第七十三話 黒い手紙と再びの襲撃 ― 後半 ―
天井から降り立った“黒い人影”は、まるで空気そのものが形になったようだった。
人型──
しかし、輪郭は揺れ、ところどころ欠け、黒い霧がまとわりついている。
顔はない。
目も口も、輪郭すら曖昧。
だが、その中心にだけ赤い一点の光がある。
それは瞳ではない。“殺意という概念”が光になったような色。
クロは零の腕に抱かれたまま、震える声で呟く。
「……あれ……人じゃない……零……あれ、本当に倒せるの……?」
零はクロを抱きしめ、後ろへ下がらせた。
「下がれ。絶対に俺から離れるな。」
クロは涙を拭いながら頷く。
「うん……離れない……絶対……!」
黒い影が一歩、前に出た。
その足音は──無音。
ただ床が少し沈むだけ。
まるで重さも体温も存在しないかのよう。
クロが息を呑む。
「来る……!」
零は筆先を影に向け、低く呟いた。
「名を名乗れ。狩る者よ。」
影の中心の赤点が揺らいだ。
そして、風が裂けるような“音なき声”が響いた。
『■■■……』
聞き取れない。
言葉の形式すら成していない。
だが、それは確かに“名乗り”だ。
零は小さく笑った。
「名すら“呪いの外側”か。面倒だな。」
影が消えた。
ほんの一瞬で。
クロが叫ぶ。
「零!! 右!!」
零は筆を振るう。
──ガンッ!!
黒い影の腕が、零の側頭部に迫る寸前で止められた。
筆先で受けたのだ。
零は静かに呟く。
「軽いな。」
影が後方へ跳ぶ。
移動の軌跡は“瞬間移動”のようにブレる。
クロが震える。
「速い……っ……!たぶん、今までの敵の中で……一番……!」
零は筆を構え直した。
「呪術狩りは、呪いそのものを喰う。術を使えば、俺に返ってくる。」
クロは怯えた声で叫ぶ。
「零……!じゃあ、術がつかえない……!」
零はゆっくり首を振る。
「使えるさ。──正面から使わなければな。」
影が再び消える。
今度は四方八方から、何十もの腕が伸びてきたように錯覚する。
クロの心臓が跳ねた。
「零!! 囲まれてる!!」
零は冷静だった。
「囲むのは悪手だ。」
筆が床を滑る。
「影筆・幽環。」
黒い筆跡が床一面に広がる。
影が筆跡に触れた瞬間──
その影は裂け、霧になった。
クロが驚愕する。
「零!?術……効いてる……?呪術狩りは呪術が効かないんじゃ……!」
零は淡々と答えた。
「直接当てる呪いは奴に吸われる。だが──“世界そのものに掛けた術”は吸えない。」
クロの目が輝く。
「じゃあ……零の“地の呪術”なら……!」
零は短く頷いた。
「そうだ。だから俺は、直接攻撃しない。」
影は動きを変えた。
一度下がり、天井へ跳び上がる。
クロが叫ぶ。
「零! 上から来る!!」
零は筆を上へ向けた。
「空筆・断環。」
空間に一つの“円”が描かれた。
影が円に触れる──
刹那、影の腕が“空間そのもの”に切り落とされたように分断された。
黒い霧となり霧散する。
クロが驚く。
「零……!影の腕が……!」
零は冷静に言う。
「呪術狩りとて存在する以上、空間には触れる。ならば俺は──“空間を斬る”。」
影が低く唸るような震えを見せる。
赤い一点の光が、怒りのように揺れた。
クロは零の袖を握り、必死に言う。
「零……もう……勝てるよね……?こんなに術が通るなら……!」
零は静かに首を横に振った。
「……まだだ。」
影が床にゆっくり降り立つ。
そして──形が変わった。
蛇のように細く、獣のように四つん這いになり、腕が異様に伸び、背骨が逆に折れ曲がる。
クロは震えた。
「ひっ……な、なにこれ……!」
零の表情もほんのわずかに引き締まる。
「……“本性”を出したか。」
赤い一点が、三つに増えた。
影は消えた。
次の瞬間──
事務所の壁が爆ぜる。
クロが悲鳴をあげる。
「零!!壁が……破られて……!!」
影が零の背後に現れ、鋭い腕が零の首に伸びる。
クロが叫ぶ。
「零──!!」
零は振り向きもせず、筆を逆手に持ち替えた。
「……遅い。」
“筆が影を貫いた”。
黒い影の胸から、一本の白い光の柱が突き抜けている。
クロが目を丸くした。
「あ……れ……零の……“奥義”……?」
零は初めて少しだけ険しさを見せた。
「奥義は本来、呪術狩りには使うべきではない。因果が跳ね返るからな。」
影が苦しげに震える。
赤い光が散る。
零は筆を押し込む。
「──だが。俺の奥義は“呪いではない”。」
影が一瞬固まる。
「俺の奥義は、“この世にある形を写す術だ”。」
筆が光を放つ。
「真影筆・貫明!」
影が引き裂かれ、黒い霧が激しく四散した。
爆風が巻き起こり、窓ガラスが震え、室内の紙が舞う。
クロは目を覆った。
霧が晴れたとき──
影は跡形もなく消えていた。
クロが泣きそうな声で叫ぶ。
「零!!大丈夫……!?怪我……してない……?」
零は筆を下ろし、静かに息を吐いた。
「無事だ。」
クロが零に抱きつく。
「よかった……本当に……よかった……!!」
零はクロの頭に手を置き、小さく撫でた。
「クロ。終わったわけじゃない。」
クロは顔を上げる。
「え……?」
零は床に落ちた“黒い紙片”を拾い上げた。
それは影が消える瞬間に残した“残滓”。
紙片に、赤い文字が浮かび上がる。
『一人目』
クロの顔から血の気が引く。
「ひ……一人目って……じゃあ……!」
零は紙片を指で潰しながら言う。
「次が来る。“呪術狩りは一人ではない”。」
クロの瞳が震える。
零は筆を握り直した。
「──狩りは、ここからが本番だ。」
事務所の外で、風鈴がまた鳴った。
カラン……カラン……
それはまるで、次の殺し屋の“合図”のように聞こえた。




