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Evangelium04-5:夕べの祈り

 エレベーターの扉が開いて、二人は少なからず驚いた様子を見せた。到着したのは、白い壁と大理石の床が暖かな照明で照らされた、地下の研究施設とはまるで違う場所だった。それはどこか、ホテルのエレベーターホールを彷彿とさせる。

 エレベーターを降りると、右手に通路が続いているのが見えた。

「ここは……まだ研究施設の中だよね?」

「そのはずですが……。私は日本に到着してすぐに倉島先生に逃げるように言われたので、ここに来たことはないのです」

「そう言えばそうだった」

 伏見は神経を尖らせながら、エレベーターホールから顔を出して通路を覗き込んだ。エレベーターホールと同じ白い壁と大理石の長い廊下が伸びていて、すでに陽が昇り始めているのか、右側の窓からは光が差し込んでいた。人の気配はない。

 伏見はその内装に見覚えがあった。

「ここって……」

 警戒を解いた様子で、伏見は廊下へと出ていく。イヴもそれを追った。

 少し歩いたところで、左側に両開きの扉を見つける。伏見はなるべく音を立てないように、ドアノブを回して扉を押し開いた。

 顔を覗かせると、そこはやはり伏見が思った通りの場所だった。扉を開いて中に足を踏み入れる。

「どうなってるんだ……」

 イヴも続いて中に入ると、言葉を失った。そこは、福岡に来てすぐに訪れた教会だった。左手には十字架が見え、その後ろではステンドグラスが輝いている。そこから差し込む朝日で、教会内の柱や長椅子がぼんやりと照らし出されていた。

 二人が長椅子にはさまれた通路まで歩いていくと、静かな教会内に拍手が響き渡った。

「おはようございます」

 長椅子に腰かけた白髪の男は、紳士的な笑みを浮かべて言った。

「及川……!」

 呼び捨てられて、及川は困ったような笑顔で立ち上がった。

「そんなに睨まないでください。数々の非礼を、まずはお詫びします。申し訳ありませんでした。今井君からあなたが私の情報を探っていると聞いて、いても立ってもいられなくなりまして」

 そう言って、深々と頭を下げる。

「今井……。これまでに自分が受けた被害からすると、謝って済む問題ではないと思いますが」

 及川は顔を上げ、深く頷いた。

「もちろんです。目的を果たせたら、私はすべての罪を告白し、償います」

「残念ながら、あなたが目的を果たすことはない」

「ゼノイドの危険性を、私は理解していない。ですか?」

 ようやくつかんだ切り札が、突きつけようとしていた本人の口から出てきた。伏見は言おうとしていたことを飲み込む他ない。

「どうして……」

 及川はスーツの内ポケットから携帯端末を取り出す。その画面には、九分割された監視カメラの映像が映し出されていた。

「研究所内の状況は、いつでもモニタリングできるようになっています。当然、音声も」

 及川が画面をタップすると、第二居住区の映像がアップになる。スピーカーからは、子供たちに状況を説明する倉島の声が流れてきた。

「あなたが所内に移送されてから、私はずっと様子を見ていました。いやはや、この歳になると徹夜は拷問に近い」

 よく見ると、及川の目には隈ができている。しかしそれでも表情は晴れやかだった。及川は端末の電源を切ると、スーツのポケットにしまって襟を正した。

「あなたは私が目的を果たすことはないとおっしゃりました。しかし、私の目的はもうほとんど果たされたも同然なのです」

「……あなたの目的は、ゼノイドを使って世界を動かすことではないんですか?」

 及川は心外そうに首を横に振った。

「まず、自己紹介をさせてください。初めまして。私はこの国の防衛副大臣をしております、及川マサミと申します。あなたにお会いできる日を心待ちにしておりました。――エーフェス」

