回想1 零と黒弥 ― 中半 ―
黒弥の存在が、祈り屋の施設に新しい空気をもたらした数週間後。
零の日常はゆっくりと、しかし明確に黒弥の影響を受けはじめていた。
黒弥はとにかく飲み込みが早い。
呪術理論、祈祷術、紙の扱い方、筆圧、霊視の基礎──
どれを教えても、翌日には完全に吸収している。
零が一年かけて扱えるようになった術式を、黒弥は一週間で再現した。
だが、その速さには“副作用”があった。
黒弥は、零の前では笑う。
しかし師匠の前では笑わない。
施設の誰とも馴染まない。
必要最低限の言葉だけを交わし、まるで零だけが“世界で唯一の他人”であるかのように距離を縮める。
そしていつしか、黒弥の視線は、呪い、祈り、人の死、そのどれに対しても──
異常に興味を持ちすぎていた。
床に張られた護符の結界が淡く光る。
零は息を詰めながら、練習用の呪符に筆を走らせていた。
「“封”──」
墨の線が浮かび、結界の中心で淡く光る。
そのとき背後から黒弥が覗き込む。
「零、線が甘いよ。ほら──“ここ”が震えてる。」
黒弥が指先で零の肩に触れると、零の筆先がわずかに揺れた。
「……黒弥。今、集中してる。」
「分かってる。でも少しズレると発動しない。ねえ、もっと楽に描けないの?」
零は冷たく言い放つ。
「呪術は“楽”を求めるものじゃない。」
黒弥はふっと笑う。
「零らしい。完璧だけど、不器用だ。」
零は黙って筆を握り直す。
黒弥は零の背中に片肘を乗せるように身を寄せた。
「ねえ零。君はさ……──どうしてそこまで“正しい呪術”に固執するの?」
零は返さない。
黒弥は続ける。
「呪術で人を救うなんて……嘘だと思わない?」
零の手が止まる。
黒弥の声は淡々としているが、その奥には危うい光があった。
「誰かを救ったら、誰かが泣く。祓えば、逆恨みされる。呪えば、憎まれる。どれを選んでも“死”はどこかに落ちる。」
黒弥の目が零を捉える。
「だったら……“最も強い者がすべてを握るべきだ”って、思わない?」
零はほんの少しだけ眉を寄せた。
「……思わない。呪術は人の生に寄り添うための術だ。奪うためのものではない。」
黒弥は口元を緩めた。
「やっぱり零は綺麗だね。」
灯りのない廊下。
零が部屋へ戻ろうとすると、壁にもたれかかって黒弥が立っていた。
「零、遅いじゃないか。」
「黒弥……何をしてる。」
黒弥はゆっくり歩み寄る。
零の肩に、そっと手を伸ばす。
「ねえ零。僕たち、きっと同じだよ。」
零は一歩退く。
黒弥の表情が少しだけ曇った。
「同じ“核”を持っている。師匠は言ってたじゃないか、“融合すれば最強の呪術師になる”って。」
零は冷たく切り捨てる。
「俺は呪術に身体を侵させる気はない。」
黒弥の目が揺れた。
「どうして?」
零は静かに答えた。
「“力のため”に他人を喰うようになるからだ。そんな呪術師は……呪術師とは呼ばない。」
黒弥は、零をまるで観察するようにじっと見つめる。
そして、微笑んだ。
「ねえ零……もし“力”が全部手に入ったら、何をする?」
零は即答した。
「人を守る。」
黒弥の微笑みが消える。
その後、ほんの一秒の沈黙。
そして黒弥は──
氷のように冷えた声で呟いた。
「……ほんと、零は“間違ってる”。力は奪うためにあるのに。」
黒弥は踵を返し、闇に溶けるように去っていった。
零はその背を見送りながら、嫌な気配をずっと感じていた。
(黒弥……お前はどこまで行くつもりだ──。)
その夜、零の胸に刻まれた“不穏さ”は、後に訪れる惨劇の予兆だった。




