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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第2話――「空き部屋の冷え、水音の男」

 (2026年1月6日火曜日)


 翌朝、尚人が目を覚ますと、窓の外は白く霞んでいた。川から上がる湿気でガラスが曇り、遠くからクラクションの音が聞こえてくる。


 リビングへ出ると、ミン・ハが食卓を整えていた。焼いたパンと果物のほかに、牡蠣と生姜の粥、にら入りの卵焼き、蒸したうなぎが並んでいる。


 尚人が席に着くと、ミン・ハが口を開いた。


「ナオトさん。きのうの空き部屋のことで、管理の人が少しお話したいそうです。ロビーで待っています」


 尚人は頷いた。


「分かった。食べ終わったら行く」


 朝食を済ませると、ミン・ハと一緒にロビーへ下りた。


 受付カウンターの前には、管理担当の男が待っていた。40代半ばほどで、ワイシャツの胸には名札を付けている。


 男は尚人を見ると頭を下げた。


「オーナー、お時間を少しいただけますか。昨日退去した部屋の件です」


 尚人は立ち止まった。


「鍵を受け取りに来ただけだ。何かあったのか」


 男は周囲を気にしてから声を落とした。


「念のための注意です。あの部屋は、ここ数週間、夜中の苦情が続きました。水の音がする、誰もいないのに歩く音がする、というものです。私たちも確認しましたが、原因がはっきりしないことが多かったのです」


 ミン・ハが言った。


「ナオトさん、変な話です。でも、人が勝手に入っただけということもあります。鍵の具合とか」


 尚人は管理担当の男に尋ねた。


「前の借り主は夫婦だったな」


「はい。ご主人は夜にベランダから転落して亡くなりました。警備も住民も騒ぎを知っています。奥さまは手続きを済ませたあとも、引っ越しが終わるまでこちらに残っていました。昨日、退去して鍵を返しました」