 その名を口にして、及川はもう一度頭を下げた。

「……エーフェス?」

 イヴは伏見に視線を送るが、伏見は口を薄く開いて及川を見つめていた。

「……その名前を、どこで知ったんです? 特定の家系にしか伝えられていないはずだ」

 及川は顔を上げ、目を閉じた。

「そう、エーフェスは名前です。同時に、ヘブライ語で“ゼロ”を意味する。そして男性形しか存在しない。ゼロからこの世界を生み出した神の名に、この上なく相応しいと思います」

「質問に答えてください。いったいどこで、その話を?」

「やはり、全知全能とはいかないようですね」

 及川は目を開くと、腰を折って長椅子に置いてあった一冊の本を取り、その表紙を伏見に示した。黒い表紙に白い文字でタイトルが印字された、シンプルな装丁のハードカバー。

「“CHRIST:0033”。この世界の始まりのシナリオは、すべてこれに記されていました」

「……それはアンネ・ラインハルトの管理下にあったものだ!」

 こらえ切れず、伏見は叫んだ。イヴは初めて聞く伏見の怒号に身をすくませる。

「そう。前暦史書管理機構理事長、アンネ・ラインハルト。私の恩人です」

「……まさか、あなたは……!」

「ええ。私は暦史書管理機構によって保護された、偶発性コロニストの一人です」

「……偶発性、とはどういうことですか? コロンシリーズは血縁によって守られていたのでは?」

 イヴは記憶にあったコロニストに関する情報を思い出し、疑問を呈する。及川は、伏見に発言権を譲るように手を差し出した。

「……コロニストは、単なる本好きの集まりというわけじゃない。その始祖たちは預言者、つまり神から言葉を預かる者たちだった。一種の特殊能力と言ってもいい」

「特殊、能力……」

「そしてその能力は、血縁……つまり遺伝によって継承されてきた。だけど、まったく血縁関係がなくても顔が似ている人がいるように、コロニストをコロニストたらしめる特定の塩基配列を、偶然に持って生まれる人もいる。……暦史書管理機構は、そういった偶発的に生まれたコロニストを保護するための組織でもあるんだ」

 及川は伏見の説明に深く頷く。

「コロニストはある瞬間、見聞きしたことや体験したことを、物語として記録しなければいけないという使命感に駆られる。私は幼少期をドイツで暮らしていたのですが、そこで難民問題や宗教紛争を目の当たりにし、私なりにそれを記録しました。それを偶然目にしたアンネによって、私は暦史書管理機構へと招待されたのです」

「しかし、あなたは管理機構のリストに載っていなかった……」

「ええ。私は除名されています」

「コロンシリーズ流出の際、除名者リストも当然チェックされています。そこにもあなたの名前はなかったはず」

「及川マサミは日本名です。顔を見ればわかると思いますが、私は日系ドイツ人でして。本名はフィデリオ・バーンスタインと申します」

「フィデリオ……バーンスタイン……」

 その名前は、数少ない除名者リストの中に確かに載っていた。

「日本に帰化してからの私の足跡までは、記録されていなかったようですね。もう三十年近く前ですから仕方ないでしょう。管理機構の中で私は“異端”とされ、除名処分を受けました。そもそも管理機構内で、偶発性コロニストの立場はあまり良いものではなかった。当然のことです、コロニストの始祖の血を引いていない、よそ者なのですから。しかし、アンネだけは違いました」

「アンネ・ラインハルトも、同じ偶発性コロニストの一人……」

「そう。彼女は偶発性コロニストでありながら、その高い能力と忠誠心で、管理機構のトップにまで上り詰めた。その過程では、様々な苦難があったことでしょう。私のように迫害を受けたこともあったはずです。それゆえか、私の除名に彼女は最後まで反対してくれた。結局は除名処分となってしまいましたが……私が管理機構を去る時、彼女はこの本を私に託してくれました」

