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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第一章――「最上階の朝、甘い風」

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第1話――「湿った熱、最上階の静けさ」

 2026年、ホーチミン。早乙女尚人は自分の高層ビル最上階で、空き部屋から漏れる声と水音を聞いた。返事の断片は『1986年』『関東』。失踪した叔父の影がよみがえり、尚人は手元の資金と人脈を使って手掛かりを拾いに行く。

 (2026年1月5日月曜日)


 尚人〈62〉はホーチミンの空港を出た瞬間、湿った熱気に顔を撫でられた。肌の上に薄い膜ができる。排気ガスの匂いに、甘い果物の匂いが混ざる。遠くでクラクションが切れ目なく鳴り、熱気が道路にこもっていた。


 日本では、早乙女不動産の社長職を息子の悠真〈38〉に譲った。引き継ぎは書類の山で終わったが、最後の印鑑を押したとき、肩の奥で小さく何かが外れた。悠真はまだ若いが、数字にも人にも強い。


 尚人は出発前、悠真の机の前で一度だけ言った。「困ったら連絡しろ。夜中でも構わない」。それ以上は言わず、言い過ぎないように口を閉じた。


 車は夕方の渋滞に吸い込まれ、バイクの群れが隙間を縫っていく。窓を少し開けると、屋台の炭火の匂いが飛び込んできた。肉の脂が焦げる匂い、香草の青い匂い、濃いコーヒーの匂いが混じる。尚人は喉の奥に残る乾きを舌で確かめ、冷えた水をひと口飲んだ。


 やがて視界の奥に、自分のビルが立った。地下3階、地上30階。ガラスの壁が夕陽を受け、金色の筋を何本も走らせている。入口の石床は磨き上げられ、踏むと靴底が軽く鳴った。ロビーは冷房が効き、外の湿気が一気に引く。金属の涼しい匂いと、柑橘系の洗剤の匂いがした。


 エレベーターは静かに扉を閉め、上へ吸い上げられた。耳の奥がわずかに詰まり、表示の数字が滑るように増える。最上階の扉が開いたとき、音が一段落ちた。街の騒音はガラスの向こうへ退き、ここには空調の低い唸りと、自分の足音だけが残った。


 尚人が使うのは、最上階のフロアすべてだ。窓際に長いソファがあり、書斎には日本の本が並び、寝室の奥には小さなトレーニング機材も置いてある。床は木目のやわらかい艶を出し、裸足で歩くと温度が一定だった。専属の掃除婦が日中に入り、床もガラスも光らせている。その仕上げの匂いが、まだうっすら残っていた。


 ◇ ◇ ◇


 尚人は荷ほどきの途中でスマホを開き、近場のボクシングジムをいくつか眺めた。リングがある店が見つかった。観光客向けの体験ではなく、汗を流すための場所だ。


 尚人は学生のころからボクシングをやっていた。大阪のジムに通い、プロを目指すかどうかで迷った時期もある。声をかけられたこともあった。身長は当時でも186cmあり、リーチの長さが武器だった。ジャブが届く距離が広い。相手が踏み込む前に止められる。


 尚人はそれを自分の手で確かめるように、今でも時々グローブを握りたくなる。


 尚人はシャツを脱ぎ、薄いスポーツウェアに着替えた。鏡に映る自分の体は、若いころほどの切れはないが、崩れてはいない。身長は190cm、体重は86kgある。骨格が大きいぶん、服の上からでも輪郭が残る。尚人は首を回し、肩を落として呼吸を整えた。


 尚人が廊下へ出ると、冷房の風が汗の出る前の皮膚を冷やした。エレベーターを降り、ロビーを抜ける。外へ出た瞬間、湿った熱気が戻ってくる。車道はバイクの流れが切れず、クラクションが短く鳴った。


 尚人はドライバーに住所を見せ、手早く言った。「ここへ頼む。往復でいい」。


 ジムは大通りから少し入った建物にあった。入口の上に、白い英字でGIONAMBOXINGCLUBと出ていた。古い蛍光灯が一部だけちらつき、看板の端が薄く汚れていた。扉を開けると空気が変わる。


 汗とゴムと、消毒の匂いが混じっている。奥にリングが見えた。ロープの影が床に落ち、ミットを叩く乾いた音が一定の間隔で響く。英語混じりの声が飛び、若い男が縄跳びを続けている。


 受付の男が近づいてきた。尚人は名乗り、要点だけ伝えた。「運動しに来た。昔、ボクシングをやっていた。今日は軽く動けるメニューでいい」。男は尚人の体格を一度見て、うなずいた。話が早い。


