第七十四話 呪術狩り二人目 “赤装束の女” ― 前半 ―
呪術狩りとの激闘から、わずか数時間後。
黒猫呪術代行事務所には、異様なほど静かな夜が訪れていた。
外の街灯は弱く瞬き、風鈴のような音が遠くで鳴っている。
クロは机の上で猫の姿になり、丸くなって零の腕に額を押しつけていた。
零はまだ筆を握ったまま、何かを思案するように目を細めている。
クロは小さく鳴いた。
「……零……さっきの影のやつ……本当に“呪術狩り”だったの……?」
零は短く答えた。
「間違いない。だが、奴は“先鋒”に過ぎない。」
クロは目を瞬く。
「先鋒……じゃあ……あれ以上の……?」
零はゆっくりと視線を窓に向けた。
「呪術狩りは、個で動く存在じゃない。一つの“戒め”として組織だ。」
クロは震えた声で尋ねる。
「か、戒め……?」
零は淡々と言う。
「呪術を行使する者の“傲慢”を殺す。それが呪術狩りの役目だ。」
クロは零にしがみつく。
「でも……零は傲慢なんかじゃない……人を助けてばっかりなのに……そんなの……おかしいよ……!」
零は僅かにクロの頭を撫でた。
「お前がそう思うなら、それでいい。」
優しい声音だった。
しかしその奥には、深い静けさと覚悟が宿っている。
そして──
床に置かれた“黒い紙片”が、ゆっくりと燃え始めた。
クロが跳ね上がる。
「ひゃっ……!何これ……燃えてる……!」
零は目を細めた。
「“呪術狩り一人目が消された”ことを知らせる合図だ。」
紙が灰になり、その灰がまるで風に乗るように事務所の外へ吸い込まれていく。
クロの声が震える。
「こわい……本当に……来るんだ……!」
零は筆を握り直す。
「来るさ。──二人目が。」
その直後だった。
チ……チ……チ……
規則的なヒールの音が、事務所の外から近づいてきた。
クロの体が一瞬で硬直する。
「ね、ねぇ……零……この音……!」
零は扉を見据えながら、低く呟く。
「来たな。」
扉の向こうの足音は、一定のリズムを刻んでいる。
軽やかで、しかし異常なほど静か。
建物の中にはほとんど響かない。
まるで“存在を隠す術”が掛けられているかのようだ。
クロが震える声で零にしがみつく。
「どうしよう……零……!」
零はクロを背に隠し、小さく言った。
「クロ。俺の後ろから絶対に離れるな。」
クロは必死に頷く。
「うん……絶対……!」
足音は止まった。
扉の前、ぴたりと。
静寂。
そして──
ノックはない。
代わりに、扉の下の隙間から赤い“何か”がゆらりと伸びてきた。
クロが息を止める。
「ひっ……なに……これ……!」
それは布のようであり、血のようであり、煙のようでもある赤い“帯”。
床の上をゆっくり滑ったかと思うと、その赤は溶けて空気へと混ざり、消えた。
零は淡々と言う。
「“赤装束”だ。」
クロは怯えた目で見上げる。
「赤……さっきの影とは違うの……?」
零は頷いた。
「二人目は“身体を持った狩人”だ。形のない一人目より厄介だぞ。」
その時──
扉の向こうから、ゆらり、と声がした。
『……黒乃零……』
クロが悲鳴をこらえて震える。
声は女の声。
しかし美しさは一切ない。
死んだ者が笑いながら喋っているかのような、感情がすべて歪められた声。
零は筆を横に構えた。
「入ってこい。俺が相手をする。」
静寂。
そして扉が──
開いたのではない。
外側から“裂けた”。
赤い爪が扉を上から下までただ一撫でで切り裂いたのだ。
木板が裂け、粉が舞う。
クロが震える声で叫ぶ。
「零っ!!爪……扉……一瞬で……!」
扉の裂け目から現れたのは──
赤い着物を着た女。
着物は古い。
ところどころ破れ、乾いた血のような斑点がある。
だが何より異様なのは、その身体。
脚がない。
膝から下が存在しないのに、女は浮くように滑るように歩いている。
髪は黒く長い。
しかし、水に濡れたように艶がなく、毛先が刃物のように鋭い。
そして、女の顔。
クロが叫び声を飲みこんだ。
「……顔が……違う……!」
女の顔は美しい。
彫刻のように整っている。
だが、口元に赤い布が巻かれていた。
マスクのように。
その布には、赤い呪文のような模様が刻まれている。
女はゆっくりと零へ顔を向けた。
目は美しい。
しかし完全に死んでいる。
瞳孔がないのだ。
まるで闇そのもの。
その“死んだ目”で零を見つめ、女は微笑んだ。
布越しに、血のような唇の動きが見えた。
『あなたが……“黒乃零”……』
クロは震える。
「零……!この女……前の影より……ぜんっぜん……強い……!」
零は一歩前に出た。
「何者だ。」
女は微笑みを深くし、ゆっくり頭をかしげた。
「私は──“殺された呪術師”よ。」
クロの呼吸が止まる。
「呪術師……?殺されたって……誰に……!」
女の声は甘い。
しかし、底に沈んだ恨みはあまりに深い。
「生きていたとき……私は“赤装束の巫女”と呼ばれた。呪いを清め、祓い、救う巫女だった。」
クロは目を見開いた。
「じゃ……じゃあ……零みたいに……人を助ける呪術師……?」
女はゆっくり頷く。
「ええ。だから──呪術界に“殺された”の。」
クロが絶句する。
女は続ける。
「私は知っている。呪術師が、呪術師を殺す理由を。」
零は目を細めた。
「そして呪術狩りになった。」
女は血を吸ったような唇で笑った。
「ええ……私を殺した呪術師たちを、私は殺すために“狩る者”になった。」
クロは震える声で尋ねる。
「まさか……零も……呪術師だから……!」
女の死んだ瞳が零を射抜いた。
「あなたもまた──“呪術師の頂点に立った者”よ、黒乃零。」
零は筆を構える。
「話はいい。狩りたいのなら狩りに来い。」
女は静かに手を広げた。
次の瞬間、女の背後に“赤い結界”が展開した。
円でも、星でもない。
その形は──
血塗れの扇のよう。
クロは青ざめる。
「れ……零……あれ……普通の術じゃないよ……!赤い結界なんて……!」
零は低く呟く。
「“血呪結界”。血と怨念で構成された、呪術狩り独自の術式だ。」
女は囁く。
『あなたを殺す理由は……あなたが“呪術界で最も恨まれている男”だからよ。』
クロが悲鳴に似た声を漏らす。
「零……!なんでそんな……!!」
女は一歩前に出た。
「黒乃零。あなたは呪いを解きすぎた。救いすぎた。呪術師たちの“利益”を奪いすぎた。」
“笑っているのに、声は泣いている”ような声だった。
そして女は言い放つ。
『だからあなたを殺す。“呪術師の敵”として。』
零の筆に黒い光が集まる。
クロが零の手を握る。
「零……!勝って……!絶対……勝って……!!」
零は小さく頷いた。
「行くぞ。」
女が両袖を広げた。
赤い荒風が室内に吹き荒れる。
それは、大量の“怨念”そのもの。
黒乃零の戦いは、最も危険な呪術狩りへと続く。