「なぜ……それは、彼女が一番大切に守っていたものだ」

「その理由は、私が異端とみなされた原因にあります。私は管理機構でコロンシリーズを目にし、あることに気づいてしまった。……神は存在するということに」

 及川の熱い眼差しを受けて、伏見は顔をしかめた。

「神の存在を証明できる者はいない」

「神の存在を証明することはできないが、神の不在を証明することもできない。そうでしょう?」

 すべての存在は二律背反、どんな考えにも逆説は存在する。イヴは二人の話を聞きながら、“敵に回すと、あれほどタチの悪い話はない”という伏見の言葉を思い出していた。

「私は神の存在を証明しようとしました。しかし、管理機構はその考えを異端とみなし、私を除名した。そんな私に、アンネは最高の証拠を与えてくれたのです。きっと彼女も気づいていたのでしょう」

 及川は手にしていた本を開く。

「この本の冒頭は、あるおとぎ話から始まります。“昔々、この世界が生まれるよりも昔。そこには何もありませんでした。人や物はおろか、空間すら存在していませんでした”」

 イヴはその文章に聞き覚えがあった。

「イデアのエーフェス……」

「君も彼から聞いているのですね。私があなたたちに与えた聖書との共通点に気がつきましたか?」

「……エデン、という言葉でしょうか」

「確かに、それは聖書にも登場する地名です。ですがそれだけではないのですよ」

 及川はページをめくる。

「“しかしある時、存在したいという心が生まれました。エーフェスという名のその心は、自らの居場所として、まずイデアという心の世界を創りました。イデアはどこまでも続く白い世界でした。エーフェスはイデアを漂いながら、永遠のように長い時間を過ごしていました”……イヴ、創世記第一章一節の冒頭を覚えていますか?」

「“初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして、光があった――」

「そこまで。この二つの文章の相似性に気がつきませんか?」

「……確かに、比較すると似ているかもしれません。光はイデア、闇は何も存在していない状態でしょうか。そして、神の霊がエーフェス」

「さすがですね。さらにここです。“エーフェスは何もない場所を正と負に揺らしました。すると、何かが実在しました”」

「……“神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた”」

 言われるまでもなく、イヴは類似した創世記の一文を暗唱する。及川はイヴに笑顔を見せ、そのまま伏見へと視線を移す。

「イデアのエーフェスの物語と聖書は、明らかに酷似しています」

「……それがどうしたというんですか。神の存在と、なんの関係が?」

 及川の顔から笑顔が消えた。

「エーフェス、私を失望させないでください。そんな稚拙なごまかしが聞きたくて、あなたをここへ連れてきたわけではない」

 鋭い釘を刺されて、伏見は押し黙る。

「コロニストの始祖の血を引くあなたなら当然わかっているでしょう。“コロンシリーズは事実を正確に記述した作品群である”と。異端書や外典も存在はしていますが、これは紛れもない正典の一つ。つまり、事実だということです。さらに言うのなら、これが事実だとすれば、この物語を書ける者はただ一人しかいない。……神ですよ」

 伏見は諦めたように息を吐いた。

「わかりました。認めます。確かにそれは事実かもしれません。ですが、僕がその神であるはずがない。確かに僕は少し変わった家系に生まれました。でも、ただの人間です。小さい頃はよくいたずらをして怒られましたし、学校をさぼったりも――」

「私を失望させるなと言っている!」

 それは絶叫に等しかった。及川は目を見開き、息を荒げて伏見を睨みつけた。

「私があなたに会うために、いったいどれだけの時間を費やしてきたかわかっているのか! どれほどの血が流れたか、あなたは知っているでしょう!」

 伏見はその叫びにうろたえながら、茫然とした様子を見せる。

「僕に……会うために……?」

「さっきも言ったはずです。私の目的はもうほとんど果たされたも同然だと。私はこの世界のどこかに、確かに生きているはずのあなたを探し出すために……すべてを懸けて神に喧嘩を売ってきたんですよ」

 及川は喋りながらゆっくりと呼吸を整え、最後には笑った。

「別の誰かであれば、ここまで性急に事態を動かすことはなかったでしょう。ですがあなたは他ならぬコロニストの一人だった。自らイヴを保護し、ほとんど単独で私の調査をした。紛争に関わった者が皆保身に走る中、ただ一人、真実を世界に明かそうとした。……私は確信しました、あなたに間違いないと」