 尚人はロッカーで手首にバンテージを巻いた。布が指の間を通り、手の甲で重なる。引くと血が少し集まり、掌が温かくなる。久しぶりでも手順は体が覚えていた。グローブをはめると、革の匂いが鼻に入った。


 最初は縄跳びだった。床が微かに鳴り、足首の関節がだんだんほぐれる。次にシャドーに移る。ジャブを伸ばし、右を返し、左を回す。腰が遅れると拳が軽くなる。尚人は呼吸のリズムを優先し、無理に速くしなかった。


 トレーナーがミットを構えた。年は40代半ばで、腕の血管が浮いている。尚人は距離を測り、ジャブを当てる。次の瞬間に右を返す。ミットが受ける音が硬い。


 尚人は踏み込みを深くしすぎず、体を小さく使った。若いころの癖で前へ出ると、戻りが遅れる。ここは体に合わせて抑える。


 ミットが終わると、サンドバッグに移った。尚人はまずジャブだけを続けた。長い腕が真っすぐ伸び、袋の揺れが一定になる。肩に余計な力が入ると、肘が落ちる。尚人は拳を戻し、ガードを上げ直す。パンチは打って終わりではない。戻して初めて一連だ。


 トレーナーが言った。「背が高い。ジャブがいい。試合は?」


 尚人は笑わずに答えた。「アマで出た。14戦、全部勝った。12KOだ。だがプロには行かなかった」


 トレーナーは一瞬だけ目を細め、すぐに声の調子を戻した。「なるほど。今日は軽めでいい。動きだけ整えよう」


 最後は軽いマスの動きだった。相手は若いが、強く当ててこない。尚人も顔を狙わない。距離を外し、肩で受け、足で逃げる。


 尚人のジャブが先に届くと、相手の踏み込みが止まる。尚人はそこで追わず、間合いを戻す。勝ち負けではない。自分の体を確認するための時間だ。


 練習が終わると、尚人は汗でシャツが重くなっているのに気づいた。喉が乾き、心拍が落ちていく。ジムの水は冷たく、胃に落ちる感覚がはっきりした。


 尚人はタオルで首筋を拭き、手短に礼を言った。「また来る」


 外へ出ると、夕方の空気はまだ熱い。だが、さっきまでの室内の音が耳に残っていて、街のクラクションが少し遠く感じた。尚人は車に乗り込み、背もたれに肩を預けた。体が軽い。自分の一日が、きちんと始まった気がした。


 帰りの車中で、尚人はスマホの予定に『ジオナム午前』と入れた。


 ◇ ◇ ◇


 リビングの入口で、若い女が一礼した。名はミン・ハ〈24〉だ。ベトナム南部の村の出身で、家族は母と弟2人、妹1人だ。父は交通事故で働けなくなり、家の収入は彼女の送金が大半を占めている。ミン・ハは高校を出て市内に出て、ホテルのランドリーで働いた。そこで覚えた日本語を足がかりに、尚人の住み込みの手伝いになった。


 ミン・ハには同い年の恋人がいる。名はグエン・クアン・ミン〈24〉だ。市内の冷凍倉庫と小さな食品工場を回る保守の仕事をしていて、冷凍庫や冷蔵設備の癖に詳しい。ミンは休みの日には、ミン・ハの家族の用事を手伝い、彼女の送金が滞らないよう段取りを支えてきた。


 尚人も、その事情は最初に聞いていた。住み込みで働くなら、生活の境界は先に引いておいたほうがいい。尚人はそこを曖昧にしない。


 ミン・ハは髪をまとめ、淡い色のブラウスに黒いスカートを合わせていた。香水は強くない。石鹸とシャンプーの匂いが、近づくとわずかにする。彼女は尚人の上着を受け取り、指先で襟の形を整えた。布の上を指が滑る手つきに、慣れがあった。


 ミン・ハは小さく頭を下げて言った。「おかえりなさい、ナオトさん。お疲れでしょう。先にお手拭きを用意しています」


 日本語の音はまだ硬いが、言い方は柔らかい。尚人は頷き、喉の奥の熱を息で逃がした。「ただいま。外は相変わらず暑いな」。ミン・ハは微笑んで、冷えたタオルを差し出した。「よかったら、額に当ててください。少し楽になります」。タオルは水を含んで重く、額に当てると皮膚が一気に冷えた。


 尚人は4年前に妻を病気で亡くしてから、体力も気力も落ちたままだった。ミン・ハは偶然その事実を知り、まず身体から立て直そうと決め、朝から台所に立っていた。


 テーブルに置かれたのは、黒鶏と薬草を煮出した粥と、蒸したうなぎの小皿だった。湯気は薄く、なつめの甘い匂いと生姜の辛さが混じって立ち上がる。尚人が箸を入れると黒鶏の身はほろりと崩れ、粥はとろりと口に広がった。胡椒が遅れて喉の奥を温め、汗がうっすら滲む。