 尚人は鍵束を受け取った。


「案内は要らない。ただ、念のため人を1人つけろ。同じ階まで来させて、部屋の前で待たせておけ」


「承知しました。警備の者を向かわせます」


 ◇ ◇ ◇


 エレベーターを降りると、空き部屋の前には若い警備員が待っていた。


 尚人は鍵を差し込み、扉を開けた。


 部屋には家具もカーテンも残っていない。床も清掃されていたが、廊下より明らかに空気が冷えていた。


 ミン・ハは入口で足を止めた。


「寒いです。エアコン、ついていませんよね」


 尚人は室内へ入り、壁にある空調の操作盤を確かめた。電源は入っていない。


 リビングからキッチン、寝室へ目を向ける。


 誰かがいるようには見えなかった。


「誰かいるのか」


 返事はない。


 その代わり、キッチンの流し台から水滴の落ちる音がした。


 尚人は蛇口を確認した。閉まっている。


 それでも、少し間を置いて、また水の音がした。


 ミン・ハが尚人の近くまで来た。


「ナオトさん、今日はやめませんか。掃除の人に頼んで、あとで一緒に」


 尚人は答えた。


「大丈夫だ。ここは私のビルだ。自分の目で確かめる」


 その時、寝室の方から足音が聞こえた。


 尚人はそちらを見た。


 寝室の入口に男が立っていた。


 スーツの上着はくたびれ、ネクタイも緩んでいる。姿は見えるが、顔も服も周囲より色が薄かった。


 ミン・ハも男に気づき、尚人の後ろへ下がった。


 男が口を開いた。


「驚かせてしまって、すみません。ここにいると、人の気配に引かれてしまうんです」


 尚人は男を見たまま尋ねた。


「誰だ」


 男は胸に手を当てた。


「鳴海修司です。34歳でした。元は銀行に勤めていました」


 続けて言った。


「この部屋のベランダから落ちて、転落死しました」


 ミン・ハは黙ったまま尚人の後ろにいる。


 尚人は尋ねた。


「事故か」


 鳴海は首を横に振った。


「事故ではありません。妻にやられました」


「理由は何だ」


「生命保険です。私に生命保険をたくさん掛けていました。私が死ねば、妻の手元に金が入る。そういう形でした」


 尚人は鳴海から目を離さなかった。


「詳しい額は今はいい。ここで何があった」


 鳴海は少し間を置いてから話し始めた。


「夜でした。私は帰って話し合おうとしました。妻は先にシャワーを浴びていて、部屋の中に洗剤の匂いが残っていました。妻は風に当たろうと言って、私をベランダへ誘いました。床は拭いたばかりで濡れていて、足裏が一瞬滑りました。私は反射で柵に手を置きました。その瞬間、背中に手が添えられました。押されたという感触ではなく、支えが外れた感じでした。身体が前へ抜けて、暗い下へ落ちました。その先は、息が詰まって、うまく言えません。気づいたら、この部屋から出られなくなっていました」


 尚人はベランダの方を見た。


 窓の向こうには、昼のホーチミンの街が広がっている。


 尚人は鳴海へ向き直った。


「妻はどこへ行った」


「日本へ戻ったはずです。ただ、警察に疑われて追い詰められていました。逮捕される直前に逃げたんです。逃げた先は、40年前の日本です。理屈は分かりません。でも、年だけははっきりしています。1986年です」


 尚人は黙って鳴海を見た。


 1986年という言葉だけは、聞き間違えようがなかった。


 鳴海は続けた。


「お願いします。あなたなら動ける。私はここから出られません。妻が逃げ切ったままになるのだけは、許せないのです。何とかしてください」


 尚人はすぐには答えなかった。目の前にいるものが何なのかも、まだ分からない。


「すぐに引き受けるとは言えない。まず、手がかりを出せ」


 鳴海は頷いた。


「分かりました」


 尚人は続けた。


「欲しいのは手がかりだけだ。現場につながることだけ話せ」


「それと、私の生活には入るな。勝手に出てくるな。ミン・ハを怯えさせるな。仕事の邪魔もするな」


 鳴海は答えた。


「約束します。私は情報だけを渡します」


 尚人はもう一度尋ねた。


「女に繋がる確かな手がかりを、まず1つ出せ。場所はどこだ」


 鳴海は少し間を置いた。


「関東です。ほかは分かりません」


 その直後、鳴海の姿が薄くなり始めた。


 顔の輪郭がぼやけ、スーツの色も壁に重なる。


 鳴海は慌てたように言った。


「すみません。長く話すと、形が保てないんです。少しずつ渡します」


 尚人は黙って頷いた。


 やがて鳴海の姿は見えなくなった。


 部屋には尚人とミン・ハだけが残った。


 ◇ ◇ ◇


 廊下へ出ると、警備員が同じ場所で待っていた。


 尚人は部屋を施錠し、鍵を持ったままエレベーターへ向かった。


 ミン・ハは隣を歩きながら言った。


「ナオトさん。さっきの人、私にも見えました。見間違いじゃないです」


「見えたなら、いたんだろう」


 ミン・ハは少し間を置いた。


「怖いです。でも、ナオトさんが決めたなら、私も手伝います」


 尚人はミン・ハを見た。


「無理はするな。怖いなら怖いと言え。黙って我慢しなくていい」


「はい。言います」


 最上階へ戻ると、尚人はソファへ座った。


 窓の外では、バイクや車がいつも通り道路を流れている。


 鳴海から聞けたのは、妻が1986年の日本へ逃げたことと、場所が関東だということだけだった。


 それだけで、今すぐ何かできるわけではない。


 尚人はコーヒーを飲みながら、別のことも考えた。


 ここしばらく、全身のだるさが抜けない。勃起も以前のようには起きなくなっていた。


 医者へ行くことを先延ばしにしてきたが、このまま放っておく理由もない。


 日本では人に知られるのが嫌だったが、ホーチミンなら気にする必要もなかった。


 尚人は病院へ行くことに決めた。

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