「……僕はあなたに、誘い出された?」

「ええ。あなたは必死に平静を装っていますが、内心ははらわたが煮えくり返るような気持ちでしょう。それはそうです。私は神の敵意を私に向けるために行動してきたのだから。恩人を裏切り、コロンシリーズを流出させたことも。間接的にコロンシリーズの存在の異常性を煽り、宗教紛争を激化させたことも。一度は禁じられた技術を使って、新たな生命体を創り出したことも。……すべて、あなたの怒りに触れるために」

 及川はうやうやしく腰を折った。

「……あなたの考えを、聞かせてください」

 伏見は力が抜けたように長椅子の端に腰かけ、感情のない声で言った。及川は顔を上げると、満面の笑みを見せる。

「まず前提として、アダムはエーフェスの器だった。これはイデアのエーフェスの物語からも明らかです。エーフェスはエデンを出て、アダムとして実在の世界に生まれた上で、神という概念を人々に伝えた。違いますか?」

 伏見は首を横に振り、その考えが正しいことを示す。及川は感極まった様子で、続きを語る。

「次に、神は今も生きていると考えた理由です。イヴ、アダムが亡くなったのは何歳の時だったか、覚えていますか?」

「創世記第五章には、アダムは九三〇歳で死んだと……」

「九三〇歳。歴史上、一世紀近く生きた人間はいたでしょうか? 当初私は、神の最初の器だったアダムが特殊だったのだと考えました。しかしそうではない。イデアのエーフェスにもあるように、長く生きるためには極限まで機能を削る必要があったはずです。それほどの長寿命を実現するためには、人間はあまりに複雑で脆すぎる」

「史実ではないということですか?」

「フィクションだと片づけるのは簡単ですが、私は聖書も史実に基づいたものだと考えています。しかし九三〇年の寿命を実現するのは、現代の科学力でも不可能に等しい。……そこで私はこう考えました。永遠の命を持つ神にとって、命とは何も、体が滅びれば尽きるものではない。体はただの器に過ぎません。……記憶、あるいは心を継承することができれば、姿形は違くとも、それがアダムだということに変わりはない」

「……心の、継承?」

 伏見は長椅子に腰かけてうつむいたまま、二人の会話を聞いていた。

「エデンの園の中央には、知恵の樹と生命の樹が植えられたとされています。善悪の知恵の実は失楽園へと繋がる禁忌の果実とされていますが、おそらくは実在としてこの世界に揺らぐためのもの。そして、生命の樹の実は永遠の命……すなわち、心の継承を可能にするものだったはずです。何か間違えていますか?」

 伏見は再度、首を横に振った。しかしイヴは腑に落ちない様子だった。

「……でも、いったいどうやって心の継承を? それこそ現代の科学力でも不可能なはずです」

「科学力などなくとも心は継承できるものですよ。現に、あなたは私の知らない間に沢山の人の心を継承したようですね。以前ならば私に疑問をぶつけるようなことは考えられなかった。人は人に触れることで、心を分け合う能力を持っているのです」

「……それでは、アダムは子孫に心を継承して、子孫がアダムを名乗ったということですか?」

 これには及川が首を振った。

「触れ合いによる心の継承は、とても弱いものです。あなたの心に彼の心が伝播したように、簡単に心変わりしてしまうこともある。例え子孫であっても、親に歯向かう子供はいます。永遠の命をもたらすためには、完全な心の継承が必要となる」

「そんなことが、可能なのですか?」

 及川は幼い娘の質問に応えるように、ゆっくりと頷いた。

「創世記の一節にこんな一文があります。“生命の樹に至る道を守るため、主はエデンの東にケルビムと、輝きながら回転する剣の炎を置いた”……。生命の樹に至る道は“月”、回転する剣の炎は“太陽”と解釈されている。昼の陽の光はエデンを隠し、夜は闇によってこの世界が隠される。つまり、生命の樹に至る道は夜に現れる。それは……“夢”ですね?」

