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好きってなに?


 「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」

 ジョニーの退屈な講義が終わり、そそくさとゼミ室から出ようとする愛菜を捕まえて聞いた。

 「何?」

 質問に答えようとしてくれる愛菜の眉間に少し皺が寄っていることなどまるで気づかずに賢治はさらに質問をしようとしたが、上手く言葉にまとまらない。

 好きな人ができるのって疲れるの?

 好きになるって何?

 というか愛菜に好きな人自体いるのだろうか。

 あれこれ考えた末、とりあえず言葉にできた言葉をそのまま口にだした。

 「今彼氏いる?」

 最悪である。一年近く顔を合わせ続けて、まともに話すのが二回目のレディに向けた言葉は、新鮮さ百パーセントのタチの悪いナンパと寸分変わりない文言だった。

 その文言に愛菜の眉間の眉はさらに深まった。

 「いないけど、何?」

 「いないのか。じゃあ、好きな人は?」

 「それもいないけど。」

 「なんだよ、いないのかよ。」

 「なんだよって何!」

 そこまで話して賢治は漸く自分が乙女の恋愛事に土足で踏み込んで踏み回るような失礼を働いていることに気づいた。だが、もはや愛菜の眉間の皺はあまりにも深く、お得意の嘘で誤魔化せそうもない。試しに嘘を吐こうと口は愛菜の鋭い目に睨まれて弱々しく閉口していく。全てを諦めて観念した賢治は全てを話すことにした。

 よく行く〈ホーネス〉という店のこと、ママのこと、好きな人ができたことがないこと、それ故にママの言っていることが分からないこと。取り調べ室と化したゼミ室で、カツ丼も何もないのに賢治は聞かれてもない言う必要のないことまで全部話した。

 「あぁ、そういうことだったのね。」

 犯した罪を漸く認めた被告のように項垂れる賢治を見て、愛菜は呆れたような、安心したような顔をした。

 「ママ?て人のこと私は知らないけど、誰かのことを好きになるのは疲れるよ。」

 長い髪の毛を触りながら愛菜が言った。

 「愛菜、さんもそうなんだ。俺には全然分からないな。へぇ、好きって疲れるものなんだ。」

 「だって、好きな人が自分のことを好きになってくれなかったり、別の人のことを好きになったりしたらどう?あと、今更変に気使わなくていいから。さんづけもやめて。」

 そんなこと言われたって賢治は人を好きになったことがないのだから分かるはずがない。

 別に好きな人が自分以外の人を好きだったとして、それはそれでどうでもよくないか?そんなに世の中の人間は恋愛を中心に回っているのか?恋愛が無理なら別のことに集中すればいい、hiphopだって酒だって、この世には恋愛以外にも幸せを運んでくれるものがたくさんあるじゃないか。

 でも容疑を認めた後に警察に楯突く被告なんていない。賢治はチャンスと言わんばかりにまたお得意の嘘をついた。

 「嫌かもしれない。」

 そう言う賢治の言葉を聞いて、愛菜はまたも眉間に何個もの深い谷を作る。

 「嘘つき。」

 「嘘つき!?」

 「嘘つきでしょ、その言い方も顔も。ばればれだって、ずっと。」

 二十二年の歳月を経て身につけてきた賢治のちっぽけな特技は今この瞬間、初めての敗北を喫した。二十二年の全てが、まともに話したのはたった二回だけの女の子に打ち負かされたのだ。

 「賢治くんには分からないと思うけどね、好きな人ができるともうその人のことがずっと頭のどこかにあるの。何かを食べたり見たりしても、その人は食べたことあるかなぁ、とか、これ好きかなぁ、とか思うの。日常の中にいる人になるの。そんな人が自分のことは好きじゃないかもとか、他の人の所に行っちゃったらって、思うだけで不安になるの。もしそうなって傷つくぐらいなら最初から好きにならなければよかったーって思っちゃうよ。だってその人がいなくなったら誰かといても一人でいる気がしちゃうくらいしんどいもん。もし、その人に何かあって、自分のことを忘れられたらってなったら、相当しんどいよ。」

