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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第三章――「逆アセンブラの女と会社設立を決めた日」

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第14話(中編)――「受話器の雑音、7つの値段」

役所と法務局を回ったことで、小田原東口の7つの候補は、曖昧な目星ではなくなった。ここから尚人は、受話器を握って売り手に直接当たり、値段と手付と面会の段取りを一気に詰めていく。

 昼前、ワゴン車に戻ると、車内は少し暖まっていた。シートが日を吸い、布の匂いが立つ。尚人はダッシュボードに書類を並べ、順子は助手席で台帳を開いた。尚人は順子に言った。「電話番号は、役所の台帳と登記の住所で当てる。つながらない場合は近所の店に当てる。順子さんは次に回す順番を揃えてくれ」


 順子は頷き、受話器のある公衆電話へ小走りで向かった。硬貨を入れる音がして、受話器からは薄い雑音が出た。尚人は番号を押し、最初の相手を呼び出した。


 栄町スズランビルは、登記名義が高齢の持ち主のまま止まっていた。家賃の集金は甥がやっている、と昨夜のタバコ屋の女主人が言っていた件だ。


 尚人は受話器に向かってこう言った。「大野さんの甥御さんですね。栄町スズランビルの件でお話があります。建物だけを買いたい。現状のまま引き取ります。今日中に手付を入れます」


 甥は警戒した声で答えた。「いくらですか。うちは借地ですよ。面倒ですよ」


 尚人は言葉を変えなかった。「面倒なのは承知です。だからこちらがやります。建物代で1200万円。条件は1つだけ。今週中に現場を見せてください。売るなら、話が速い方がいいでしょう」


 甥はすぐには返事をしなかった。受話器の向こうで、何かを指で叩く音がした。尚人は黙って待った。沈黙が続くほど、相手の息が荒くなる。


 甥は最後に言った。「……分かりました。父に話します。今夜、駅前で会えますか」


 尚人は即答した。「会えます。手付は現金で持っていきます」


 順子は受話器のそばで小さくメモをした。「栄町スズランビル 1200万円 手付あり 面会今夜」


 次は城見会館脇の2筆だった。相続未了の気配があり、共有者が数人いる。


 尚人は相手にこう言った。「2筆まとめて欲しい。片方だけ先に、という話もできます。ただ、まとめた方が高くなります。2筆で1050万円。名義の整理が必要なら、こちらで段取りを付けます」


 相手は女の声だった。「うちは兄弟が多くて、話がまとまらないんです。面倒で」


 尚人は淡々と返した。「面倒だから値段が下がっている。それを嫌がる人は買いません。こちらは買います。今日、印鑑と身分証が揃う人だけで構いません。残りは委任状でそろえます。動くなら、こちらが一番速い」


 女は息を吸い込んでから言った。「分かりました。兄に電話します。午後なら時間が取れます」


 順子が台帳に書き込んだ。「城見会館脇 2筆 1050万円 午後面会」


 東通り柳屋長屋は、登記を読むだけで共有が見えた。尚人は最初の権利者に電話し、次に別の権利者へ回し、同じ説明を繰り返した。声の調子を揃え、言い方を変えない。相手が困ったように言った。「古くて、こちらでは手が回らないんです。直して貸す余裕もなくて」尚人は淡々と答えた。「直してくれとは言いません。現状のまま引き取ります。だから900万円です。話がまとまるなら今日、手付を入れます」


 最後の権利者は、ため息混じりに言った。「そんな値で売れるなら、売ってしまいたい。誰も住まないし、揉めるだけだ」


 尚人は答えた。「揉めるなら、こちらが窓口になります。売ってください」


 順子は、権利者の名前の横に小さく丸を付けた。「東通り柳屋長屋 900万円 共有者全員OK」


 お堀端ミナトヤビルは、抵当が残っていた。尚人は電話口の持ち主へ言った。「抵当があるなら、抹消の段取りを先に決めます。こちらは1棟で買います。3200万円。1階の食堂はそのまま営業してもらう。契約は引き継ぎます。揉める要素を増やしません」


 相手は男で、声が疲れていた。「そんなに出るのか。屋上がだめで、直す金がなくてな」


 尚人は言った。「直す場所が見えているのは、こちらにとって悪くない。だから今日、話を詰めたい。現場で会いましょう」


 城下第2パーキングは、地番の形が悪く、接する道の条件も弱かった。所有者は年配の女で、声が慎重だった。


 尚人はこう言った。「今のままでも使えます。ただ、狭いから買い手が限られる。だから480万円が限界です。代わりに、手付は今日入れます。名義が整い次第、すぐ決済します」


 女は言った。「そんなに安いの」


 尚人は言い切った。「安いです。ですが、現金が速い。今のうちに片づけた方が安心です」


 女は少し黙ってから言った。「……分かったわ。家の者と相談するけど、会って話は聞く」


 潮見坂の家は、持ち主が横浜に住み、空き家を気にしていた。尚人は相手の不安に合わせて言葉を置いた。「空き家は荒れます。近所に迷惑が出る。こちらがすぐ管理に入ります。550万円。鍵は今日預かりたい」


 相手は即答に近かった。「それならお願いしたい。近所から言われて困っていた」


 富士見倉庫ビルは、借り手の名義と実際の使い方が食い違っていた。売主は電話口で言った。「契約は『富士見運送』の名義のままなんですが、今は下請けの荷扱いが出入りしていて、鍵も複数に回っているんです。家賃も月によって遅れる。揉めるのが嫌で、次の買い手が付きにくいと思っていました」


 尚人は最初に確認した。「名義の会社は今も動いていますか。鍵を持っているのは何人ですか。家賃の遅れは何か月分ですか。敷金は預かっていますか」


 売主は答えた。「会社は形だけ残っています。鍵は名義の人と、出入りの2社で計3本。遅れは1か月分です。敷金は30万円だけ預かっています」


 尚人は条件をまとめた。「契約はこのまま引き継ぐ。借り手は追い出さない。こちらが求めるのは、名義の確認と振込先の変更だけです。遅れている1か月分は、決済のときに精算して片づける。建物は現状のまま。1100万円。決済は遅らせません」


 相手は言った。「それなら助かる。いまの借り手が面倒で、売りにくいと思っていた」

この中編では、尚人が7つの候補を数字に変え、売り手ごとの不安に合わせて話を通し始めた。面倒だから値が下がる場所を、速さと現金で拾う。そのやり方が、この回の電話のすべてに通っている。次は実際に会い、印と朱肉と手付で話を固める段になる。

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