第2話――「空き部屋の冷え、水音の男」
2026年、ホーチミン。早乙女尚人は自分の高層ビルで退去直後の空き部屋を確かめに行き、冷えた空気と、閉じた蛇口の奥から落ちる水音に出会う。そこに現れたのは、鳴海修司と名乗る男の影だった。鳴海はこの部屋のベランダから落ちて死に、妻は追及を逃れて「1986年の日本」へ消えたと言う。尚人はすぐには引き受けず、必要なのは現場へつながる手がかりだけだと条件を切る。返ってきた最初の断片は『関東』だった。
翌朝、尚人が目を覚ますと、窓の外が白く霞んでいる。川から上がる湿り気がガラスを薄く曇らせ、遠くのクラクションは少しこもって聞こえた。空調の冷えた風が頬を撫で、昨夜の眠りが浅かったことだけが身体に残っていた。
リビングへ出ると、ミン・ハが食卓を整えていた。皿の上には焼いたパンと果物に加え、牡蠣と生姜の粥の小鉢、にら入りの卵焼き、蒸したうなぎに胡椒と青ねぎを散らした小皿が並んでいる。湯気には磯の匂いと生姜の辛さが混じり、卵の甘い油の香りがその奥で立った。コーヒーの苦い香りが空気を締め、目が覚める。
ミン・ハは尚人の顔色を確かめてから、慎重に口を開いた。
「ナオトさん。きのうの空き部屋のことで、管理の人が少しお話したいそうです。ロビーで待っています」
尚人は椅子に腰を下ろし、頷いた。「分かった。食べ終わったら行く」
ロビーは冷房が強く、外の熱気が遠のいた。受付カウンターの前に、管理担当の男が立っていた。40代半ばで、薄いワイシャツの襟元がきちんと整っている。名札には英語とベトナム語の名前が並び、その下に役職が印字されていた。
男は丁寧に頭を下げた。「オーナー、お時間を少しいただけますか。昨日退去した部屋の件です」
尚人は立ち止まり、相手の目を見た。「鍵を受け取りに来ただけだ。何かあったのか」
男は声を落とした。「念のための注意です。あの部屋は、ここ数週間、夜中の苦情が続きました。水の音がする、誰もいないのに歩く音がする、というものです。私たちも確認しましたが、原因がはっきりしないことが多かったのです」
ミン・ハが横で小さく息を吸った。彼女は早口にならないように言った。「ナオトさん、変な話です。でも、人が勝手に入っただけということもあります。鍵の具合とか」
尚人は男に聞いた。「前の借り主は夫婦だったな」
男は頷いた。「はい。ご主人は夜にベランダから転落して亡くなりました。警備も住民も騒ぎを知っています。奥さまは手続きを済ませたあとも、引っ越しが終わるまでこちらに残っていました。昨日、退去して鍵を返しました」
尚人は鍵束を受け取り、金属の冷えを掌で確かめた。「案内は要らない。ただ、念のため人を1人つけろ。同じ階まで来させて、部屋の前で待たせておけ」
男はすぐに頷いた。「承知しました。警備の者を向かわせます」
エレベーターを降りると、廊下の空気が少し重かった。冷房は効いているのに、壁紙の糊と湿りが混じった匂いが残る。歩くたびに足音が遅れて返り、廊下がいつもより長く感じた。
空き部屋の前には若い警備員が立っていた。帽子のつばを軽く上げるだけで、挨拶は控えめだった。尚人が鍵を差し込むと、金属が擦れて乾いた音を立てた。扉を開けた瞬間、室内の空気が廊下へ流れ出し、温度が一段下がった。
部屋は空だった。家具もカーテンもなく、床だけがむき出しでワックスの艶が鈍く光る。だが匂いが変だった。洗剤の匂いの奥に、湿った布の匂いが貼りつき、その奥で古い鉄の匂いが薄く混ざっている。
ミン・ハは入口で止まり、声を落とした。「寒いです。エアコン、ついていませんよね」
尚人は靴のまま一歩入った。床が微かに鳴り、すぐに音が消えた。窓の外は明るいのに、部屋の中央だけ影が濃い。目の焦点が合いにくい感じがあった。
尚人は低く言った。「誰かいるのか」
返事はなかった。代わりに、キッチンの流し台の奥で、水が1滴落ちる音がした。ぽつり、ぽつりと間隔が揃う。蛇口は閉まっているのに、音だけが続いた。
ミン・ハは小声で言った。「ナオトさん、今日はやめませんか。掃除の人に頼んで、あとで一緒に」
尚人は手で制した。「大丈夫だ。ここは私のビルだ。自分の目で確かめる」
そのとき、寝室の方から足音がした。裸足が床を押すような音で、急がず、逃げず、こちらへ近づいてくる。尚人は肩の力を抜き、視線だけを寝室へ向けた。
寝室の入口に男が立っていた。スーツの上着はくたびれ、ネクタイは緩んでいる。顔色が悪いというより、色が薄い。照明がついていないのに、男だけが淡く見えた。
男は掠れた声で言った。「驚かせてしまって、すみません。ここにいると、人の気配に引かれてしまうんです」
尚人は一息置いた。「誰だ」
男は胸に手を当てた。「鳴海修司です。34歳でした。元は銀行に勤めていました」
鳴海は掠れた声で言った。「この部屋のベランダから落ちて、墜落死しました」
