロを庇いながら、薄暗い空間を見回す。
雨粒が、血の色に変わった瞬間──
少女の後ろに、黒い“影”が揺れた。
まるで、殺した者そのものが雨になったような──
“歪んだ人影”。
零は即座に筆を構える。
「クロ、後ろに下がれ。」
黒い影が、雨の中で形を変えながら呻く。
――コロシタ……オマエヲ……
少女が震える。
「いや……それは……私じゃ……」
零の瞳が狩人のように鋭くなる。
「雨怪を生んだ原因──“怨敵”がここにいる。」
世界がさらに暗く沈んだ。
零は一歩前に出た。
「原因を断つ。雨の呪いは──必ず晴れる。」