 伏見は、首を縦に振った。及川は万感の思いで十字を切った。

「夢、ですか?」

「私は幼い頃から、記憶にない場所を夢に見ることがありました。管理機構で生活をしていた時、そのことをアンネに話すと、彼女はこう言いました。“イデアを夢見たのね”と」

 同じような話を伏見から聞いたことを、イヴは覚えていた。

「イデアは心の世界です。生命の樹は、おそらく心を保存する記憶装置のようなものなのでしょう。ハードウェアが滅びても、保存されたソフトウェアが夢によって新たなハードウェアにロードされ、もう一度この世界に生まれることができる。酷く無粋な表現ですが、ネットワークやコンピューターも神と同等の心を持つ人間が生み出したものです。一昔前に隆盛した仮想現実は、人間が無意識に創り出したイデアの模造品だったのではないかとも思っています」

 教会内に短い沈黙が流れ、伏見は鼻で笑った。

「……良くできた、おとぎ話だ」

「いいえ。おとぎ話というには、この話はとても科学的です。完璧な対称性を保っていた原初の宇宙。神の素粒子による自発的対称性の破れと、質量の獲得。その存在を予想されながらも、何かに隠されているかのように未だ観測することのできないダークマターやダークエネルギー。九百年以上生きたとされるアダム。そして……イエス・キリストの復活さえ、この本が証明してくれている。あなたは宗教を使って、文明や科学の発展をコントロールしてきた。我々を見守ってきた。……幾度となく、生まれ変わりながら」

 伏見は溜息交じりに口を開く。

「あなたの目的は、あなたの考えた世界の始まりの答え合わせというわけですか? もし自分がそれに頷くことで気が晴れるなら、いくらでも頷きますよ。あなたの考えは正しい。これでいいですか?」

 及川は不敵に微笑み、本を閉じた。

「……あなたは、何を隠している?」

「……なんのことですか?」

「この世には科学の力では証明できないような事象がまだまだ溢れている。預言、魔術、超能力、数々の神話。これらはなんの根拠もないオカルトとされているが、それではいったいどこからその概念が生まれたのか?」

「人間の創造力は神に匹敵する。創作によって生み出されてもおかしくはない」

「しかし同時に、実在していてもおかしくはない。火のないところに煙は立たないというではありませんか。……あなたは知っているのでしょう? そのすべての根源を。私自身いくつか持論を持ち合わせてはいますが……あなたの口から聞きたい。それが済めば、私はどうなっても構いませんし、あなたを解放します。もちろん、彼女たちもね」

「そんなものはオカルトですよ。今のご時世、超常現象の真実について扱ったコンテンツを楽しむ人もほとんどいない」

「そう。大して利益を生むわけでもないのに、前世紀には粗末な超常現象を扱ったメディアが氾濫していた。それが実在するかのようにしつこく提示することで、逆に人々の猜疑心を掻き立てるように」

「……考えすぎです」

「ではお訊ねしますが、あなたはどうやって懲罰房のロックを解除したのですか?」

 その質問に、伏見は口をつぐんだ。

「懲罰房のロックは、ローカルネットワークによって管理されています。外部からシステムに細工をすることは不可能だ。懲罰房だけではありません。マイクロマシン入りのレーションを食べたはずの彼女が、なぜ今ここに立っているのでしょう?」

「マイクロマシン?」

「宗教紛争の鎮圧に参加したゼノイドは、日本で処分される予定になっていました。君の逃走によって予定が伸びてしまいましたが、全員が揃った今、君たちにもう用はないのです」

「……そんな……」

「しかし君はまだ生きている。……いったいどうやって彼女を救ったのですか、エーフェス」

 伏見は膝に手を当てて立ち上がると、腕を上げて猫のように体を伸ばした。

「もう話に付き合う必要はない」

「……なんですって?」

「上手く説得できればと思って話を聞き流していましたが、あなたには何を言っても無駄のようだ。警察に連絡して、あとは任せることにします。……行こう、イヴ」

 伏見は赤いカーペットの上を歩いていく。イヴは茫然と立ち尽くす及川を気にしながらも、それに続いた。伏見が及川の脇を通り過ぎて間もなく。静かな朝の教会に、短い悲鳴が響いた。