ミン・ハは息を止め、尚人の背中の少し後ろへ下がった。逃げはしないが、指先が震えている。
尚人は低く聞いた。「事故か」
鳴海は首を横に振った。「事故ではありません。妻にやられました」
尚人は間を置いた。「理由は何だ」
鳴海は言い切った。「生命保険です。私に生命保険をたくさん掛けていました。私が死ねば、妻の手元に金が入る。そういう形でした」
尚人は視線を外さずに言った。「詳しい額は今はいい。ここで何があった」
鳴海は言葉を探し、ゆっくり整えるように続けた。「夜でした。私は帰って話し合おうとしました。妻は先にシャワーを浴びていて、部屋の中に洗剤の匂いが残っていました。妻は風に当たろうと言って、私をベランダへ誘いました。床は拭いたばかりで濡れていて、足裏が一瞬滑りました。私は反射で柵に手を置きました。その瞬間、背中に手が添えられました。押されたという感触ではなく、支えが外れた感じでした。身体が前へ抜けて、暗い下へ落ちました。その先は、息が詰まって、うまく言えません。気づいたら、この部屋から出られなくなっていました」
尚人は窓の外を見た。日中の街は動いている。だがこの部屋だけ空気が停滞し、音が吸われる。
尚人は鳴海へ向き直った。「妻はどこへ行った」
鳴海は言った。「日本へ戻ったはずです。ただ、警察に疑われて追い詰められていました。逮捕される直前に逃げたんです。逃げた先は、40年前の日本です。理屈は分かりません。でも、年だけははっきりしています。1986年です」
冗談で済ませるには部屋の空気が冷えすぎている。ミン・ハの唇が乾き、何度も小さく噛まれているのが見えた。尚人は自分の呼吸の音を意識した。
鳴海は尚人を見た。「お願いします。あなたなら動ける。私はここから出られません。妻が逃げ切ったままになるのだけは、許せないのです。何とかしてください」
尚人はすぐに頷かなかった。頼み方には、生活へ入り込もうとする匂いがある。尚人はそれを嫌った。
尚人は言った。
「すぐに引き受けるとは言えない。まず、手がかりを出せ」
鳴海は小さく頷いた。
「分かりました」
尚人は続けた。
「欲しいのは手がかりだけだ。現場につながることだけ話せ」
「それと、私の生活には入るな。勝手に出てくるな。ミン・ハを怯えさせるな。仕事の邪魔もするな」
ミン・ハは尚人の横顔を見て、こくりと頷いた。怖さが消えたわけではない。だが線が引かれたことで、足元が少し固まった。
鳴海は言った。「約束します。私は情報だけを渡します」
尚人は廊下に立つ警備員へ一度視線をやった。現実の人間がそこにいるだけで、室内の異様さがわずかに薄まる。
尚人は言った。「女に繋がる確かな手がかりを、まず1つ出せ。場所はどこだ」
鳴海は一拍置いて言った。「関東です。ほかは分かりません」
言い終わる前に、室内の冷えが一段増し、尚人の腕に鳥肌が立った。鳴海の輪郭が揺れ、薄くなる。
鳴海は焦った声になった。「すみません。長く話すと、形が保てないんです。少しずつ渡します」
尚人は黙って頷いた。鳴海には通じた。それで十分だった。
部屋を出ると、廊下の空気が少し暖かく感じた。ミン・ハは背中を伸ばしきれないまま、尚人の歩幅に合わせた。
ミン・ハは言った。「ナオトさん。さっきの人、私にも見えました。見間違いじゃないです」
尚人は答えた。「見えたなら、いたんだろう」
ミン・ハは少し間を置いて言った。「怖いです。でも、ナオトさんが決めたなら、私も手伝います」
尚人は一度だけ振り返り、彼女の目を見た。「無理はするな。怖いなら怖いと言え。黙って我慢しなくていい」
ミン・ハは小さく頷いた。「はい。言います」
最上階へ戻ると、窓の外の街はいつも通りだった。バイクは流れ、人は笑い、川面は光を返す。だが尚人の頭の片隅に、空き部屋の冷えが残ったままだった。
尚人はソファに腰を下ろし、コーヒーの残りを口に含んだ。苦みはいつもと同じなのに、喉の奥だけが乾いていく。
尚人は、ここしばらく続く全身のだるさと、勃起が思うように起きない状態を放ってきたことを思い出した。空き部屋の冷えは別の話だが、身体の鈍さは自分の生活に張りついたままだ。医者へ行くのを伸ばしてきたのも、結局は恥ずかしさのせいだった。
尚人は、昼の光に濡れた窓を見て決めた。ホーチミンの病院へ行く。日本で噂になるのが嫌だっただけで、ここでは知られても生活は壊れない。
第2話は、物語の「相手」が初めて言葉として立ち上がる回である。空き部屋の異常は、噂や偶然ではなく、会話の成立する存在として尚人の前に現れる。一方で、手がかりは意図的に細く、長く話せない制約が置かれるため、尚人は自分の生活を守りながら追う、という条件付きの探索へ入っていく。同時に、尚人自身の身体の不調もここで表に出る。怪異と現実の不具合が同じ室内の乾きとして並び、次話以降、尚人が「外へ出て拾う」流れに接続する。