 ミン・ハは向かいに座らず、少し離れた位置で白湯を足しながら尚人の様子を見ていた。必要なときだけ近づく。距離の取り方も、彼女なりの礼儀だった。


 食後、ミン・ハは小さな封筒を引き出しにしまい、鍵をかけた。尚人はそれを見ている。数字の話はしないが、送金が途切れない程度には、きちんと渡している。ミン・ハには自分の部屋があり、外出の自由もある。恋人のミンとは、週に数回、仕事終わりに少しだけ会う。会えない日は、電話で用件だけを確かめる。


 尚人にとってそれは、雇い主と従業員の間で当然に守られるべき生活だった。


 窓の外では、川のほうから湿った風が上がってきて、ガラスに薄い曇りを作った。街の光が細かく瞬き、遠くのバイクの音が寄せては引く。尚人はコーヒーをひと口飲み、舌に残る苦みで頭を整えた。疲れは翌日に残りやすい。だからこそ、ここに戻った。働く場所ではなく、休む場所を自分で持つためだ。


 しばらくして、ミン・ハが書類の束を静かに置いた。彼女は声を落として言った。「管理の人が、さっき報告を置いていきました。明日の朝、ロビーで少しお話したいそうです」。


 尚人は目を落とし、入退去の報告に目を通した。数日前に退去した夫婦がいた。荷物はすべて運び出され、室内は空だ。鍵は管理室にある。尚人は紙の端を指で押さえ、インクの匂いを確かめるように息をした。


 尚人は書類から目を上げて言った。「明日、その部屋を見に行く」


 ミン・ハは少し迷ってから言った。「私もご一緒します。鍵の受け取りや、管理の人への連絡が必要なら、私が動けます」。尚人は「いい」と言いかけて、やめた。掃除は掃除婦がやる。だが自分のビルの空気を、自分の目で確かめたかった。


 空き部屋は放っておくと匂いが変わる。湿気が溜まり、金属が鈍る。誰かの生活が抜けた部屋は、音が妙に響く。


 その夜、尚人はベッドに入っても、すぐには眠れなかった。空調の風が一定の音で流れ、シーツが指先にさらりと触れる。廊下で足音が止まり、扉の向こうで確認する気配が一度だけした。すぐに離れていく。ミン・ハが仕事の区切りを付け、自分の部屋へ戻るだけだ。


 尚人は天井を見たまま言った。「ミン・ハ、もう休め。明日は早い」。返事は小さく、けれどはっきりしていた。「分かりました。おやすみなさい、ナオトさん」。尚人は息を吐いて言った。「おやすみ」


 翌日の予定は単純だ。空き部屋を見て、必要があれば手を入れる。それだけのはずだった。尚人はまだ、その部屋に残っているものが、埃や匂いだけではないことを知らないまま、目を閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 ミン・ハが化粧を落とし、シャワーを浴びようとしていた時、スマホが震えた。母のリエン〈40〉だった。


 「ミン・ハ。会長さんは帰ってきたかい?」


 「うん。帰ってきたよ」


 「薬膳料理はお出ししたかい?」


 「ちゃんと作ってお出ししたよ。でも、お母さん。あれって効くの?」


 「てきめんだよ。明日の朝にはビンビンだよ」


 「もう。お母さん、変なこと言わないでよ」


 「会長もまだ若いからね。そうなったら、お前も口説かれるかもね」


 「会長は確かに素敵だけど。身長も高いしね。190cmあるんだって」


 「そうなの? そんなに高い人は、この辺じゃ見かけないね」


 「小耳に挟んだんだけど、会長の家系って、60歳まで身長もあっちの方も毎年ちょっとずつ伸びるんだってさ」


 「ええ!! そんなところまで伸びるの? 身長も高いから、きっと馬並みだろうね!!」


 「お母さん。私には恋人がいるから、そういうのは要らないよ」


 「お前が駄目なら私が立候補するわ。将来、会長夫人になってやるから」


 ミン・ハは、そこで会話を切り上げ、シャワーを浴びた。

本話では、尚人が社長職を息子に譲り、2026年のホーチミン最上階へ戻るまでの助走を描いた。湿った熱気、ジムの汗、薬膳の匂い、規則正しい生活。その一つ一つで身体と環境を整えている。空き部屋の謎はまだ動かない。しかし、日常が静かに整えられたからこそ、次に起きる異変ははっきり浮かび上がる。物語はここから動き出す。

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