 振り向くと、腕を背で極められ、側頭部に銃口を突きつけられたイヴがそこにいた。

「及川さん……!」

「……エーフェス、あなたは何を聞いていたんだ。私は、すべてを捨てる覚悟で、あなたを探してきた。あなたから答えを聞くためなら、なんだってします」

 及川は銃の撃鉄を起こした。

「なぜそこまで……。答えを聞いて、何になるって言うんですか……?」

「私はあなたの存在を世に知らしめる。そしてあなたに、この世界を救ってほしいんですよ」

「……世界を、救うですって?」

「あなたも、この国が終末へと加速していることに気づいているでしょう。日本だけではない。世界が、人類が希望を失い、現状を維持することすらままならない。私は絶望する人々の姿を、この目で見てきた。記録してきた。だからこそわかる。人々は神を求めている。救いを求めているんですよ」

「僕が神だと認めて、それがなんだって言うんです? 誰も信じませんよ。それどころか、僕みたいな矮小な人間が神だったとしたら、なおさら世界中の人々が失望する」

 その発言に、及川は目を細めた。

「あなたが答えを渋る理由は、それですか。あなたは神の正体に失望されることを恐れているんですね」

「……違う、そうじゃない」

 伏見はほとんど泣き出しそうになりながら、声を振り絞った。

「神様がいて、救えるような世界なら、とっくに救っている。あなたの目には負の面しか映らなかったかもしれないけれど、この世界にはちゃんと正の面も存在しているんですよ。正と負を併せ持った状態を、“実在”と言うんです。当たり前のことだ……。“真の実在”なんてものは、存在しない……」

「嘘だ! なぜならあなたには力がある。この世界を創り出し、星を創り出し、人類を創り出した力が。あなたならば、いくらでもこの世界を書き換えることができる。そうでしょう?」

 及川は、文字通り神にすがるように伏見に語り掛けた。しかし伏見は、首を横に振ることしかできない。

「違うんですよ、及川さん……」

 及川はイヴの肩に銃口の縁を当て、引き金を引いた。

「あっ……!」

 轟音と共に高速の弾丸がイヴの肩をかすめ、カーディガンに血が滲む。

「……及川!」

 激しい怒りと悲しみで、伏見の目からは涙が溢れた。

「次は頭を撃ちます。私は自分の手を汚すことなく、沢山の命を奪ってきた。最後くらい、自分の手を汚すのもいいでしょう」

 及川はもう一度撃鉄を起こした。リボルバーのシリンダーが回転し、弾丸が射撃位置へと移動する。その銃口は再びイヴの側頭部へ。イヴは痛みに耐えながら、どうしたらいいのかわからないという様子で伏見を見た。