 普段お世話になっているママのために頑張ろうと思ったがこればっかりは無理かもしれない。

 心の中でママに懺悔をしながら賢治は何も理解なんてしてない癖にまた嘘をついた。

 「なるほどね。」

           *


 その後も怪訝そうな顔をしている愛菜と、誤魔化しと嘘で作られた顔をした賢治は一緒にエレベーターに乗り込んだ。正面にある鏡で少しだけ乱れた前髪を愛菜はせっせと直し、寝起きで前髪が大きく乱れている賢治は一度大きく書き上げてドアの方を向いた。またも愛菜は、口をへの字にして呆れ顔をしている。

 「なんだよ。」

 「あのね、これもね、女の子は普通気になる人と一緒にいたら前髪のちょっとした乱れも気になっちゃうものなの。」

 「女の子って大変なんだな。」

 適当に肯定しながら、顔を後ろに向けて鏡の方を見ると、鏡の中の愛菜と目が合う。パッキリとした猫目が、賢治の目を鏡の中で反射しながら見ている。

 「本当に大変なんだから。」

 前髪を整え終えたのだろうか、愛菜もドアに向かって正面を向いた。折りたたみ式の串を、雑にブランド物のバッグに押し込んでいる。

 「例えば今みたいなね、エレベーターで二人きり、みたいなのもドキドキするの。」

 「ふぅん、あ。」

 エレベーターの電光掲示板が"2"の文字を示しながら点滅し、ドアが開くと同時に他学部と思われる知らない男子学生たちが騒ぎながらエレベーターに入ってくる。流行り物を見に纏いながら「こないだ何杯飲んだわ!」とか、「ギャンブル大勝ちした!」とか、大学生さながらのトークテーマを大きな声で話している。

 好きな人と二人きりでいる時に、こんな奴らが割り込んできたらきっと最悪なんだろうな。

 なんて、賢治も一、二年前まで彼らと対して変わりない、酒や遊びに溺れていた大学生だったくせに、自分のことを棚に上げながら言った。

 「ドキドキって寿命が短いんだな。」

 愛菜が賢治を鋭い瞳で睨む。そんな睨みを気づかないふりすることなんてお茶の子さいさい。ヘラヘラしながら前を向くと、目の前に立っている男子学生と目が合った。いや、違う。賢治と目が合っているのではない、彼らは愛菜のことを見ようとしている。チラチラと見てくる男子学生たちから隠れるように、愛菜は賢治の後ろにそそくさと移動した。

 ニヤニヤしながら愛菜を見ようとする男子大学生たちに、賢治のベトジャンの裾を掴みながら縮こまる愛菜。何故だか無性に目の前のオスに腹が立ってきて、自分でもよく分からないまま、ドアが開いてエレベーターから出ようと背を向ける彼らに向かって、思いっきり唾を吐いた。

 ペェッ!と口と唾液が擦れる音と共に宙にとき離れた唾は、一人の男子学生のジャケットの背中に当たり、弾け飛ぶ。

 一瞬大学生は、ん?と戸惑いの顔を浮かべたが、まさか自分の背中に知らないやつの唾が付着しているなんて思わず、そのままエレベーターを後にした。

 尚もベトジャンを掴んだまま動かない愛菜に、賢治も身体を動かさないまま、口だけ開いた。

 「あの中のやつに、唾吐いてやった。」

 「は?」

 「さっき唾吐く音したろ。あの中の一人に、俺が唾吐いた音だ。」

 「え、あんたやば。」

 そう言うも愛菜は笑って、賢治の横に出てきた。目の所が少し赤くなって見えた。

 「モテモテだな。」

 「そう言うんじゃないよ。一年生の時に三ヶ月くらい付き合ってた男が、振られた腹いせに私の変な噂を流し始めたの。それを間に受けた周りの馬鹿な男たちがすれ違ったりする時に、ああいう風に見てきたりするの。」

 「なるほどね。」

 エレベーターのドアがが閉まった。とっとと出ればいいのに、二人は止まったままのエレベーターに立ちっぱなしだった。

 「じゃあ、善行を働いたな。」

 「善行ではないでしょ。」

 そう言った愛菜はまたもあはは、と笑い声をあげた。

 「でもありがと。」

 エレベーターの密室の中で、鼓動の音が聞こえた気がした。

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