第14話(後編)――「喫茶店の朱肉、借地の鎖が切れる」
電話で値段を置いたあとは、会って決める番になる。尚人は順子を連れて売り手たちと面会を重ね、借地や共有や雨漏りや相続の厄介ごとごと引き受けながら、7つの候補を一気に札へ変えていく。
午後から、面会が続いた。駅前の喫茶店の片隅、役所近くの駐車場、食堂の前の狭い歩道。場所はばらばらだったが、尚人は同じ手順で話を進めた。現物を見せてもらい、相手の不安を先に言葉にし、こちらが引き取る範囲をはっきりさせる。
尚人は甥に言った。「栄町スズランビルは、建物だけでは終わらせない。借地のまま残すと、次の買い手が嫌がる。底地までまとめて買って、札を強くする。地主さんの連絡先は分かるか」
甥は封筒を指で押さえながら、慎重に答えた。「地主は古い人です。話がややこしいですよ」
尚人は声の調子を変えなかった。「ややこしいなら、なおさら早く片づける。こちらが現金で動く。順子さん、地主の住所は取れているか」
順子は台帳を開いたまま頷いた。役所でもらった名寄帳の写しと、登記簿の住所が一致している。「取れています。固定資産の送付先も同じです」
尚人は公衆電話の受話器を取り、番号を押した。受話器の奥でプツプツとした雑音が鳴り、呼び出し音が2回続いたところで、男の低い声が出た。
尚人は名乗り、用件を切り出した。「栄町の借地、スズランビルの底地を買いたい。借地権者とも話はついています。今日、こちらが小田原にいます。会って10分で決めます」
相手は一度笑った。「底地なんて、買う奴はいないよ。借地は面倒だ」
尚人は言い切った。「だから買います。面倒をこちらが引き受ける。値段は1800万円。今日、手付200万円を持っていきます。残りは登記が整い次第、一括で決済します。税金の支払いも、今後はこちらが持ちます」
相手は少し黙った。受話器の向こうで、紙をめくる音がした。「1800万円で、本当に今日決めるのか」
尚人は即座に返した。「決めます。先延ばしはしません」
◇ ◇ ◇
面会は、駅前の喫茶店になった。灰皿の金属が冷たく、コーヒーの匂いが濃い。窓の外ではバスが停まり、排気が白く流れた。
地主は年配の男で、背広の肘が少し光っていた。甥も同席した。地主は尚人の顔を見て言った。「建物だけでなく、土地まで欲しいのか。変わった若いのがいるな」
尚人は机の上に書類を並べた。登記の写し、借地の所在、地番、現況の写真。紙の角が揃い、インクの匂いがわずかに立った。「土地と建物が揃って初めて、次の買い手が付きます。借地のままでは、動く札になりません。こちらはまとめて整理します。その代わり、値段は最初に決めます」
地主は眉を動かした。「1800万円は安い。駅の近くだぞ」
尚人は相手の目を外さず、淡々と理由を並べた。「駅の近くでも、底地は買い手が限られます。借地権者と揉めると、あなたの側も時間を取られる。固定資産税も毎年出る。私は今日ここで手付を渡し、来週には決済日を切ります。あなたは、この先の面倒から手を引ける」
地主は指で机を叩いた。音が乾いて小さく響いた。「せめて2000万円だ」
尚人は一度だけ頷いた。「分かりました。2000万円でいい。ただし条件があります。借地の名義整理と境界の確認に、あなたの側で余計な注文を付けない。こちらが段取りを組みます。今日、手付200万円。残り1800万円は、登記が整い次第、決済で一括です」
地主は甥の顔を見た。甥は小さく頷いた。地主は最後に言った。「そこまで言うなら、売る」
順子が静かに朱肉を出した。朱肉の匂いが机に広がり、印鑑を押すと、赤い跡がくっきり残った。順子は領収の文言を整え、金額と日付を迷いなく書いた。尚人は封筒を2つ出した。紙幣の匂いが一瞬だけ開き、地主の指が厚みを確かめた。
甥がぽつりと言った。「こんなに速いのか」
尚人は答えた。「速い方がいい。こちらも時間を使いたくない」
その場で「建物1200万円」「底地2000万円」の線が引かれ、栄町スズランビルは、借地という弱さを消した札になった。
城見会館脇は、兄が来ていた。兄は「2筆をまとめるのが難しい」と口にしたが、尚人は押さずに言った。「難しいなら、難しいまま値が下がる。それでも今日片づけるなら1050万円は出します。先延ばしなら、こちらも買いません」
兄は妹の顔を見て、最後に頷いた。「……分かった。いま決める」
東通り柳屋長屋は、共有者が交代で現れた。尚人は何度も同じ説明をし、順子は名前と印鑑の並びを間違えないように揃えた。紙が重なるたび、角が擦れて乾いた音がした。
お堀端ミナトヤビルの持ち主は、店の裏で尚人に言った。「3200万円、本当に出るのか」
尚人はそのまま返した。「出します。ただし、雨漏りの場所と、引き継ぐ契約を今日ここで確認します。曖昧にしない。あとで揉めない」
持ち主は、店の戸を開けて天井の染みを見せた。出汁の匂いが強く、湯気が顔に当たった。尚人は一度見ただけで頷いた。「分かりました。ここは直せる」
城下第2パーキングと潮見坂の家と富士見倉庫ビルは、相手が「子どもが相続を嫌がるし、持っていても意味がない」という気分になっていた。尚人はそこに付け込まず、急かしもせず、決済の速さだけを提示した。相手が迷う時間を与えない代わりに、こちらの約束も増やさない。条件が少ないから、決まる。
夕方、ワゴン車に戻った順子は、台帳の7本の欄に二重線を引いた。横に価格が並んだ。
栄町スズランビルは建物1200万円、底地2000万円、合計3200万円。城見会館脇の2筆は1050万円。東通り柳屋長屋は900万円。お堀端ミナトヤビルは3200万円。城下第2パーキングは480万円。潮見坂の家は550万円。富士見倉庫ビルは1100万円。
尚人は運転席で手を組み、順子に言った。「これで札が7枚できた。来週、欲しがる相手に見せる。順子さん、今日の書類は部屋で整理してくれ。明日は次の手に移る」
順子は頷いた。「はい。印鑑と領収の順番も、全部揃えてあります」
外は少し冷え、東口の灯りが濃くなっていた。2人は車を駅前の居酒屋へ向けた。今日の話を、酒で散らさず、要点だけ残すためだった。
この後編で、小田原東口の7つの候補は、ただの見込みではなく、値段と手付と印を持つ札になった。借地の鎖を切り、共有の面倒を引き受け、雨漏りや空き家や遅れた家賃まで含めて話をまとめる。尚人の買いは、ここから先、町の中の厄介ごとを利に変える段へ入っていく。