 伏見はもう、逃げるわけにはいかなかった。

「……及川さん、イデアのエーフェスの話を思い出してください」

 言いながら、コートから錠剤のケースを取り出す。

「エーフェスは何度も何度も、数えきれないほどの失敗を重ねた上で、この星を創ったんです」

 ケースを開き、中から赤いカプセルを手に取った。

「この星と、この星に住む人間は――紛れもなく、僕たちの最高傑作だ」

 伏見はカプセルを口に含み、奥歯で噛み潰した。薬剤が口内に流れ出す。伏見はそれを、唾液と一緒に飲み込んだ。

「……なんですか。今、なにを飲んだんですか!」

 及川は取り乱してわめいた。伏見の眉間に皺が寄る。足元がふらつき始め、バランスを崩して長椅子にもたれかかった。

「伏見さん!」

 イヴは力の抜けた及川の手を振り払い、伏見の元へ駆け寄る。肩を貸して伏見の体を床に横たえた。

「伏見さん? ヒロトさん!」

 必死に呼びかけるが、反応はない。伏見は目を閉じ、すでに意識を失っているようだった。

 及川はその姿を見て、腰が抜けたように膝を突く。

「自殺……した……?」

 それまで覇気すら感じさせていた及川の顔が、一気に年老いたように見えた。

 イヴはなんとか冷静さを取り戻し、伏見の状態を確認する。すると、すぐに安堵の表情を浮かべた。

「呼吸がある……」

 伏見の胸は、呼吸によってしっかりと上下していた。

「生きているんですか?」

「はい。眠っているだけのようです」

 及川は引きつった笑みを浮かべ、立ち上がる。

「良かった。何もかもが無駄になったのかと……」

「しかし、毒物を飲んだ可能性はあります。早くお医者さんに見せないと……」

 イヴは伏見を抱き起こし、伏見の腕を首にかけ、背から脇に手を回して立ち上がろうとした。

「その必要はありません」

 眼前に銃口が突きつけられた。見上げると、狂気の滲む笑顔を浮かべて、及川が立っていた。

「地下の研究施設には解毒剤がいくらでもあります。彼は私が預かりましょう」

「しかし――」

「もう一度言いますが、君はもう用済みなのです。非常に申し訳ないですが、ここで死んでください。……どうしました?」

 及川は言葉の途中で、イヴの視線が自分には向けられていないことに気がついた。イヴがかけている眼鏡のレンズが、光を反射して輝く。

 振り向いて、及川は言葉を失った。

 筆舌に尽くしがたい光景だった。教会内を、無数の青白い光が漂っていた。ステンドグラスから差し込む陽の光とは違う。それは臨界事故の際、強い放射線によって電離した空気中の原子が、基底状態に戻る際に発するという光によく似ていた。

 その光が強くなるにつれて、教会内にあるものが振動を始めた。イヴはあまりの眩しさに腕で目を覆ったが、及川は歓喜してその光を見た。

「そうか、そういうことだったのか……。これが、神の力――」

 振動に耐えきれず、ステンドグラスが割れ、飛び散った。しかしそのステンドグラスは床に落ちることなく、青白い光をまとって浮遊する。及川の目には、すでに眩い光しか見えていなかった。ガラスが何かに操られたように回転を始める。

 そしてそれは、及川に向けて放たれた。


「包囲は?」

『完了しています』

 インカムで報告を受けて、佐伯はホルスターから銃を抜いた。スライドを引いて一発目を装填し、教会の扉の前に立つ。

「突入」

 命令を出すと、佐伯はその長い前足を上げ、扉を蹴り開いた。同時に銃を構え、中の様子を確認する。イヴの姿を見つけてすぐに銃を下ろし、

「……どうなっている」

 教会内の惨状を見て呟いた。

 あたりには割れたステンドグラスの破片が散乱し、整然と並んでいたはずの長椅子は、真っ二つに割れていたりねじれていたりした。いったいどんな力が働いたのか、石の壁は波打ち、柱はどれも外側に向かって弧を描くように曲がっている。加えて、祭壇に飾られていた十字架は消えてなくなっていた。

 別の箇所から突入してきた管理機構の諜報員も、教会内の様子を見て口々に疑問を呈する。

 佐伯は床に座り込んだイヴのところまでやってきた。イヴの視線の先では、血まみれになった白髪の男が倒れている。それが及川だと認識するまでに、数秒の時間を要した。体中にガラス片が突き刺さっていたが、辛うじて息はあるようだった。

「イヴ」

 声をかけられて、イヴはゆっくりと顔を上げた。

「佐伯さん……」

「すまない、拘束具を抜けるのに手間取っていた。……いったい何があった?」

 訊ねられて、イヴは視線を落とす。

「……わかりません」

 膝の上で、伏見が子供のような寝顔を晒していた。

この作品はシェアード・ワールド小説企画“コロンシリーズ”の一つです。


http://colonseries.jp/

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